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これが、恋の始まりだった  作者: Aldith
第4章 呼ばれた名、届かぬ声

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第1話 静かなる帰還

夏の気配が濃くなりはじめた王宮に、一つの報せが届いたのは、正午を少し過ぎたころだった。


──王太子殿下の命により、新任の文官補佐、セイル・クレイドを王女宮付きとする。


淡々と告げられたそれは、庶務課を、刹那にして凍らせるには充分だった。


「……は?」


最初に声を発したのは、庶務課の若手補佐官だったという。

無理もない。今まで見たこともない名前の文官補佐。配属先が王女宮。これで驚かない方がどうかしている。


だが、そんな庶務課の補佐官よりも動揺を覚えているのが──


ゼノ・グラナート。

“王女の護衛”であり、今や王宮内で最も“王女アリシア”に近いと噂されている存在。

その彼の眉が、わずかに動く。

ほんの僅か、けれど、それは明らかな“動揺”だった。


(……セイル、だと?)


その名を聞いた瞬間、胸の奥に沈んでいた記憶が、不意に浮かび上がった。忘れたことなど、一度もなかったはずなのに。


ありえない。

いや、ありえる。

だが、ここで?

このタイミングで、王宮に?


「……失礼。少々、外します」


控えの文官にそう言い残し、ゼノは廊下に出た。

涼しげな顔を装ったつもりだったが、手のひらにはじわりと汗が滲んでいた。


(まさか、本当に……)


三年前の記憶が蘇る。

王女誘拐という未曽有の事件の夜。暗い地下室、伸ばされた小さな手、その先にいた“彼”の姿。

王太子殿下が動けなかった時、代わりに選んだ一人の少年。


──セイル・クレイド。


庶民の出でありながら、王立学園首席合格。その名は、才気と信念の証として知られていた。


だが、あの時の事件は表向きは「禁術災害対処」で処理された。つまり、彼のことはどこにも記録されていなかったのだ。それなのに、今になって王宮へ現れた。それも王太子であるエドワルドからの指示として。


(殿下との間で……何かあった、というのか)


その瞬間、ゼノの中で何かが軋んだ。焦燥、苛立ち、そして……薄い、痛み。

あの日、王女を救ったのは自分だった。だが、最初にその手が伸ばされたのは――。

しかし、時間は容赦なく進む。

午後、王女宮の表門。静かに現れたのは、一人の青年だった。


控えめな外套を羽織り、帽子を片手に持ったその姿は、王宮の華やかさとは程遠い。だが──その眼差しだけは違った。


まっすぐに、門の向こうを見据えている。どこまでも真っ直ぐで、揺るがない光。


「……セイル・クレイドです。王太子殿下より命を受け、補佐官として参りました」


彼は、そう言った。まるで“今この瞬間が始まりだ”とでも言うように。




◇◇◇




午後の陽射しが、柔らかく室内に差し込んでいた。

ティーカップの縁に光が映えて、銀のスプーンがわずかに揺れる。


「……セイル」


控えていた女官が、手元の書簡を確認しながら丁寧に説明を続ける。


「はい。新任の文官補佐、セイル=クレイド殿。王太子殿下の命により、王女宮付きとして本日着任とのことです」

「そんなお名前、これまで聞いたことありませんわ」

「詳細は存じませんが、急な辞令だったようでございます」

「そんなに急に決まるものなの? でも……お兄さまがお決めになったのなら、そうなのかしらね」


アリシアは頷きつつも、妙な引っかかりを覚えていた。


──セイル。


その名前に、どこか覚えのようなものがあった。だが、それが何なのかといわれても説明できない。どこか不思議な感じだけが残っていた。


そして──


控えの間へと移動する。今日の予定と、簡単な文書確認だけ。その間、ゼノ・グラナートは、いつもの位置にいた。姿勢は変わらず、沈黙も保たれているはずだったのに──。


(……あれ?)


ほんの一瞬、彼の視線が揺れた気がした。気のせいかと思いかけたが、胸の奥にひっかかる。


「……ゼノ様?」


アリシアが呼びかけると、ゼノは即座に一礼を返した。


「お変わりありませんか、姫様」

「ええ……でも、ゼノ様、いつもと違うように思って」

「そう見えましたか。……申し訳ありません。少々、考えごとをしておりました」

「“セイル”という方のことで、ですの?」

「いいえ。姫様にご心配をおかけするようなことではありません」


その言葉は、いつも通りの誠実な響きを持っていた。けれど、その奥にあるものを──アリシアは、なぜか感じ取ってしまった。

言葉にならない、わずかな“棘”のような気配。


「なんだか……いつもとは違うみたいですわね」


アリシアは静かにそう呟いて、窓の外に目を向けた。

外では風が枝を揺らし、淡い陽の光が木々の影を落としていた。




◇◇◇




その青年は、王女宮の門前に立っていた。陽射しに晒された石畳の上で、深く頭を下げた姿は、どこまでも礼節に満ちている。


帽子を片手に持ち、襟元をきちんと留めたその立ち姿。だが、ゼノは最初の一瞥で理解していた。


──この男は、只者ではない。


「……ゼノ・グラナートです。アリシア殿下付きの護衛を務めております」

「……セイル・クレイドです。王太子殿下より命を受け、補佐官として参りました」


セイル・クレイド。

わずか数語の挨拶の背後に、“本物の誠意”と“覚悟”が透けて見えた。


「王女殿下にご挨拶を……と、思ったのですが」

「侍女が案内いたします。私の方から通しておきましょう」


平坦な声を保ったまま、ゼノは少しだけ視線を下ろした。視線を落とした瞬間、喉奥に何かが詰まった。

セイルがふっと頭を下げる。柔らかく、けれど芯のある動作だった。その仕草が、ふいに胸の奥をざわつかせた。


その礼儀が、長く仕込まれた“型”ではなく、自ら選び取った“信条”であることが一目でわかる。

そして何より──この者の“核”には、揺るがぬものがある。


王太子殿下の名を背負って来た。それだけでも十分な“異例”だ。だが問題は、その名ではなく──彼の“目”だった。まっすぐで、曇りなく、それでいて、見返したくなるような強さを持っている。


ゼノは、少しだけ息を吸った。


こういう目を、知っている。目的のためならば、どれほど長くても待てる者の目。そして、一度決めたことを決して曲げない者の目。


(……間違いない)


あの夜にかけられた“ありがとう”が、彼の中でまだ燃えている。あの一瞬が、三年という時間を越えて、彼をこの場に立たせた。


ゼノは、どこまでも冷静に装ったまま、背筋を正す。


護衛の顔を保ち続ける。それが今、自分に許された唯一の手段だった。


「……ようこそ、お越しくださいました」


わずかに口角を上げる。それは微笑と呼ぶにはあまりに固く、威圧と呼ぶには静かすぎた。


セイルは、また一つ、礼を重ねた。そこへ侍女が静かに近寄ってくる。


「お待たせいたしました。王女殿下がお会いするとのことでございます。宮の中の説明もございますので、こちらへどうぞ」


そのまま、侍女に伴われて門をくぐっていく瞬間。すれ違いざま、ほんのわずかにゼノの視線とセイルの目が交差する。


一瞬の、無言の対峙。

──火は、既に灯っていた。けれど、それに気づく者は、まだ誰もいない。

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