第一話 ぶどう売りの少女
強い風が吹いた。大きなうなりを伴った、強い強い風。
私の髪の毛が舞う。目の前が、一瞬見えなくなった。
風がやみ、私は目を開ける。気づくと私の目の前に、少女が立っていた。その髪は肩の辺りで切りそろえられていて、白く丸みを帯びた顔はきれいに整っている。
その少女は、その華奢な体の数倍はあるだろう、大きな荷車を引いていた。荷車にはたくさんの箱が積まれていた。大きな木箱、小さな赤い箱、中にはプリンカップのようなものまである。
少女は私の目をまっすぐ見つめて、こう言った。
「お姉さん、ぶどうは要りませんか」
ぶどう、と私は呟く。どうして、ぶどうなのだろう? そんな私の疑問をよそに、少女は笑顔を浮かべて返す。
「そう、ぶどう。けれど、ただのぶどうじゃないのよ。その辺りのお店で売っているような代物じゃないの。ほら、見ていてね」
そう言うと、少女は荷車の中に入っているたくさんの箱からひとつを取り出して、開いた。その中には、大きなぶどうの実が一粒入っていた。
少女は白く、長いその指でぶどうの実を箱の中から取り出す。紫色の果実は、みずみずしく光を反射して輝いていた。
少女はぶどうを少のあいだ見つめ、直後に皮も剥かずに口に放り込んだ。ごくり、と細い喉が動く。
途端に、するするという音を立てて少女の髪が伸び始めた。美しい黒髪が、早送りされたかのように長さを増していく。肩までの長さだったはずの黒髪は、気がつくと胸の辺りまで伸びていた。
緩やかに吹く風が、長くなった美しい髪を揺らす。私には、目の前の光景が信じられなかった。額に汗が浮かぶ。
しかし、少女は私を気にすることなく、花のような笑みを浮かべて言った。
「どう? すてきでしょう。この髪はね、私の知り合いのお姉さんが売ってくれったものなのよ」
売ってくれたもの? そう私は呟いた。売ってくれたもの。何を? そう、髪の毛。髪の毛を売る。どうして、ぶどうを食べると髪の毛が伸びるの?
私の疑問が尽きることはない。けれど、それを音にして外に出すことはない。
少女は、私の質問に答える。
「そうよ。この荷車の中には、欲しい物がなんでも揃っているの。名声、美貌、命。みんな、お金と引き替えにやり取りをするの。何かが欲しければ、私に対価を払えば手に入れることが出来るわ」
少女は笑う。楽しそうに。心から楽しそうに笑う。そして、話を続ける。
「その反対に、お金がほしい人は私に大切なものを売るの。もちろん、売り物になるようなものをね」
大切なもの。それは、どんなもの? 私は再び質問する。
大きくくりくりした瞳が、驚いたように私の目を見る。少女の笑顔は消え、少し困ったような表情になる。白い指が、赤く小さな唇に考え込むようなしぐさで軽く触れる。眉間にしわが寄っている。
「それは、すこし難しい質問ね。簡単に言うと、顧客が高いお金を出してでも欲しがるものだわ。人体、感情、能力、世間の評判。オーソドックスな商品はこんな感じかしら」
なるほど。大切なものは、みんなが欲しがるものなんだ。私はそう理解した。
それじゃあ、私の大切なものは何だろう。何か、大切なものなどあっただろうか。
私は考え込む。私の大切なもの。思い出せない。何か、何かがあったはずなのに。
その私の正面で、少女の声がした。
「ええと、お姉さんの欲しい物は――これね」
少女は迷うことなく、荷車からひとつの箱を取り出した。小さな、品のある木箱だった。
どこかで見たような気がする。
私の欲しかった物。ずっと求めていたもの。きっとそうだ。
目が離せなくなる。何の変哲もない箱なのに、私の本能が語りかける。これだ。私の大切なものが、この中にある。早く。早く、これを手に入れないといけない。
私はそれを手に取るために、腕を伸ばした。いや、伸ばそうとした。けれど、いくら待っても私の両腕が木箱に届くことはない。私の視界には、ただただ少女とこの箱だけが映るだけで、私の腕が私の視界に入ってくることはない。
どうして? 私の腕は、どうして動かないの?
私は目の前の木箱から、自分の腕に目を移した。私は、自分の腕を見た。見たはずだった。
私の腕のあるところ。体の両側。
そこには、何もなかった。
そこには、あるはずの私の両腕が無かった。肩から先が、消え去っていたのだ。
腕がない。手がない。私の手、私の腕。私の腕はどこ? 私の大切な、大切な両腕は!
「お姉さん、覚えてないの?」
少女の声がする。少女は笑顔でこう言った。
少女の張り付いたような笑顔が、目に鮮やかに焼きつく。
時間が、緩やかに感じる。
お願い。その先は言わないで。
その先は、やめて。
「このあいだ売ってくれたじゃない」
少女の声。私の願いが聞き届けられることは、ない。
「あなたのその両腕と、少しばかりの記憶を」
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