休日
ボール。サッカーボールくらいの大きさの、黄色い、ゴムボール。それは白い化学繊維で編まれた網に入っていて、上部を絞ると巾着のように持ち手の紐が伸びて、長さが三十センチほどになる。子供の私が持つと、網に入れたボールが丁度足元に来る。紐を右手に持ち、ボールを網に入れたままリフティングの真似事をするのが、なぜだか気に入りだった。
家の中でもそれをやったら、家族は怒った。特に父は「うるさい」とわめいた。ボールを蹴る音がうるさいというのだった。
「お嬢さんは何年生かな?」
その学校の校長という男が私に問いかけた。私の隣には母が立ち、私に目配せをして答えるように促した。私は左手を突き出し、指で四をあらわした。
「…四歳かな?」
それは校長なりのジョークなのか。それとも小学四年にもなって、言葉も発せず指で答えるとは何事だと、教育者としての遠まわしの警告だったのか。意図せず、幼子とレッテルを貼られた気分になって、私は言った。
「四年です」
校長と私のやり取りを見ていた母は言う。「四年生なのにまだ赤ん坊で、返事くらいしなさい」と。前半は校長に、後半は私に向けられていた。校長と母は笑っていた。腹が立ったのは私だけだ。
校長と別れて、母と共に職員室へ入る。見慣れない校舎は自分の学校よりも狭く見えた。廊下に置かれたプランターにはチューリップが植えてあった。名前が書かれたビニールテープも貼ってある。生徒の誰かが育てているのだろう。
休日の学校、職員室の中には誰も居ない。書類の山に埋め尽くされた灰色の机がいくつも並んで置いてある。黒板には知らない先生の名前、今日はどこへ出張で、明日は何時に会議で、明後日は全校朝会、来週には研修会、忙しない予定が羅列されている。母は黒いノートに何か書き込んでいて、私は手持ち無沙汰に室内をうろついた。右手にはあの黄色いゴムボールが入った網の持ち手が持たれている。
「暇なら体育館にでも行ってきたら?今日は誰も居ないはずだから」
背中の方で母が言った。体育館で、ボールを蹴ってこいというのだろう。母はノートから顔を上げると、今度は窓際の戸棚から大きなファイルを取り出した。青色の、十センチは幅がありそうな大きなファイルで、あけるといくつかの書類が、束になって収まっていた。
「ふぅん」
私は早くも帰りたい心地になっていた。要因の一つには先ほどの校長がある。嫌味ったらしく「四歳」などと言う親父と同じ空間に居たくなかった。
しかし、母は忙しなく動き回っている。しばらく時間がかかりそうだと思って、私は体育館へ行くことにした。玄関先にあった校舎内の案内図を見て、体育館を探す。同じ一階にあるらしく、地図を記憶してフラフラ歩くと、それらしい看板が掲げられた部屋へたどりついた。
ガランとした体育館は寒い。私は外套を羽織ったままボールを蹴った。体育館の中央へ行くのはなんだかためらわれて、壁際の一角で淡々とボールを蹴った。
知らない学校、知らない体育館、知らない空気が私を取り巻く。気に入りのボールを蹴る遊びを繰り返しているはずなのに、悪さでも働いているような心地になった。知らないものが、私を追い出そうとしている。誰も居ないというのに、誰かに出て行けとほのめかされているような、妙な心地だ。どれくらいボールを蹴っただろうか、ふと思って、体育館の大きな時計へ目をやる。針がとてもゆっくり動いていた。まだ、五分と経たない。
帰りたい。私の頭はそれだけで一杯になった。
「五年生?じゃあ、中学へ上がったら同じクラスになるかもね」
そう言ったのは、知らない男の子だった。その日は夏の暑い日で、彼は赤い自転車に乗っていた。私は母に連れられて、校庭を歩いている途中だった。
彼の学校の校庭を、私は母と並んで歩いていた。目的は校庭の片隅にある小さな池へ、足を運ぶためだった。母と私はひとしきり池を観察し、そろそろ帰ろうとしていたところだった。少年が自転車に乗って、ニコニコとこちらへやってきた。
「これから町内会のザリガニ釣りがあるんだけど、」
少年は言った。母は「あんたも参加してきたら」と言った。私に少年と一緒に行けと言うのだった。私は嫌だと思った。なぜかはわからないが、知らない少年と一緒に知らない川へ行って、知らない大人と知らない子供と一緒に、ザリガニを釣るなんてとんでもないと思った。
けれど結局、町内会の誰かさんが運転する車に乗せられ、私はどうにか母を引きずって一緒に参加することになった。自転車の少年は乗車を断り、自分の自転車で、車の後をついてきた。泥だらけの田んぼのあぜ道を車が走り、その後ろを少年が自転車でついてくる。
「大丈夫かしら、Tくん」
母が車の後部座席で、少年を振り返った。私もつられて背後を振り返った。少年はニコニコしながら、泥だらけで自転車を漕いでいた。
金魚が死んでしまう、トマトが枯れてしまうと、母は言った。私は手伝うでもなく、母の傍らで忙しく動き回る母を見ていた。夏だった。
水道の水を汲み、バケツへ入れる。住みかの水を新しいものに換えてもらえた金魚は、とたんに元気に動き回った。教室の机は随分低く、小さかった。椅子の背もたれの裏には「9」とか「10」とか大きいものでも「8」とか書かれていた。私が座ると膝が収まらない。机に行儀悪く腰掛けて、丁度よいくらいだった。室内を見回すと、朝顔の観察日記が掲示されていた。ひらがなばかりで、下手くそな文字。一年二組と書かれているから、そんなものかと思った。
「クーラーないの?この部屋」
私は母に言った。
「この学校はどの教室にもないんですって」
私が見る限り、過去最大の学校だった。クラスがいくつもある学校に来るのはここが初めてだ。今までの学校は田舎の小さな学校で、うっかりすると一学年に数人しか児童がいない。クーラーなんて無くて当たり前だった。けれどこの学校は違う。今までと比べ物にならないくらい、大きい。
私が通う高校は、教室内にクーラーが設置されていた。出来の悪いクーラーではあったけれど、無いとなると誰もが文句を言うに違いない。とりあえず涼しい教室内で、毎日授業を受けている私にとって、この教室の暑さは異常だった。だから夏休みなんてものがあるのかと、妙に納得した。
「ねぇ、トイレどこ?」
「廊下の突き当たり、行けばわかるわよ」
母は明後日の方向を向いていた。水槽の水換えは済んだ様子で「掃除してるのに綺麗にならないなんて」とぶつぶつ言いながら箒を手にして教室内を掃いている。目的以外のことに手を出して結局待ち時間が長くなるのはいつものことだった。母は私が「帰ろう」と言い出さなければ、いつまでも教室の掃除やら掲示物の処理やらをして居そうな気配すらあった。私はトイレから戻ったら、早く帰ろうと母に言うつもりだった。まだ、畑の水遣りも済んでいないのだ。目的の仕事すら残っているのに、余計な掃除に手を出してばかりでは待つ私の身が持たない。この学校は暑い。
トイレの場所を探して少し動き回る、よくわからない、複雑な構造の廊下。暗い廊下の壁には、知らない児童の知らない水泳記録が書かれている。けれど市内で新記録を出した児童の名前に、見覚えがあった。彼女は私の小学校時代の先生だった。この学校は彼女の母校なのか。記録が出た年代も、丁度彼女が小学生の頃にぴたりと一致した。不思議な出会いだと思ったが、今の私はトイレの方が大事だった。
「ねぇ、無いんだけど」
場所がわからず、来た道を引き返しながら、母に問うた。
職員室の奥まった一角、私と母は資料を広げて、紙を折りたたんだり、ホチキスでとめたり、忙しなく手を動かしていた。
「ねぇ、なんかオヤツないの?」
私は母に問う。
「机の引き出しに、飴があった気がするけど」
職員室には冷蔵庫がある。開けると牛乳のパックが何個も入っていたり、チョコレートケーキやポッキー、大福、ゼリーや羊羹、麦茶まであったりする。牛乳のパックは給食の余りものなので疑問はないが、それにしても菓子の類が多い。コップと氷も常備され、小さなコンロとシンク、戸棚には茶筒と急須と湯のみもある。
以前それらの「児童には秘密の」菓子の中から煎餅をくれた学校があったな、と思い出して、私は母に問うたのだが、母はこの学校にもある冷蔵庫のことには一切触れず、飴などという子供だましの菓子の在り処だけを私に教えた。しかもその飴はのど飴なのだ。オヤツにしては味気なさ過ぎる。こうして母の仕事を手伝っているのだから、バイト代にコーヒーやケーキの一つくらい、出てきてもいいはずなのに。
私はやる気を無くして、仕事を放り投げ、傍らにあった市内の広報誌を読み始めた。知らない町の広報誌は自分の町のものと似ているようでどこか違った。
「おはようございます、ごくろうさまです」
若い女性と、保護者らしい男性が室内へ入ってきた。女性はこの学校の先生なのだろう。保護者の男性に何か説明をして、書類を書くように言っている。女性の挨拶に母は「あら、S先生、部活ですか」などと声をかけて席を立った。
母と男性、女性の先生が会話するのを耳で聞き流しながら、私は広報誌を読み続けた。自分だけが異質な存在だということは承知していた。だから目を合わせるのが嫌だった。「あれ、この子は…」などと戸惑いがちに怪しい者を値踏みするような目を向けられるのが嫌だった。そうして、自分が何者か、説明するのも面倒だ。
「先生、コーヒー飲みます?」
と、女性の先生が言い出した。私の存在にはまだ気付いていない様子だ。保護者の男性は、用事が済んだのか廊下へ出て行った。
「W先生が出張のお土産に、おいしいお饅頭買ってきてくれたんですよ」
女性の先生、S先生だったか、彼女は楽しげに母へ話し続けている。先ほどの冷蔵庫に話は戻るが、やはりどの学校も、何かしら「児童には秘密の」菓子を隠し持っているものだ。
「あれ、」
コーヒーを淹れに、S先生が私の居る職員室の奥へやってきた。ようやく私の存在に気がついたようで、気がつかれてしまえば無視することなどできはしない、私は広報誌から顔を上げてS先生に会釈した。
「先生の娘さんですか?」
「ええ、バイトで」
母が答える。先ほどまでは確かに、母の仕事を手伝っていた。
「随分大きなお子さんがいらっしゃるんですねぇ。おいくつですか」
「高一です」
ああ、敬語だ。S先生は私にも敬語だった。からかうような素振りもない。小学四年の嫌な記憶が脳内をかすめ、流れ星のように瞬く間に消えていった。私はS先生の問いに自然と答えていた。
「コーヒー、どうぞ」
いつの間にか、私の前には淹れ立てのコーヒーがあった。白いカップに入っている。砂糖とミルクもついている。茶菓子のような小さな包みも一緒だ。例の饅頭じゃなくてよかったと、頭のどこかで思った。和菓子は嫌いだから。
念願のオヤツが出てきたのに、どうしてか異質なものを体内に取り入れる気がして、菓子にもコーヒーにもしばらくは手をつけることができなかった。「お母さんにそっくりねぇ」などと言うS先生が、知らない人なのか知っている人なのかもわからず、確かに私と彼女は今日始めて出会ったのだが、それでも母の同僚ということで全くの他人と割り切ることも出来なくて、彼女の立ち位置を何に定めたらいいのか、私は思案に暮れた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
今度はもっと明るい話をお届けしたいものです…。