十 フラッシュバック
十
午後のプログラムが開催される時間になり、鹿島は保護者席から応援席へと戻っていった。そこにはすでに藤堂の姿があった。彼の表情は依然として固かった。何とかして励ましてやりたかったが、鹿島には何も言うことは出来なかった。ただ、彼の隣に座り、気持ちを落ち着かせてやることしか出来なかった。
午後の最初のプログラムは、応援合戦だ。
各組の応援団が運動場の真中に立ち、演技をする。その時、掛け声をクラスメイトがかける。その演技の精巧さなどを判断して、審査員が点数化するのだ。
紅組から演技が始まる。
紅組は長い、赤い布のついた棒を振り回し、踊っていた。なんでも、その布は燃え盛る炎をイメージしているという。良い発想をしいてるな、と鹿島はずっと見とれていた。
次に白組の演技が始まる。
応援団が素早く運動場の真中に立ち、演技を始める。
鹿島たちも大きな声を張り上げて演技を盛り上げた。
青組に、特筆すべき点はなかった。
それから、一年生と六年生が合同で行う玉入れ、五年生による組み体操、一年生から四年生までの各々のクラスのダンス、四年生による騎馬戦などが行われた。どれも、気合が入っていて、見ていて退屈しなかった。
思わず「頑張れ!」と叫んだり、「ああ……」と落胆の声を漏らす者が多くいた。鹿島もその中の一人だった。
去年までは、ここまで余裕を持って競技を眺めることは出来なかった。自分の出番が怖くて怖くて仕方がなかった。ずっと緊張して、他の景色なんて何も見えなかった。しかし、今年はどうだ。心に余裕があり、他の競技を面白おかしく観戦出来る。一つの競技の結果に一喜一憂出来る。この事が、どれだけ幸せなことだろうか。
去年は、二ヶ月かけて練習したにも関わらず、緊張していた。今年は去年の練習期間よりも一ヶ月も短いのに、この余裕だ。この差は何なのだろうか。鹿島はすぐに違いを察した。去年は、ただ闇雲に走って練習した気になっていたのだ。中身も何もない。ただ、走っていただけだった。だが、今年は藤堂によって入念に練り、組まれたメニューをしっかりこなした。ただ走るだけではない。フォームから、なにからなにまで綿密な計画のもとに実行した。この違いはかなり大きい。身体的にも、精神的にも、だ。
『これより、五年生による、四×一〇〇メートルリレーを行います! 選手入場!』
アナウンスと共に、五年生のリレーメンバーが入場してきた。第一走者がバトンを持ち、しっかりと整列している。
スピーカーから流れる曲が、『クシコス・ポスト』に変化する。
去年の鹿島も、こうやって入場していた。
彼の中で、少しの恐怖が芽を出す。
第一走者からアンカーまでが指定位置につき、一人の生徒が「絶対勝つぞ!」と叫んだ。それに応えるかのように「おう!」という声が聞こえた。すごい気合いだ。
スタートラインに立ち、大きく深呼吸をしている。アンカーの方を見ると、かなり緊張しているのか、ぼうっと突っ立ったままだった。彼は白組だった。
スターターピストルが叫びをあげ、それから逃れるかのように選手が走りだす。まるで何かに追われているかのように必死である。
第一走者が第二走者にバトンを手渡す。どのチームも引けを取らない。差はほとんどない。わずかに白組が優勢か。
第二走者がカーブを曲がり、第三走者に力強くバトンを渡す。
第三走者からアンカーにバトンが渡る。差はかなりある。
残すはカーブとわずかな直線だけだ。白組が優勢だ。
栄光は目の前だ。白組のアンカーが逃げる。
しかしその時。
白組のアンカーがカーブを曲がり切れずに転んだ。
彼は一回転し、ざらついた砂の上に叩きつけられた。
次々に他の選手が彼を抜かしていく。
ただ、それを茫然と眺める彼。
ころころと転がっていくバトン。
その姿を見た鹿島は、身を震わせた。
まるで、去年の自分を見ているかのような錯覚に襲われた。
今まで、必死で抑えつけていた恐怖の芽が花を咲かせてしまった。
その花は恐ろしくいびつな形で、この世にない色をしている。
「いやだ」
どんどんと恐怖の花が開花していく。
「え?」
隣に座っていた藤堂が話しかける。
「絶対にいやだ! もうあんな風になるなんて!」
「え、鹿島君!」
鹿島は、応援席から走って出て行った。
鹿島は体育館裏に来ていた。あの光景を見てから、体の震えが止まらなかった。自分も、あの生徒のように転んでしまうのではないか。そう思えてならなかった。
過去の記憶がフラッシュバックする。
嘲笑するクラスメイト。
憐みの表情を浮かべる保護者。
頑張れ、と容易く言う他学年の生徒たち。
諦めるな、と壊れたレコードのように言う教師。
無情に転がっていくバトン。
赤く擦りむけたヒザ。
聞こえない『クシコス・ポスト』。
バトンを拾いに行くみじめさ。
ゴールする時の悲しみ。
そのすべてが鹿島を覆い、彼を恐怖のどん底へと突き落としてしまった。それらは重く、硬く、逃れられない。まるで鎖のように彼を縛り付ける。
知らず知らずのうちに涙がこぼれて止まらない。
鹿島は頭を抱えた。そして、髪の毛をかきむしった。
「いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、やだやだやだ!」
小さな子供がダダをこねるかのように、同じ言葉を連呼し泣き叫ぶ。力強くコンクリートの床を殴り、その場にくずおれた。頭を何度も左右に振り、いまわしい記憶を消し、恐怖の花を枯らそうとする。しかし、消える気配もなければ、枯れる素振りも見せない。
「鹿島君、ここにいたんだ」
優しい声。
鹿島が顔を上げると、そこには息を切らせた藤堂の姿があった。鹿島はまた顔を地面の方に向ける。
「皆、鹿島君がいたよ! こっち、こっち!」
すぐ行く、と小さく聞こえる。
少しの後、鹿島はまた顔をあげた。すると、そこには彼のリレーメンバーがいた。珍しいことに、藤堂のチームメンバーもいた。
「みんな心配していたんだよ。急に走って行っちゃうから」
ぐすぐすと涙を流しながら、それを聞く。
「どうしたの?」
「去年の……。もういやだ……あんなの」
藤堂は黙っている。何も言うことが出来ないのだ。何せ、去年の出来事は、黒田から聞いただけだったのだから。人の心の傷にやすやすと触れる行為は罪深い。
「そんなの、気にするなよ。去年は運が悪かったんだよ」
その言葉は、藤堂から放たれたものではなかった。それは、彼を一番見下していた生徒からのものだった。何度も鹿島に棄権を迫った生徒である。彼は、去年も同じクラスだった。奇しくも、同じリレーチームだった。
「でも、またあんなふうになったら……俺、もう生きていけない」
「校長先生も言ってたろ? どの組が優勝しても、誰が勝っても負けても、拍手で称えてあげてくださいってさ。俺たちはお前が負けても、転んでも、何も言わない。拍手で迎えてやる。なあ、皆」
「もちろんだ!」
即答だった。
鹿島は、涙を止めようとしたが、止まらなかった。むしろ、どんどんあふれてきて、さっきよりもひどくなっている。拭いても、拭いても、拭いても。
「それにさ、トシ。練習頑張ってたんだろ? 百メートル走の結果を見れば嫌でも分かる。そんなに頑張ったやつを否定する権利なんて、俺たちにはなかったんだよ」
「なんでそれを?」
「藤堂君から聞いた」
「ごめんね、鹿島君。勝手なことして」
鹿島には、藤堂の謝罪の意味が分からなかった。本当に悪いのは自分なのに。なぜ藤堂が謝っているのだろう、と。
『最終種目、六年生のクラス対抗リレーに出場する選手は、入場門前に集まってください!』
最終招集のアナウンスが流れる。
「さあ、勝ちに行くぞ!」
「鹿島君! 行こう!」
他のメンバーたちも同じことを言う。
「うんっ!」
藤堂が手を差し出し、鹿島を置きあがらせる。涙を拭き、正面を見据える。
「ねえ、円陣を組もうよ」
藤堂が言う。
「お! いいな。やろうやろう」
合計八人が綺麗な円になる。そして、中心で手を重ねる。
「絶対勝つぞ!」
せーの、と小さく呟く。
『おう!』