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八 疾走


     八 


 運動会本番。ついにやってきた大舞台。空は青く晴れ渡り、雲ひとつない。まるで、早くも彼の勝利を祝福しているかのように見える天気だ。

 鹿島は昨日の晩、なかなか眠ることが出来なかった。とうとう自分の努力の成果を見せられるのだ。これほど嬉しいことはない。クラスの奴らは、きっと度肝を抜かれるだろう。そう考えるだけでにやけが止まらなかった。


 昨日、土曜日。小学校では最後のリハーサルが行われた。入場から、選手宣誓、選手の招集、応援合戦、退場まで。一部の競技については、模擬試合も行われた。クラス対抗リレーも行われたが、誰一人として本気で走る者はいなかった。リレーメンバー全員が、本番で驚かせてやろうと考えているのだ。子供の心理は実に単純で、分かりやすい。


 鹿島の今日の体調は万全だ。痛いところもかゆいところも、一つもない。布団から起き上がり、軽くジャンプをしてみる。そして、自分の体が軽いことに気付く。

 二人は、運動会本番三日前から特訓を中止することにした。理由は単純なもので、本番に疲れがきて走れなくなったら駄目だ、というものだった。これは藤堂の提案だ。おそらく、藤堂が止めなければ、本番前日まで根詰めて特訓をしていただろう。この体の軽さは、藤堂がいたからこそ実現したものだ。彼には、感謝しても感謝し尽くせない。


 鹿島は体操服に着替えて、小さめのリュックを背負って学校へと向かう。冬が近い秋の朝は、ひどく寒かった。鹿島は少し体を丸めて歩いた。


 教室に到着すると、ほぼ全員が顔を揃えていた。さすがに運動会本番に遅刻する人間はいないようだ。教室全体が張りつめた空気になっていて、普段からおちゃらけている生徒もおとなしかった。

 鹿島が席に着くと、早速呼び出しを受けた。彼のチームメンバーからだ。


「おい、トシ。足とか痛くないか?」

 柄にもなく、一人の男子生徒が鹿島の肩に腕を回す。

「無理して、体を壊したら、元も子もない」

「俺たちは、トシを心配して言ってるんだ」


「大丈夫だから」

 鹿島がそう言うと、他の三人は舌打ちをして去っていった。

 彼らの言いたいことは分かっていた。棄権しろ、と遠回しに言っているのだ。決して、鹿島の身を案じているわけではない。まだ、彼らは鹿島のことを役に立たないノロマだと思っているのだろう。

 藤堂も同じことをされているのではないか、と思い、教室内を見渡してみる。案の定、藤堂の姿は、彼のチームメンバーの姿と共に消え去っていた。鹿島は心配に思い、教室を出て行こうとした瞬間、藤堂が姿を見せた。

 彼の顔は笑顔だ。傷一つない。

「どうしたの、鹿島君」

「お前、大丈夫だった? あいつらに何かされなかったか?」

「ふふ。言ってやったよ。お前らにも、他のクラスの奴にも負けないって。そしたら黙ってどこかに行っちゃったよ」

「ぷっ」

 二人は、入口の前で顔を見合わせて笑った。藤堂と特訓を始めてから一ヶ月。これほどまで笑ったことはなかった。どちらかといえば、泣いている時の方が多かった。今、こうして笑っていられるのも、藤堂のおかげだと鹿島は心の中で感謝した。



 とうとう運動会が開催される時がやってきた。学年全員が運動場に出て、入場門の外でクラスごとに整列して待機する。鹿島には、まだ心にゆとりがある。藤堂は鹿島よりも後ろに並んでいるので、顔をうかがうことは出来ないが、恐らく余裕があるだろう。だが、他の生徒はどうだろう。きっと緊張して、あまり話したくない気分だろう。周囲の会話をしている生徒すべてが、緊張を紛らわせるために話しているのではないかと思われた。

 

『これより、第二十九回運動会を開催します!』


 と、女性の声でアナウンスが聞こえる。とうとう運動会が開催される。鹿島は心の中で気合いを入れる。アメリカ合衆国の行進曲である、『星条旗よ、永遠なれ』がスピーカーから流れ始める。

『紅組の入場です! 拍手でお迎えください!』

 それを合図に、先頭を六年生の応援団長が大きな旗を持って歩いて行く。旗には燃え盛る炎とバラが描かれている。まさに紅組の名にふさわしいと言える。

 学年順に入場門から出て行き、またアナウンスが聞こえる。

『僕らの心は燃えている! 僕たちに待っているのは完全燃焼、完全勝利だ!』

 紅組のキャッチフレーズだ。なかなかセンスがある。

 応援団長について行くように、学年順に入場門から出て行く。手の動きも、足の動きもきっちりと整っている。

『続いて、白組の入場です!』

 鹿島たちのチームだ。自然と背筋がピンと張る。

 白組の応援団長が、旗を持って意気揚々と飛び出していく。白組の旗には淡い黄色の月と真っ白な狼が描かれている。狼は口を大きく広げ、何かに向かって突進していっている。

『月のような繊細さ、狼のような豪快さ! 二つを合わせもつ僕らに勝てるやつはいない! 油断をすると噛みつくぞ!』

 最後の一言が余計だ、と行進をしながら鹿島は思った。

 入場門から出て、運動場をぐるりと一周回る。運動場には、すでに多くの保護者が来ており、より一層緊張感を高める。運動会本部にはテントが張られていて、そこでアナウンスが行われている。そして、その横に救護班があるようだ。黒田もそこにいる。もしかすれば、ここにお世話になるかもしれない。

 空には万国旗が飾られ、随所にスピーカーが取り付けられている。壇上の後ろに、国旗が掲げられている。

『最後は、青組の入場です!』

 他の組と同じように、応援団長が先陣を切って出てくる。彼らの旗には泡と川、そしてペンギンが描かれていた。

『冷静に戦い、冷静に勝つ。水のようにしたたかに、清らかな勝利を僕らは勝ち取ります!』

 常に冷静ということはいいものだ。変に力を入れ、興奮しても勝利は勝ち取れない。

 こうして、すべての組の入場が終わった。


 運動場がしんと静まり返る。壇上に校長が登ってきた。普段はスーツだが、今日は紺色のジャージを着ている。教職員が対象となるリレーがあるのだ。


 校長はマイクを手に取り、演説を始めた。視線の先は保護者席だ。

『秋も深まり、良い季節となりました。まずは、ご来賓の方々、保護者の皆さま、ご来場ありがとうございます。彼らは今日まで一生懸命に頑張ってきました。舞台は整っています。後は、お子様方を信じて、暖かく見守っていただきたく存じます』

 ごほん、と一つ咳をして続ける。

『そして、生徒の皆さん』

 校長が生徒の方を見る。

『昨年オリンピックで活躍された男性は知っていますか? 彼は、みんなから金メダルを期待されていたのですが、惜しくも銅メダルを取ることしか出来ませんでした。彼は悔しかったでしょう。優勝者の人が憎かったでしょう。ですが、彼は優勝者を称えました。皆さんも、彼を見習って、どの組が優勝しても、誰が勝っても負けても、拍手で称えてあげてください。それでは、あまり長くなると皆さんのやる気がなくなってしまうので、このあたりで終わりにします。今日は、全力で頑張ってください!』

 生徒たちから拍手が送られる。


 こういう、一つのエピソードを元にした話というものは心に響く。演説というものは長ければ長くなるほどに、面倒くさく、胡散臭くなるものだ。この校長は良く分かっている。短い話で、的確に生徒たちの緊張を和らげた。良い校長だ。

『選手宣誓! 生徒代表は前へ』

「はい!」

 三つの声がする。

 三人の生徒は、右手を上げ、声を張り上げる。

「私たちは、スポーツマンシップに乗っ取り、正々堂々と戦うことをここに誓います!」

 後ろから旗を持った生徒がやってきて、三人に各団旗を手渡す。代表の三人はその旗を掲げ、先端を一か所に集める。そして、大きな拍手がわき上がった。

 それからは、退屈なものだった。来賓の挨拶も、保護者代表の話も、校歌斉唱も、国歌斉唱もだらだらと長く続き、苦痛だった。鹿島は終始ぼうっとしていた。まじめに聞いていたのは、校長の話と、選手宣誓だけだ。


 そして、終わりを告げる言葉が出てくる。

『これで、開会式を終わります。それでは、生徒の皆さんは応援席に戻ってください。六年生の男子・女子一〇〇メートル走に出場する人は、入場門に集まってください』


 早速の出番だ。しかし、本番はそこではないことを覚えておかなくてはいけない。本番はクラス対抗リレーなのだ。それまで、体力は温存しておく。

 入場門に、六年生全員が集まってくる。みんな緊張しているように見える。鹿島は、その群れの中に藤堂を見つけ、話しかける。

「緊張してる?」

「ううん。まだ大丈夫。だけど、スタートラインに立ったら緊張すると思う。鹿島君は?」

「俺は大丈夫。もう何も怖いものなんてないよ」

 鹿島は勢いよく胸を叩く。

 鹿島には、昨年以上の没落は考えられなかった。彼は、あれ以上の絶望も、失望もないと思っていた。鹿島が緊張していないのはこのためだ――去年以上にひどいことにはならないから大丈夫――

「きっと、藤堂も勝てるさ。リラックスしよう」

 鹿島は藤堂の背を叩く。

「でも、俺たちが勝つべきところはクラス対抗リレーだから。それまでは、力を温存しておこうと思う」

「僕は……この一〇〇メートルも本気で走るよ」

「そっか。あ、先生が呼んでる。そろそろ出番だ」

 入場門の方を見ると、六年生男百と書かれたプレートを持った教師が数人立っていた。鹿島は右から一列目の八番目に並ぶ。藤堂は二列目の一番目だ。


 一〇〇メートル走は、男子、女子に分かれて、合計一五試合が行われる。男子が八試合、女子が七試合だ。

『ただいまより、六年生男子一〇〇メートル走を行います!』

 試合開始を告げるアナウンスが流れる。そして、スピーカーから、今度は、『双頭の鷲の旗の下に』が流れ始めた。この曲は、ヨーゼフ・フランツ・ワーグナーが作曲したもので、運動会では定番の曲だ。

 軽快なリズムに合わせて選手が入場していく。そして、一直線に一〇〇メートル走のスタート地点へと向かう。曲が終わりかける頃に、全員がそこに整列した。


 『双頭の鷲の旗の下に』がスピーカーから聞こえなくなると、次は『天国と地獄』が流れ始めた。これも、運動会ではよく聞かれるものだろうと思う。この曲の作曲者はジャック・オッフェンバックだ。最初の数秒は静かな曲調だが、しばらくすると激しくなっていく。人のやる気を上げるには最適な曲だ。


 スタート地点に辿りついた生徒たちが、はちまきを頭に巻く。

『第一レース、位置について!』

 藤堂を含めて六人がスタートラインに立つ。学年でも、際立って足の速い生徒が一人混じっている。その生徒は、足首をゆっくりと回したり、首を回したりして軽いストレッチをしている。藤堂は黙って目をつむっていた。


 そして、全員がクラウチングスタートの構えをとる。


 頭を下げる。


 スターターが「よーい」という声をあげる。


 スターターピストルが天高く掲げられる。


 藤堂が腰を浮かせる。頭は上げない。


 火薬の爆発音が響く。


 全員が一斉に走り始める。


 彼らの後方には砂埃が舞いあがる。


 藤堂が前へ出る。


 その後を追うように、足の速い生徒がくる。


 二人は加速を増していく。


 足の速い生徒が藤堂を追い抜く。


 白いゴールテープを切る。


 藤堂は二着だった。


 藤堂は僅差で負けてしまった。


 鹿島は、その様子を、息をのんで見守っていた。周囲の歓声や応援などは、一切聞こえなかった。ただ、藤堂だけを見ていた。後ろから彼を見ていたので顔は見えなかったが、フォームは完璧だった。あそこまでに完璧な走りを見るのは初めてだった。藤堂は本番に強かったのだ。


 第一レースが終わると、間もなく第二レースが始まった。しかし、第二レースが始まってもなお、鹿島のクラスはざわめいていた。

「なんで藤堂が二着なんだ」

「あいつ、運動出来たんだ」

「俺たちも負けてられない」

 などと、様々な意見が飛び交っていた。中には、まぐれだと言いきる生徒もいた。が、これは間違いなく藤堂の努力の成果だった。人は、明確な目標を持った時、もっとも強くなる。彼にとっての目標は、『父親と共に自分も勝つ』ということだ。自分が負けてしまえば、父親も負けてしまうということが彼を強くしているのだ。

 それから、第三レース、第四レースと進行していった。そして、鹿島の番がやってきた。


 緊張はない。落ち着いている。


 ゆっくりと体を動かし、スタートラインに立つ。


 クラウチングスタートの構えをとり、練習を思い浮かべる。


 隣にいるのは藤堂だ。


 鹿島はそう思うことにする。


 スターターが掛け声をあげる。


 ゆっくりと腰を上げる。


 紙火薬が爆発する。


 直進し、素早く顔を上げる。


 腕を素早く振る。同時に足も動く。


 真っ直ぐ前だけを見て走る。


 はちまきが風にたなびく。


 素早く走るさまは忍者のようだ。


 真っ白な勝利の紐を切る。


 鹿島は一着だった。


 走り終えた鹿島は、一つ小さな溜息をつき、立ち止まった。全力は出していなかった。白組の応援席から、歓声が湧き上がる。スタート地点に並んでいるクラスメイトからも「すごいぞ!」という声が聞こえる。喜色満面だ。

「やった」

 鹿島は思わず口に出した。全力でかからない状態で勝利を勝ち取ったのだ。嬉しくないはずがない。これで全力を出せば、どれだけの勝利が待っているのか想像することは容易かった。

 走り終えた選手が並んでいる場所へ、鹿島は向かう。今も目の前では壮絶な戦いが繰り広げられている。今走っているのはクラスで一番足が早い生徒だ。とんでもないスピードで駆けて行く。結果は、もちろん圧勝だ。


 そうして、六年男子一〇〇メートル走は終了した。選手たちは退場門へ向かい、応援席へと戻る。

 応援席に戻ると、藤堂が鹿島に話しかけてきた。

「おめでとう、鹿島君」

「そっちこそ」

「まさかだったよ。一組のあの人に僅差まで追い詰めることが出来るなんて、考えもしなかった。鹿島君のおかげだよ、ありがとう」

「何が?」

「特訓につきあってくれたし、ライバル宣言までしてくれたよね。正直、あれがなかったらタイムは伸びなかったと思うよ」

 鹿島は藤堂の率直な感謝の言葉に、照れた。頭をかき、鼻を指でこすった。

「そういうのは、クラス対抗リレーで勝ってからだ」

 二人はまた、顔を見合せて笑った。最高に幸せだった。もう、鹿島と藤堂の勝利は約束されたようなものだった。たった一ヶ月で何が変わるものか、と人は言うが、何もしなかった人間には分かるまい。人は一ヶ月で変わるものだ。

「そうだね。これからが本番だしね」

 そうして二人が話していると、鹿島のリレーチームのメンバーの一人がやってきた。その生徒は複雑そうに、顔を歪めている。しかしその顔に、少しだけ申し訳なさそうな色が浮かんでいる。

「トシ。お前、本当は足早かったんだな。他の奴らの分も俺から謝っておくよ。今まで馬鹿にして本当にごめん」

 そう言うと、その生徒は深々と頭を垂れた。それを見た鹿島は、何とも言えない気分になった。見返すはずのクラス対抗リレー前に見返してしまった気分だった。彼の素直な気持ちは嬉しいが、もう少し後で言って欲しかった、と鹿島は思う。


「最後のクラス対抗リレー。一緒に頑張ろうな!」

 生徒が手を差し出した。鹿島は複雑な気持ちだったが、彼の気持ちを素直に受け取ることにした。右手を差し出し、ぎゅっと握った。その握手は、今までに感じたことのない、暖かなものだった。

「それじゃ、藤堂君も頑張って!」

 そう言うと、彼は去っていった。

「まだまだ。まだまだやってやるぞ。一〇〇メートル走なんかで勝っても意味はないんだ。最後まで、やってやる!」


 藤堂は、そう呟く鹿島の顔をじっと見つめていた。


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