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これが、恋の始まりだった  作者: Aldith
第2章 戻った王女、戻らぬ真実

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第5話 静けさの向こうに

「……“お戻りに”?」


まだ薄暗い朝、記録課の片隅で、新人文官フロイライン・リースフェルト──通称フロイ──は、手元の布告文を見つめたまま、小さく呟いた。その整った字面は、冷ややかにこう記している。


──王女殿下、医務棟へ御搬送。身体状態、安定。


確かに、“お戻りになった”のだろう。だが──それ以外が、まったく書かれていない。


「……ずいぶんと端折ってますね」


隣席の中堅文官が、書類を束ねながら小さく唸った。


「医務棟の診断記録にも異常は見られない。“外傷もなく、魔力反応も安定”──まるで、何もなかったかのようだ」


「でもこれでは……どうやってお戻りになったのか、何も……」


「書くな、ってことさ。ほれ、これはそっちの棚だな」


彼が差し出す書類をフロイが受け取ったその時。頭上から低い声が落ちてくる。


「──指揮を執った者の名、確認したか?」


はっとして顔を上げると、そこにはエグバート・グランヴィル。書類束を片手に、相変わらず無愛想な顔でこちらを見下ろしている。


「……エグバートさん」


「まだ席を温めて二か月の新人にしては、目のつけどころがいい。……見てろ」


エグバートはフロイの手元から布告文を一枚抜き取り、その端を指先で叩いた。


「“名代として出陣を承けたるは、ゼノ・グラナート”。──坊ちゃん、やったな」


「……学生、ですよね?」


「ああ。“王立学園所属”の肩書きのまま、グラナート公の名代。現地指揮権まで持たされた。“家の後押し”があったとはいえ──あれは、完全に“王女殿下のために”押し通したな」


フロイは言葉を失う。エグバートはさらに別の報告書を広げる。


「で、こっちが褒章関連。“王女殿下救出の功”として感状と卒業後の近衛推薦。……まあ、このへんまでは順当だが──」


布告の裏面を軽く叩き、皮肉めいた笑みを浮かべる。机の上の書類が、少し風に揺れた。


「問題はこれだろうな……“王女宮周辺護衛への帯同許可”。……王命の名の下っていうのが始末が悪い」


「な、なんで王女宮周辺護衛への帯同許可が?」


思わずフロイの声が裏返る。各宮に護衛が配置されるのは当然。だが、王女宮という場所であり得るのか?

たしか、兄である王太子に対してでさえ『立場をお考え下さい』と儀礼課がやんわりと釘を刺したはず。近衛ですら常駐できる者は限られる。まして学生の身分で──


「しるか。まあ、功績と家柄ってとこだろうな。なんたって、功績ってのは便利でな。一度積み上げりゃ、大抵の前例は踏み潰せる」


エグバートはそう言い残して、報告書を手に踵を返した。

フロイは、呆然とエグバートの背中を見送った。


──大抵の前例は踏み潰せる?


宮廷という組織をある程度は知っているフロイ。とはいえ、エグバートの言葉の真意は、完全には理解できない。だが、報告書の片隅に残された走り書きのようなメモ──

「出陣前、衣服の追加調整依頼あり」「屋外行軍装に加え、式典対応の礼装も同時発注」

──そこから透けて見える執念のようなものは、ひしひしと伝わってくる。


(……本気だったんだ、あの人)


ふと、フロイは思い出す。王女殿下誘拐直後、緊急発令の報を聞いた時、王宮全体に走った凍りつくような空気。口には出されなかったが、誰もが考えていた。


──最悪の事態が、起きたのではないかと。


それが、わずか数日で、“無事発見”という報に変わったのだ。奇跡と呼んで差し支えない展開だった。


「……でも、それでいいのかな」


フロイはぽつりと漏らす。書面は整い、記録は揃い、すべてが予定通りに“処理”されていく。だが──そこに残るはずの「何か」が、どこにも見当たらない。


喜びも、安堵も、怒りも、不安も。人の心が、どこにも記されていない。だが、フロイは思ってしまったのだ。王女殿下は、あの夜──何を見て、何を感じたのだろうと。


「おい、新人。手ぇ止まってるぞ」


鋭い声に、フロイはびくりと背筋を伸ばす。顔を上げれば、庶務課の別室から現れた中堅の書記官が、書類束を片手に立っていた。


「新しい布告文だ。“王女殿下の行動予定、当面非公開”」


「……また、ですか」


「また、だ。関連部局の関係者名簿すら、当面“閲覧不可”だとよ。まるで──」


言葉を途中で飲み込むようにした書記官は、ただ一枚の布告を机に置いて去っていった。風が、窓の隙間から入り込み、山積みの紙の端をかすかに揺らした。


「……まったく、なんなんだよ」


ぽつりと呟いたのは、斜め後ろの席にいた年長の書記官だった。昨日の夜から報告書と取っ組み合っていた彼は、昼過ぎには退出しているはず。その彼が、まだ同じことを続けていること自体、事の異常性を物語っていた。


「誘拐事件だぞ? 王女殿下の、だ。もっと混乱して、もっと荒れるはずだろうが」


言葉は粗かったが、それが本音だった。


「それを、まるで予定調和みたいに、全部“処理”しやがって」


「……処理、ですか?」


「そうさ。最初から最後まで、“筋書き通り”ってやつだ。軍を動かし、王命を下し、褒章を与えて、記録を整えて──そりゃ見事だよ、完璧だ。けどな……」


彼は書類の隅を、乱暴に指先で叩いた。


「“人間”が見えねぇ。こんな報告、機械でも書ける」


フロイは、返す言葉を持たなかった。だが、心の奥では──ほんの少しだけ、同じ違和感が渦巻いていた。


(あれだけのことがあって、こんなに静かで、整っていて……)


あの時、王宮中を覆っていた張りつめた緊張と焦燥感は、どこへ消えたのか。いつの間にか、すべてが「元通り」の顔をしている。ただ一つ、変わったものがあるとすれば──


――ゼノ・グラナート。


その名が、王宮の中でほんのわずかに、重みを増していた。



◇◇◇



翌朝、王城の庭には白い花が揺れていた。その中心を、制服姿の少年が静かに歩く。まだ陽は高くない。けれど、彼の姿を見かけた者は、皆そっと道を譲った。


表立っては称賛されることはない。だが、王女宮に詰めている人間は何があったのかを知っている。だからこそ、陰では彼のことを王女救出の“英雄”と口にする。──もっとも、そう称されている相手は、ただ困惑している。彼は与えられた辞令を淡々と受け入れ、用意された制服に袖を通し、出仕の時刻に王女宮へ現れる。それだけ。


「……目立ちたくてやってるわけじゃないんですよね、あれは」


窓越しにその姿を見つけながら、フロイが呟いた。


「ただ、ああするしかないって顔をしてる」


「“そうさせられてる”ってのが、正しいかもな」


隣の席から、エグバートが短く返す。机の上には今朝届いた最新の出仕記録と、関連する指令文。どれも手際よく整っている。


「俺たちは記録するだけだ。“事実”を書き、“真実”は読み取るしかない」


彼は書類の一枚を抜き、フロイに渡した。


それは、王女宮付き護衛の“帯同記録”──名義は、ゼノ・グラナート。初出仕日:本日。出仕先:王女宮周辺。所属:臨時。


「名前だけで全部通してる。“特例措置”だ。辞令も印も通ってる。異例づくめだが、止められる奴はいない」


「……じゃあ、もうこのまま?」


「さあな。けど一つだけ確かなのは──」


エグバートは窓の外を見やった。そこには、何も語らず、ただ静かに王女宮へ向かっていく少年の後ろ姿があった。


「もう、“始まってる”ってことだよ」


事件の報告書は、封じられた。だが、彼の足取りだけは、確かに王城に刻まれていた。

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