一本の傘
降るか降るかと思いながら空は曇りの状態を保っていたが、夕方を過ぎた頃ついに空がアスファルトを濡らし始めた。
朝からニュースでは散々雨が降るといわれていたのに無用心な人は居るもので、棚一杯にあったビニール傘も気づけば残り一本のみとなっていた。
「いらっしゃいませー」
自動ドアの駆動音の後に入店を告げるベルが鳴る。反射的に掛け声を返し、様子を見てみると入ってきたのは案の定雨にやられた若い男女。
一人はスーツ姿のOLで、もう一人はブレザー姿の学生。高校生だろうか。
二人とも目的は傘のようだからすぐにレジに来るだろうとカウンターに戻って待ち構えていると、なにやら雲行きが怪しい。
傘売り場に陣取って、濡れ鼠のままお互いにらみ合っている。
「ねえ。この傘譲ってくれない? レディーファーストって言うでしょ」
沈黙を破ったのは女の方だった。女の視線に釣られて少年が顔を上げる。視線の先は一本の傘。一本しかない傘。
それにしても女の語調は高圧的で強い。まるで譲るのが当然といった風情だ。少年も反発を抱いたらしく、冷ややかな声で反論する。
「でもお姉さんは大人じゃん。大人だったらタクシーにでも乗って帰ればいいでしょ」
少年の言うことは一理ある。幸いこのコンビニは駅前で、ちょっと戻ればタクシー乗り場にたどり着ける。あと少し濡れるのを我慢すれば結局は大きく濡れずに済むだろう。もちろん懐に余裕があればの話だが。
女は少年の一方的な決め付けに少々いらついているようで、持ち上げた握り拳をわなわなと震えさせている。手の早そうな人だ。
「一々雨に降られてタクシー乗るなんてセレブかあたしは! いいから大人しく譲りなさい」
言葉で譲らせることはあきらめたようで、女が強引に傘を取りにかかる。
「なら我慢しなよ。少し節約すれば?」
女が取れないように少年は身体を割り込ませて傘を守る。
「傘の一本くらい買えるっての!」
二人の熱の高まりようにこちらが心配になってきた。お店としては当然売れてくれれば相手は誰でもいいわけだから、早く納得してどちらかが買って出て行って欲しい。
三人しかいない店内が非常に気まずい空間になっていた。
「いい加減よこせ、ババア! もうボロボロなんだから雨に濡れるくらい気にすんな!」
すでに傘の取り合いが綱引きの様相を呈している。女の方が柄を持っている分有利だろうか。少年の方が力は有りそうなので五分五分か。
「誰がババアだクソガキ! あんたこそ若いんだからちょっとくらいじゃ風邪引かないでしょ! だいたいあたしはまだ二十四だ!」
「充分ババアじゃん! 僕が大学出る頃には三十路だし!」
「そういう怖いこと言うな! あたしだってね、ちょっとは気遣ってるんだから!」
もはやお互い傘のことは目に入っていない。相手をやり込めることに目的が移ってしまっている。この状況はこちらで収拾をつけないといけないのだろうか。果てしなく嫌だ。
だが傘はもうみしみしと悲鳴を上げている。ここが限界点だ。意を決して二人の間に入り込む。
「お客さん、喧嘩なら外で――」
「ていぃっ!」
二人の間に入り込んだ次の瞬間、女の空手チョップが左即頭部に突き刺さった。
「ぐぁ、目が……」
割り込んで五秒で後悔した。素人のチョップではない。何か格闘技を嗜んでいるのかも知れない。
「あ。す、すみません! 大丈夫ですか!」
「あーあ、駄目だよ迷惑かけちゃ」
「うっさい! ……本当にごめんなさい。すこし見せてもらえませんか」
そういってチョップが突き刺さった当たりを細い手でなで始める。痛みで視界がにじんでいるのが残念だが、間近で見ると結構な美人だ。彼女を相手に気圧されない少年を少し尊敬した。
ともあれ怪我の功名。二人ともチョップの衝撃で頭を冷やしてくれたらしい。
「あたた……もう大丈夫ですよ、すみません。それで傘なんですけど」
話題を戻すと先ほどまでのひり付いた空気も戻ってくる。それでも手を出さないで居てくれるだけありがたい。
できるだけ刺激しないように柔らかい口調を意識して話す。
「傘が一本しかないのはどうしようもないことなので、今回は家が遠い方にお譲りしたいと思うのですがどうでしょう? 少しは公平になると思うんですが」
少年は提案に不満げだったが、女の方はこちらに引け目を感じているらしく大人しく頷く。
「どうせこのまま喧嘩したって埒が明かないんだから。せっかくだし決めてもらいましょ」
「……そこまで言うならそれでいいよ」
女の方が一歩引いて見せることで少年も納得してくれたようだ。
二人の同意が得られて心底ほっとした。笑顔でレジまで向かい地図を取り出す。
「さて。お二人のお住まいはどの辺りですか?」
まず少年が先に指差す。駅からだと二十分はかかるだろうか。傘を差さずに帰るにはいささか辛い距離だ。
その場所を見てなにやら女が頭を抱えている。少年の方は続かない女を咎め立てるように見上げていた。
「ねえ、あんたって***に住んでるの?」
「そうだけど。それが?」
「あたしもそこに住んでるのよ。ご近所さんだったのね」
女は脱力してため息一つ。どうも同じマンションの住人同士だったようだ。面白い縁もあるものだと感心したが、問題は解決していない。これは困った。
「……なあ」
俯き加減の少年の声にどきりとした。またここで喧嘩を始める気だろうか。
「なによ」
「だったら二人で使おうぜ」
ぽりぽりと頬をかきながら少年がつぶやく。女の方には断じて視線を合わせまいと顔はそっぽを向かせている。本人はたいそう恥ずかしいのだろうが、傍から見ている分には微笑ましい姿だ。
女の方も少年に中てられたらしく、そわそわと落ち着かない。
目の前では若い男女がもじもじと照れている光景。先ほどとは別の意味で居づらい場となってしまった。
「ま、まあ。そのほうが効率いいし。ナイトさんにはしっかりとエスコートしてもらいますか」
「それ、素か? 恥ずかしい奴だな」
「う、うるさいわね! 昔から女を送るのはナイトか狼って相場が決まってるの。それならナイトが良いに決まってるでしょ」
女の顔が耳まで赤くなっている。果たして何に対して照れているのか。聞きたくも無いことだ。
そして二人は五百円のビニール傘を相合傘して店を出て行った。
「それにしても口が悪いね。女子にもてないでしょう?」
「別に。お姉さんが話しやすかっただけ」
去り際にこんな台詞まで残して。
お陰様で残りの就労時間を疲労と共に過ごすことになってしまった。いつか謝りに来て欲しい。
「まったく。一本の傘でよくもまあアレだけ騒げたもんだ」
「はあ。それは大変でしたね」
先ほどのありましを同僚に話し、大して気の無い返事を貰った後。傘を持って店を出ようと事務所を見回す。
「あれ、傘は?」
「昨日もって帰ったじゃないですか」
このところ雨が降る機会も無かったので置き傘を持って帰ったことをたった今思い出す。
雨の日に役立たない置き傘に何の意味があるだろうか。
「ねえ……」
「貸しませんよ」
「だよねー」
たった一本の傘も確保できないなんて、無用心もいいところだ。
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