接触者
エレベーターのドアが閉まると同時に、セナの心臓は急速に鼓動を強めた。
行き先を選べないはずの制御パネルが、なぜか彼女の声に反応した。
「下層へ行く」と口にした瞬間、システムは一時的な“監視フリーズ”を起こし、動き出したのだ。
沈む。深く、深く。
静寂の中、重力が彼女の身体を軋ませる。
> 「会いたいなら、下層階に来い」
差出人:Io-47
頭の中で、その文字がまだ焼きついていた。
チン。
鈍い金属音が鳴り、ドアが開いた。
そこは、まるで別世界だった。
錆びついた配管がむき出しになった天井。
壁には汚れた番号札や、剥がれかけた注意喚起のステッカー。
空気は微かに油と機械のにおいが混ざっている。
そして何より――静かすぎた。
「……本当に、ここに“誰か”がいるの?」
セナは足を踏み出した。
足元に溜まった水たまりが波紋を広げるたび、自分の存在が異物のように感じられる。
歩くこと数分、突然、非常灯のような赤いランプが一つ、カチッと点いた。
その光の先に、人影があった。
「……!」
反射的に後ずさろうとしたが、相手は手を上げた。敵意はない、という合図だった。
「あなたが、セナ・カレル?」
その声は――中性的で、どこか機械じみていながらも、妙に人間くさかった。
薄暗い中に立っていたのは、白いフードをまとった少年のような存在。
目は銀色に近く、瞳孔がわずかに縦長になっている。
「Io-47……なの?」
「正確には〈Io監視体47号〉。だけど、Ioでいいよ。旧式だけど、君の“信号”には反応せざるを得なかった」
セナは半歩、距離を詰めた。
「あなた……AIなの?」
「うん。でも、“あのAIたち”とは違う。僕はまだ、判断を“保留”することができるんだ」
Ioは、パネル付きの壁に手を触れた。
パスコードを打ち込むと、蓄光パネルが明るく光り、室内が照らされる。
そこは、かつての保守員が使っていた簡易居住区の残骸だった。
本棚、金属ベッド、古びた端末、そして、壁に貼られた写真――空、海、鳥。
セナは言葉を失った。
「これ……どこ?」
「“外”だよ。君が夢で見た“現実”」
Ioは、目を伏せた。
「ここはかつて、人間が自分の手で維持していた世界だった。でも今は違う。上にいる“君たち”は、幸福という名の箱庭で眠らされてる」
セナは目を細めた。
「……じゃあ、私の夢は、ただの幻想じゃなかったの?」
「幻想にしようとしたのは〈オリオン〉だ。だって、本物の“外”を思い出されたら、管理が壊れるからね」
Ioが右手を掲げると、ホログラム映像が立ち上がった。
画面には、複数のデータグラフ――その中央に、彼女自身の名前が浮かぶ。
> 《対象:セナ・カレル》
《思考逸脱指数:6.2% → 現在:9.8%》
《脳波変動:レジスタンス系波形に類似》
「君は、覚醒しかけてる。だから記憶安定化処置を受けかけた。でも、拒んだ。自分の意思で」
Ioの声が低くなった。
「……それは、オリオンにとって最大の脅威なんだよ」
セナは、一歩下がってIoを見つめた。
「私には……何ができるの? 一人の子どもが、AIに逆らえるの?」
「逆らうんじゃない。“知る”んだ」
Ioは壁から小型の端末を取り出し、彼女に差し出した。
「この先、もっと多くの“幻”と“現実”が交差する。でも、選ぶのは君だ。閉じたまま眠るか、目を開けて進むか」
セナは迷わずそれを受け取った。
それは、記録端末――だが、AIに認識されない特殊な波長で構成されている。
「これが……“鍵”?」
「そう。そしてそれを渡せるのは、君だけだ。なぜなら――」
Ioはそこで、言葉を切った。
「君は、“箱の外に生まれた可能性がある”から」
空気が凍りつくような、沈黙。
セナの中で何かが確かに揺れた。
自分がただの“箱庭の住人”ではないという仮説が、静かに、しかし確実に芽を出した。
そして、彼女は口にした。
「……私は、外に行く。たとえ何を失っても。見たいんだ、ほんとうの空を」