九 一人じゃない
九
午前中のプログラムが終了し、休憩時間になった。
一〇〇メートル走では、白組がトップを独占していたが、その後の下級生が行う競技で、他の組に差をつけられてしまった。中でも、二年生が対象になる、『借り物競走』はひどいものだった。
白組以外はすんなりとモノを見つけることが出来たが、白組はというと、いつまで経っても目的の物が見つからないのだ。参加していた生徒は慌てふためき、ついには、出場していた生徒が泣き出してしまった。結局、その試合では白組は大敗を期した。
他の競技の結果もよろしくなく、一〇〇メートル走での圧倒的勝利は、なかったものになってしまった。現在の紅組、青組との点差は小さくはない。
鹿島は母親、そして父親と共に昼食を食べた。その時間は、彼にとって、とても心の安らぐ時だった。父親からは「よくやった」と褒められた。今までにここまで褒めてもらったことはあまりなかった。頑張って良かった、と鹿島は思った。また、父親と母親がいることのありがたみを噛みしめた。藤堂には、こんな思いは出来ないのだ。
昼食を食べ終わると、藤堂のいる所へと向かった。
しかし、彼はどこにも見当たらなかった。鹿島は諦めて両親の元へ帰ろうとした、その時。藤堂が姿を現した。鹿島は素早く藤堂に近寄り、笑顔で話しかけた。
「もう昼ごはん食べた?」
「うん」
藤堂に元気がない。
鹿島はじっと藤堂の顔を見つめてみる。そして察した。
「ごめん。来てない……んだよな?」
「うん。お母さんは、お父さんを見ておかないと駄目なんだって。晴れの舞台……見てほしかったな」
藤堂は少しはにかんでみせる。しかし、それが本心からきているものではないことは明らかだった。
「元気出せよ。藤堂が頑張らなくちゃ、お父さんも助からないんだろ? お父さんを助けられるのは、お医者さんじゃなくて、藤堂なんだぜ? もしリレーで勝ったら、嫌になるほど聞かせてやれよ。僕は勝ったんだって。信じてくれなかったら、その時は、俺は証言してやるよ」
とにかく思いついた励ましの言葉を並べ立てた。それに意味があるかどうかは分からないが、何も言わないよりはマシだと、鹿島は判断した。
「でも、やっぱりさびしいんだ。みんなはああやって、楽しそうにしているのに、僕には誰もいない。僕は独りぼっちだ」
「俺がいるじゃんか」
鹿島は少しすねた風な顔をした。小さく頬を膨らませ、少しだけ顔を下に向けている。
「鹿島君」
「俺がいるだろ! そりゃ一ヶ月しか一緒にいなかったし、クラス一緒だったのにずっと話をしなかったけど……。それでも、藤堂には俺がいるじゃん。一人じゃないだろ!」
藤堂の肩を両手でつかみ、揺さぶった。
藤堂は小さく笑う。
「うん、僕には鹿島君がいる。ごめんね、最後の最後まで弱気で。僕、最後まで頑張るよ。ありがとう。僕は、一人じゃないよね」
それから、鹿島は彼に何も言うことが出来なかった。一人の肉親に頼ることも出来ない藤堂を心の底から憐れんでいた。その行為が良い行いだとは思えない。けれども、そうするしか出来なかった。親がいる鹿島に、親のいない藤堂の気持ちは理解出来ない。
自分の親が危ない状況にいる時、自分に親がいない時、自分はどういう気持ちになるだろうか、と鹿島は想像した。けれども、今、日常的に会っている人間がいなくなったり、病気で危なくなることなど、考えられなかった。どれだけ想像を働かせても、親の存在を消すことなんて出来なかった。藤堂の存在も、消すことが出来ない。
朝起きて、一緒にご飯を食べて、挨拶をして、行ってきますの挨拶をして、夕方にはまた会って、晩ご飯を食べて、夜にはおやすみの挨拶をする。それが当たり前のことなのだ。人は、日常が崩壊する時を知らず、またその時を考えようともしない。当たり前が、当たり前に存在すると錯覚している。それは、いつ崩壊してもおかしくないのにも関わらず、だ。日常を不変のものと疑わない。しかし、それは異常なことではない。それが当たり前なのだ。
鹿島は、藤堂と別れると、真っ直ぐ両親の元へ向かった。急に愛しくなったのだ。親のいる今のうちに、甘えておきたかった。
日常が崩壊する悲しさを知りたくなかった。