十二 絶交
十二
教室に戻ってから、鹿島は藤堂と一言も会話をしなかった。藤堂は、すぐに保健室に行くことを勧めたが無視をした。もう、誰の憐みも受けたくなかった。藤堂だけでなく、クラスメイトも彼と同じことを言ったが、無視をした。その他にも、気にするなだの、失敗は誰にでもあるだの、安っぽい慰めの言葉をかけられた。その言葉は、弱者をいたぶる刃だ。一言一言が放たれる度に、鹿島は藤堂のことを強く憎んだ。
藤堂が憐みをかけなければ、これだけみじめな思いをすることはなかった。藤堂が勝っていれば、皆は優勝に酔って自分を忘れてくれたのに。藤堂が変な期待をさせなければ。藤堂が特訓に誘わなければ。そんな思いがずっと鹿島の脳を支配していた。怒りと憎悪が鹿島を押しつぶす。
しばらくして、終礼が終わり、クラスメイトが帰り始めても、鹿島はじっと机に突っ伏していた。誰が教室に残っているのかも、今が何時なのかも、一切分からない。
どれくらい経ったか。鹿島が顔を上げると、藤堂ただ一人が教室に残っていた。彼は申し訳なさそうに下を向き、まるで、特訓を始める前の彼に戻ったかのように感じられた。
顔を上げた鹿島に気付いた藤堂は、小さくつぶやいた。
「ごめんね、鹿島君」
「うるさい」
「全部、僕のせいだよね」
「うるさい」
鹿島は徐々に声を荒げていく。
「僕が勝っていれば良かったんだよね」
「うるさい!」
鹿島は机を叩いて、席から立ち上がった。
「そうだよ! 藤堂、お前が勝っていれば、俺はこんなにみじめな思いをしなくて済んだんだよ! そもそも、お前が特訓に誘ったからこうなったんだ! 全部……全部お前が悪いんだ! 俺が転んだのも、こんなに悲しいのも! 全部お前が悪いんだ……みんなして根拠ない言葉で俺を調子に乗らせて。勝てるって錯覚させて。それで待っていたのがこれかよ……。ふざけんなよ……」
鹿島は涙を流した。唇が震えて止まらなかった。涙も、震えも止められなかった。今は、声を出さないだけで精いっぱいだ。
「でもね、これだけは言わせて。鹿島君が頑張ったことは無駄じゃなかったはずなんだ。それだけ、覚えておいてほし……」
「うるさいって言ってるだろ! 藤堂に何が分かるんだよ。もう、いいから帰れよ! 二度と俺に話しかけるな!」
鹿島はその言葉を吐き捨て、リュックを背負って教室を出て行った。彼が出て行った後には、藤堂一人だけが取り残された。
「鹿島君。短い間だけど、一緒にいれてよかった」
薬品の匂いが漂う保健室。
黒田はオキシドールを布に染み込ませ、鹿島の傷口にあてる。
「いてっ」
あまりの痛さに、鹿島は足をばたばたとさせる。
「それにしても、派手に転んだよな」
「言わないでよ。忘れたいんだから」
頬を膨らませ、俯く。そして、痛みを堪える。
「それでも、今日の運動会は感動的だったな。最後の藤堂君の行動には胸を打たれたな。ありゃ素晴らしいよ。優勝よりもお前を取ったんだぞ?」
また、鹿島の傷口がえぐられる。傷口は徐々に膿みはじめる。
「あんなやつ、死んじゃえばいいんだよ」
「何言ってんだ、お前は」
黒田はオキシドールを机の上に置き、鹿島を睨みつけた。
「あいつが、俺を助けなければ白組は優勝だったのに。それなのに、俺の所に来てさ。何が『大丈夫?』だよ。俺がどれだけみじめなのかも知らずに。さっさとゴールして、俺を見下せばよかったんだよ。ああ、馬鹿らしい」
「……それで? 藤堂君はどこだ?」
「知らないよ。あんな奴とは絶交したんだ。どっか行っちゃえばいいんだよ、あんな奴」
その時、鹿島の頬に衝撃がはしった。
その衝撃は、転んだ時よりも強烈だった。
鹿島は椅子から転げ落ちてしまった。
「な、何すんだよ!」
「おい。お前、あの時藤堂君がどういう気持ちでお前を助けに行ったのか、分かってるのか? 見捨てようと思えば見捨てられたお前を、わざわざ優勝を逃してまで助けに来たんだぞ? その意味が分かって言っているのか?」
黒田の目は怒りに満ちていた。鹿島を見下ろし、拳を固く握っている。今にもそれは振り下ろされそうだ。これが、怪物黒田といわれる所以なのだと、鹿島は思った。
「だからなんだよ! 見捨てたければ見捨てれば良かったじゃないか! なんだよ、あんな偽善者! 黒田先生だってそうだ。頑張れだのなんだの言って俺に期待させて。俺がこうやって失敗するのを見て楽しんでんだろ!」
「お前……」
黒田が鹿島の襟元を掴み、鹿島の体を宙に浮かせる。凄い力だ。だが、黒田はすぐに彼を元の位置に降ろした。
「もういい。帰れ」
「言われなくても帰ってやる! もう二度と来ないからな!」
保健室から出ると、鹿島は真っ直ぐに家へと向かった。
道中、心に大きな穴が開いた気がしていた。それも、永遠に埋まりそうもない、とても、とても大きな穴が。誰に慰められようとも、たとえ自殺しても、埋まらない、大きな穴。
真っ赤に燃える夕日が、過去の思い出を焼きつくしているように見える。烏が、やけにうるさい。
――本当に、藤堂が悪かったのかな?