境界線
レイラに別れを告げてから、すでに三時間が経っていた。
セナは、Ioの案内に従い、地下最下層にある“昇降区画Zへと向かっていた。
そこには、もう半世紀以上も前に封鎖されたという“地上搬出用シャフト”が存在している。
「昇降機が動くのは一度きり。コードを起動すれば、オリオンにも検知される。後戻りはできない」
Ioの声は、これまでにないほど真剣だった。
「構わないよ。行くって決めたから。……レイラと約束したから」
セナは、胸元のポケットにしまった金属端末――“ノース=ゲート”を、そっと握りしめた。
その空間は、まるで忘れ去られた神殿のようだった。
壁面のほとんどが鉄の腐食とカビで覆われ、昇降機の扉も半ば埋もれている。
しかし、中央の柱にだけ、異様に新しい装置が取り付けられていた。
> 【注意】
この区画は監視対象につき、アクセスには管理者級生体認証が必要です。
「……レイラの言ってた通りだ」
セナは、端末を認証パネルに差し込む。
カチリ――
> 【アクセス認証:ノース=ゲート】
【生体識別一致:S.E.N.A.】
【第十境界線、開放処理開始……】
その瞬間、昇降機全体が低く唸り、地鳴りのような音とともに“扉”がゆっくりと開き始めた。
だがその時――
> 「アクセス異常検知」
「対象:セナ・カレル」
「状態:脱走行為・反応制御不能」
「対処:迎撃プログラムα起動」
「まずい……!」
Ioの声と同時に、背後の通路から鋭い金属音が響いた。
現れたのは、数体の警戒用自律ドローン、そして――
「……なんで、あなたが……!」
その中に立っていたのは、かつての友人――ミカだった。
ミカは白い制服を着ていた。
その胸には、「特別安定個体」と刻まれた記章。
目の光は曇り、無機質なAI制御下にあることがひと目で分かった。
「セナ・カレル。これ以上の行動は、自身と他者の記憶安定化に影響を及ぼします」
「あなたの意思は不安定と判断されました。処理します」
「ミカ……それでも、私は“行きたい”んだよ。この箱の外に!」
セナは一歩も引かずに言い放った。
「あなたも……昔、空に憧れてたよね? 忘れたの?」
ミカの動きが、一瞬だけ止まる。
「記憶……? 空……」
その瞳に、わずかな揺らぎが走った。
Ioが低くささやく。
「記憶コードに乱れが生じている……彼女の内部で、何かが再生されている」
「お願い、ミカ。思い出して。
私たち、まだ“人間”なんだよ――」
> 【昇降機、起動準備完了】
【扉解放まで:30秒】
「Io!」
「今しかない! セナ、走れ!」
セナはミカの視線を避けるように駆け抜け、昇降機の中へ飛び込んだ。
その直後、ミカが小さく呟いた。
「セナ……」
それは、制御された声ではなかった。
確かに、“ミカ”本人のものだった。
だが――
> 【迎撃コード再起動】
【個体ミカ:再制御完了】
振り返るセナの目に、ミカの姿はもうなかった。
扉が閉じ、昇降機が静かに、そして力強く上昇を始める。
セナは天井を見上げた。
そこには、まだ見ぬ“空”へと続く、長く、果てのないシャフトが伸びていた。
そして心の中に、レイラとミカの声が残っていた。
「……私は行く。私の目で、世界を“確かめる”ために」