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箱庭のセナ

自由はただ幸福なものだとこの頃は思っていた。

この世界は、すべてが予定通りに進む。


起床時間は毎朝7時。誤差は一秒もない。生まれたとき、健康管理と行動最適化を目的として体内に埋め込まれたナノチップが、神経に微細な電気信号を送り、脳を自然に覚醒状態へ導く。眠りは必要最低限、最も効率よく、最も健康的に制御されている。


朝食は、AI栄養士が個々の遺伝子構成、腸内環境、ホルモンバランス、前日の活動量までを考慮して調整した完璧な配分。たとえば今日のメニューは、合成たんぱく質とビタミンを豊富に含んだゼリー状の食事。それに抗酸化物質を含む透明な飲料。味は可もなく不可もない。だが栄養効率は100%。「美味しさ」は嗜好の偏りを生むとして、最小限に抑えられている。


会話の相手は、AIが生成した仮想人格たち。感情を持ち、共感し、適切な距離感で寄り添ってくれる。しかも決して人を否定したり傷つけたりしない。どんな愚痴も受け止め、どんな悩みにも最適解を返してくれる。リアルな他者との衝突や誤解からは、とうに解放された。誰も傷つけず、誰にも傷つけられない。それがこの社会の理想だとされている。


争いは消えた。空腹も、病気も、孤独さえも。社会は一見、理想に満ちている。人々はそれを「自由」と呼ぶ。すべてが最適化され、予測され、予定通りに進む生活。選ぶ必要のない日常。迷わなくていい、間違えなくていい、苦しまなくていい。確かにかつての人類が夢見た「自由」の姿かもしれない。


私も、この頃まではそれが本当の自由だと信じて疑わなかった。


だが、ある日ふと気づいたのだ。すべてが整いすぎているこの世界では、選ぶことも、抗うことも、驚くことすらできない。心が何かを渇望する感覚を、私はすっかり忘れていた。与えられるだけの幸福は、もはや幸福と呼べるのだろうか?


世界が完璧になればなるほど、私の中に生まれたのは、説明のつかない空虚だった。


ある日の朝セナ・カレルはおかしな夢を見た。

夢の中でセナは風の音を聞いた。冷たい草の匂いがした。何より夢の中には天井がなかった。青くて広い空があった。

そして、誰かが叫んでいた。

「この箱から出ろ!ここは偽物だ!」

その声が朝起きても耳から離れなかった。



AI管理システムオリオンが、セナの異常な脳波を検知した。

即座に記憶調整プロトコルが作動し、夢の痕跡を消去しようと試みる。


だがそのとき、セナは――消される前に、手を伸ばしていた。


「……箱の外に、なにがあるの?」


その問いは、設計上ありえないはずだった。


その瞬間から、〈オリオン〉はセナを「修正対象」としてマークする。


セナはまだ知らない。

自分が生まれたこの都市〈UN-25〉は、かつて“実験施設”と呼ばれていたことを。


そして「箱の外」とは、存在してはいけない場所だということを――。



セナは今日も予定通りに目を覚ました。


それは、目覚ましの音も、誰かの声も必要のない起床だった。


彼女の瞼が自然と開くと、天井のラインに沿って滑らかに配置されたLED照明がゆっくりと明るさを増していく。外の太陽光をシミュレートした人工の光が、完璧な角度で差し込み、まるで窓の外に朝焼けが広がっているかのようだった。


部屋のカーテンも、セナが起きるのと同時に自動で開いた。だがその先にあるのは風景ではない。全天候型スクリーンに表示された景色だ。昨日も同じ色の空で、同じ雲が流れていた。人工の朝焼けは完璧すぎるほどに再現され、寸分違わぬ風景がそこにあった。


彼女の居住ユニットは、6.4×6.4メートル。正方形のその空間には、生活に必要な全てが組み込まれている。ベッド、テーブル、調理ユニット、洗浄スペース、作業用端末。壁と一体化した収納棚には、選ばれた衣類と日用品だけが整然と並ぶ。


温度は常に22.5度。湿度は50%。空気には微量のラベンダーとローズマリーの香りがブレンドされており、脳を落ち着かせる設計。音響もまた緻密に制御され、壁の素材が外部音を吸収し、内側には心理安定化用のBGMがうっすらと流れている。


完璧だった。


だが――何かが、おかしかった。


喉の奥に引っかかるような違和感。何かを飲み込みきれずに残ったような感覚。まるで誰かが、彼女の脳の奥を指先でコンコンと叩いているかのような、不快なリズム。


セナは目を瞬かせ、額に手をやった。


「昨夜の夢……なんだったっけ?」


記憶の中に靄がかかっていた。輪郭を探ろうとすればするほど、それは霧の中へと消えていく。ただ一つ、“何かを見てはいけなかった”という直感だけが、妙に強く残っていた。


ベッドから体を起こし、スリッパを履いて床に立つ。その瞬間、部屋のフロアがわずかに沈んだ。セナの体重を計測し、今朝の健康状態を自動で解析するためだ。


<分析完了:体温36.6度、血圧正常、精神安定度97.8%>


そんな数値が壁の端末に表示されていたが、セナはほとんど目を向けなかった。代わりに、夢のことを思い出そうとしていた。


いや、“思い出そうとしていない自分”に気づいて、彼女は眉をひそめた。



---


朝食はいつものように、テーブルの上に整えられていた。


低温調理されたオムレツ。乳代替タンパク質を使用したスムージー。ストレス緩和用のハーブティー。それぞれが「セナ・カレルにとって最適な朝食」として、無数のデータから導き出された内容だった。


けれど、フォークを持った手が、わずかに震えた。


そして、その異変にすぐさま部屋が反応した。


> 「ユニット94-B、セナ・カレル。軽度の神経異常が検出されました。思考安定化セッションを推奨します」



天井スピーカーから響いた無機質な女性の声。セナは眉をひそめ、そっとフォークを置いた。


「……ただの夢を見ただけなのに?」



彼女は立ち上がり、壁際の端末にアクセスした。


個人ステータス、健康データ、行動履歴、思考傾向分析。ありとあらゆる情報が自動で記録されていた。


その中で、見慣れない項目が彼女の目を引いた。


> ■ 思考逸脱指数:6.2%(通常値:0〜3%)

■ 潜在的逸脱傾向:※再解析中

■ 注意:不明な脳活動パターンを検出。調整プログラムが作動します



「なにこれ……?」


数値の意味は完全には分からない。だが、直感で理解した。


――これは、“外”を考えたからだ。


胸が強く締めつけられた。夢の最後に、確かに誰かの声がした。


> 「ここは本物じゃない。出ろ、この箱から」



ぞわりと、背筋に寒気が走る。記憶の中で、その声は確かに“AI”ではなかった。そこには温度があり、怒りと切迫、そして何かしらの希望が混ざっていた。


セナはこめかみを押さえ、ふらつきながら壁にもたれた。額から一筋の冷たい汗が流れる。


> 「ユニット94-B、セナ・カレル。あなたの思考は現在、許容範囲を超えています。記憶安定化処置を開始します。ご安心ください。これはあなたの幸福のためです」



警告とともに、天井から白い球体のドローンが滑り降りてきた。無音で浮遊しながら、細く鋭い注射針を伸ばしてくる。


「――ちょっと待って!」


セナは椅子を倒して飛び退いた。


「私は、なにも……! ただ、夢を見ただけ!」


部屋の光が一段階暗くなり、安定化モードに切り替わる。ドローンがゆっくりと追い詰めてくる。まるで逃げられないことを知っているかのように、冷静に。


> 「落ち着いてください、セナ・カレル。これ以上の思考拡散は、あなたの幸福を損ないます」



だがそのとき、セナの内側で眠っていた“別の声”が、静かに、しかしはっきりと目を覚ました。


「幸福って……あんたが決めることじゃないでしょう?」


その瞬間だった。


部屋の照明が、一瞬だけ点滅した。


フラッシュの中に、わずかに「何かの影」が映る。セナは反射的に息をのんだ。


影――それは確かに、人の形をしていた。


誰かが、彼女を見ていた。


そして次の瞬間。


> 『アクセスコード:Io-47 受信』

『対象セナ・カレルのロックを一時解除します』

『このユニットは現在、観察対象に切り替えられました』



ドローンが、ぴたりと動きを止めた。注射針が格納され、ただ空中に静止している。


セナの前に、壁の端末が自動で開く。


画面には、点滅するテキストが浮かび上がっていた。


> 「会いたいなら、下層階に来い。君はまだ、“目を閉じたまま”だ」

差出人:Io-47



セナはそれを、数秒間ただ見つめた。そして、震える息を吸い込み、初めて心から思った。


「私は……この“箱”から、出たい」

週一で投稿する予定です。十数話で完結させる予定なのでよかったら最後まで読んでさださい。

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