じいじの土佐錦
健太は、雨の日が大嫌いだ。
だって、傘を差しても靴がびしょ濡れになるし、サッカークラブの練習も中止になる。みんなも遊ばずにすぐ帰宅してしまう。
そんな日は、じいじの家へ行く。健太はそう決めている。
じいじ、つまり健太の曾祖父ちゃんの茂は、町で「飴じい」と呼ばれている。八十歳を過ぎても元気いっぱいで、今でも『飴師』という仕事をしている。庭の小さな工房で、色とりどりの飴をコトコト煮ている。健太はその甘い匂いが大好きだった。
「じいじ、来たよー!」
大嫌いな雨の日は、大好きな飴を食べるのだ。健太はそう決めている。
健太は工房の玄関でビシャビシャの傘を畳み、ずぶ濡れのスニーカーを脱いで入った。靴下もぐっしょりで、ちょっと冷たかった。なので靴下もそこで脱いで、置いておく。作業場までは行かずにそこへ立つ。だって、じいじは真剣勝負をしているから。
「健太か! 手ェ洗って、口洗って、頭巾かぶって、来い!」
いつも言うことはそれだ。それは、じいじの大事な作業場に入るための、特別なルールみたいなものだ。
じいじは、とても「ヘンクツ」らしい。だから、作業場へ誰も入れたがらないし、作業を見せたがらない。母ちゃんはそんなところを「困ったじいさん」だって言うけれど、健太はかっこいいと思っている。それに、健太は特別に入れてもらえるから、まったく問題ない。
手を洗い、うがいをし、健太のためのバンダナを頭に巻く。じいじは、まさに今、赤い飴を細工しているところだった。
「土佐錦だね」
健太が形作られて行く金魚を見て小声で言うと、じいじはにやりとした。
「おまえも、いっちょまえに、わかるようになったか」
「そりゃ、子どものときから見てるからね」
「なんの、今も子どもだろ」
否定したいけれど、しわしわのじいじから見たら、健太なんか生まれたばっかりなんだろうと思う。
じっと美しい金魚ができあがっていくのを見ていた。健太はその過程を眺めるのが好きだ。時間が過ぎるのも感じずに、三匹の土佐錦が生まれるのを見守った後、玄関の古いチャイムがジリリリと鳴った。
ざんざん降りの雨だというのに、ヘンクツな困ったじいさんのところへ、誰が来たというのだろう。
「また、来たかよ。健太、追っ払ってくれや」
じいじはうんざりしたように言った。どうやら誰だかわかっているらしい。
不思議に思いながら健太が入り口へ向かうと、開け放たれたままのドアの向こうに見知らぬ男性が立っていた。三十代くらいで、びしっとしたスーツを着て、緊張した顔で傘を差したまま入ろうとしない。
「すみません、茂先生はいらっしゃいますか?」
男性は、健太の姿を見てちょっとだけほっとした表情になった。そしてじいじのことを先生と呼んだ。なので、健太は一瞬それがじいじのことだとわからなくて、そんな人はいないよ、と言いそうになった。
「ああ? 茂先生って、じいじのこと? 今、仕事してます」
「……あの。ひと息つくまで、お待ちしていていいでしょうか」
「追い返せ、健太!」
じいじの怒鳴り声なんかひさしぶりに聞いたので、健太は驚いた。なので、男性を外へ締め出すみたいにドアを閉めて、自分も外へ出た。
短い玄関のひさしが、健太を雨から守ってくれる。男性は、さらに自分の傘を傾け、健太に雨がかからないようにしてくれる。健太は男性を見上げて言った。
「じいじは、作業場に誰も入れたくないんです。なんの用ですか?」
「……茂先生に、講演会に出てほしくて」
男性はそこまで言ってから「茂先生に、仕事の内容をみんなに話してほしいんです」と言い替えた。健太は『こうえんかい』の意味がわからなかったので、そういうことか、と思った。
「じいじは、そういうの、嫌だと思います」
「この伝統的な技術を持っている人は、本当に少なくなってしまったんだよ。おじいさんの話は、僕たちにとって、とても価値のあるものなんだ」
男性はちょっと申し訳なさそうに言った。健太は気になって、聞いてみた。
「僕たちって?」
「他の、飴師たち……独学で……自分で勉強して、飴細工人をしている人たちだよ」
健太は心の底から驚いた。なんと、あんな難しいものを、自分から勉強して仕事にしている人がいるのか。
「すごい人がいるんですね!」
健太は、小さい頃からじいじの背中を見てきている。飴の甘さも、それがどうやって複雑で繊細な工程で作られるかも、知っている。
だから、本当にびっくりしたのだ。それを自ら学んで、仕事にしている人がいることを。
「そうだな、僕の知る限り飴師は、今は全国に八十人くらいかな。ずいぶん少なくなった。……みんな、伝統的な飴細工を、亡くしたくないと思っているんだ」
健太は、八十人という言葉に驚いた。それがどれくらいなのか考えたら、健太の学年のクラスの、だいたい三つ分だ。あまり六人くらい。かなりの人数だ。……けれど。
全国というのが日本の全部を示すことは、社会で習ったばかりだった。そう考えたとき、健太はぶるっと震えた。雨が降っていて寒かったのもあるけれど、とてもびっくりしたからだ。
全国! 日本全体で、土佐錦を作れる人が八十人しかいないなんて! それは、なんだかすごく心配なことに思えた。
だって、じいじはもうかなりのじいさんだ。健太が大人になる頃には、死んでいるかもしれない。
そうすると、飴師はひとりいなくなる。
なんと、全国の飴師は、七十九人になってしまう! なんてことだろう!
瞬間的に、健太は日本のことが心配になった。飴師がひとりいなくなり、ふたりいなくなり、やがて最後のひとりまでいなくなってしまった将来のことを。
なんてことだろう。土佐錦はおろか、じいじが夏のお祭りに合わせて張り切って作るうさぎや猫、犬、それにカエル、イカ、タコに鶴……。
健太がじいじの年になったとき、後の七十九人は生きているだろうか? そしてじいじと同じように、しっかりとあの動物たちを作れるだろうか? 健太は、そうじゃないかもしれない未来を思って、震えた。
「ねえ、飴師の人はいつまで生きてる?」
健太は思わず男性へ聞いた。男性は傘を傾けたまま、自分は雨に濡れながら首をひねった。
「飴師がずっといるかっていうこと? それは、わからないよ。おじいさんみたいに、飴細工の職人技術を持っている人が、そもそも少ないんだ。新たに学ぶ人がいなければ、すぐに消えてしまうだろうね」
健太は、更に身震いした。なんと、土佐錦を作れる人が、消えてしまうかもしれない。それは一大事だ。
「消えないためにはどうすればいいの?」
「そう思って、僕はおじいさんに、みんなへ仕事の話をしてほしいと頼んでいるんだ」
健太は男性の顔を見上げた。雨に濡れて、髪の毛がぺったりとしている。かっこいいスーツは水を弾きながらも肩のところの色がちょっと変わっている。工房の中から、じいじが健太の名前を呼ぶ声が聞こえた。健太はそれに答えてから、男の人へ言った。
「じいじは『ヘンクツな困ったじいさん』なんです。だから、仕事の話はしないと思います」
「そこを、なんとかできないかな。えーと、けんたくん? おじいさんに、やってくれるよう話してくれない?」
「無理ですね」
健太は答えた。男性は、見るからにがっかりした顔をした。ドアを開けて中に入ろうとしながら、健太は小声で男の人へ告げた。
「ぼくが、土佐錦の作り方を聞いてみます。その後に、また聞いてみてください」
男の人は、目を真ん丸にした。健太は手を振ってドアを閉めた。
濡れそぼったスニーカーを履いた足が、ちょっとかゆい。手を洗うついでに足の指も洗面台で洗ってから、作業場へと健太は戻った。じいじはちょっと怒った顔で土佐錦を作っていた。何匹目だろうか。
健太はなにも言わないじいじの隣りに座って、その手元をじっと見た。しわしわなのに、なによりも綺麗な飴細工を作る、その手を見た。
「じいじ。僕に土佐錦の作り方、教えて」
ひと息で健太が言うと、じいじは息を呑んでびっくりした顔で健太を見た。じいじの細い目がこんなに大きいのは初めて見たと健太は思った。
「健太ァ、おまえ、サッカー選手になるんじゃないのか」
「なるよ。でも、土佐錦も作れるようになりたい」
「なんだそりゃあ」
じいじは笑った。すごく大きな声だった。怒ったときだって、こんな大きな声は出したことがないのに、と健太はびっくりした。
「そうかあ。こりゃ不意打ちだなあ。あの男も役に立ったか。うちの孫っ子が、飴細工に興味を持った」
「ひい孫だよ、じいじ」
健太がそう言うと、じいじが口元へと飴の切れ端を押しつけてきた。ありがたく口に含んで、その甘さを舌で転がす。
じいじはその後、上機嫌で土佐錦を作った。別に作り方を教えてくれるわけではない。ただ、健太がじっくり見ていられるよう、ちょっとだけ時間をかけて作ってくれた。
「まあなあ。あの男なあ」
独り言みたいにじいじはつぶやいた。
「また来たらなあ。聞いてやるか。話しくらいはよ」
その時できた土佐錦は、笑ってるみたいに見えた。




