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五 姫春燕(きしゅんえん)

 程なくして、私は広と共にやって来た十三、四歳くらいの少女を、立ち上がって出迎えた。


 少女は二つに分けた長い黒髪を丸く結い、薄紅色の飾り紐で飾っている。


 しなやかな肢体を包むのは、薄紅色の襦と裙。


 つぶらな瞳におっとりした優しげな雰囲気で、小鳥のように可愛らしかった。


 だが、金英のことが余程堪えているのか、泣き腫らした赤い目がひどく痛々しい。

 

 広は盆に沿えていた手の片方を春燕に向けると、言った。


「こちら、姫春燕様です」


 私と冏は春燕に揖の挨拶をし、座るように促した。


 春燕がしずしずと上品な足運びで板独座に腰を落ち着けると、広は持って来た茶杯を几に置きながら言う。


「春燕様はあまりお加減がよろしくないようですので、手短にお願い致します」

「わかりました」


 私が小さく頷くと、春燕は不安そうな目を私に向けて訊いてきた。


「あの、このように太常の方に呼ばれたのは初めてなのですが、(わたくし)は何か罰を受けるのでしょうか?」


 広が静かに踵を返すと、私は筆に墨を含ませる冏を瞳の端で捉えながら、春燕の問いかけに答える。


「滅相もございません。ただ金英様について伺いたいだけですから、どうぞご安心を。金英様が亡くなったばかりで、大変お辛いことと存じますが、これが私の務め故、御力を貸して頂ければ幸いでございます」

「そう、ですか。わかりました。私でよろしければ、何なりとお話致しましょう」


 完全に不安が払拭された訳ではないようだが、春燕がいくらか安堵した表情を見せると、私は本題に入った。


「春燕様は、金英様と一緒に舞を習っていらしたのですよね? 金英様とは親しくていらっしゃいました?」

「ええ。金英(ねえ)様と一番親しくしていたのは、私ですわ」


 親しい年上の女性を「姐さん」と呼ぶのは、瑞国では一般的なことだ。


 金英のことをそんな風に呼ぶ程親しかったなら、事件の核心に触れるような情報が聞けるかも知れない。

 

 私は質問を続けた。


「大変失礼なのですが、金英様を恨んでいる人物に心当たりはございませんか? 金英様が亡くなったことについて、鬼の仕業という噂が立っているようですが、今のところはまだ人の仕業という可能性を捨て切れませんので」

「おっしゃることはわかりますが、姐様はお優しい方で、人に恨まれるようなことはなかったと思います。ただ、姐様は玉環様に睨まれていましたから、みんな玉環様を怖がって、姐様とは距離を置いていました。私も最初は遠巻きに姐様を見ているだけでしたが、私が舞のお稽古の最中に足を痛めてしまった時、姐様は親切にも私に手を貸して下さったのです。私は姐様がどんな目に遭わされていても、助けようとしなかったというのに……」


 春燕は話している内に、金英との思い出が胸に溢れてきたらしく、目に滲んだ涙を袖口でそっと拭った。


 話を聞く限り、金英はなかなかの好人物だったようだ。


 とはいえ、人は様々な顔を持つものである以上、春燕に見せていた一面が金英の本質とは限らない。


 そして、その本質が何者かの悪意を引き寄せた可能性は否定できなかった。

 

 春燕の前では、とても言えないことだが。

 

 疑うのも仕事の内とはいえ、私が何とも苦々しい気持ちになっていると、春燕は細い肩を窄めて言った。


「お話中に失礼を致しました。とにかく、あの姐様が人の恨みを買うような行いをするとは思えませんわ。姐様からも、そんな話は聞いたことがありませんし……」

「では、春燕様の他に金英様と親しかった方はいらっしゃいませんか?」

「先程も申し上げましたが、皆玉環様を恐れていますから、私の他に姐様と言葉を交わす方はほとんどいませんでしたわ。でも楽器保管庫を管理している由という宦官は、姐様を気の毒に思ったようで、姐様が閉じ込められる度に親切にしてくれていたと聞いています。玉環様に知れたら、きっと罰を受けるでしょうから、姐様のことで頼み事はしないようにしていたのですけど、一度だけひどく暑い夏の夜にお水を差し入れて欲しいとお願いしたら、その通りにして下さいましたわ。お心遣いが本当に有難かったですし、姐様もとても感謝していらっしゃいました」


 どうやら金英の交友関係は、ひどく狭かったらしい。


 有益な情報を話してくれそうなのは、金英と共に舞を習っていた宮妓達くらいのようだった。


 葛宮中の宮妓や宦官に話を聞かなくて済むなら、思ったより早くに片が付くかも知れない。


 私はそんなことを考えながら、春燕に問いかけた。


「念のためにお伺いしたいのですが、昨日金英様が連れて行かれてから、今朝亡くなったとわかるまでの間、どのように過ごされていましたか?」

「姐様が連れて行かれたのは、私が姐様と一緒に大広間で夕餉を頂いていた時でした。その後にそのままお食事を続ける気にはなれなくて、私は部屋に戻ったのです。姐様は玉環様に夕餉をひっくり返されてしまって、ほとんど何も口にしないまま連れて行かれてしまいましたから、私だけお食事を頂くのは、姐様に申し訳ない気がして……」


 目を伏せてそう語る春燕は、本当に心苦しそうだった。


 この春燕の態度が演技である可能性もあるが、春燕が下手人でなければいいと、私はそう思わずにはいられなかった。

 

 一番心を開いていただろう春燕に裏切られたとあっては、金英が本当に浮かばれない。


 私が春燕の声や表情の中に嘘がないか探っていると、春燕は言葉を足した。


「私はお房間に戻って着替えると、早めに横になりました。昨日のお稽古も厳しかったので、とても疲れていましたし、朝の鐘が鳴るまで目を覚ますことはありませんでしたわ。その後はいつも通り、宦官が起こしに来る時間まで寝ていました」


 春燕の言葉を怪しんだ訳ではなかったが、私は玉環にした質問と同じそれを、春燕にもしてみた。


「失礼ですが、夜の間お房間でどなたかとご一緒ではなかったですか?」

「宦官や宮女の方との恋を楽しんでいる方もいらっしゃると聞きますが、私はそういったことには疎いもので……」


 春燕は目を逸らして、恥じらいながらそう答えた。


 頬をほんのり赤く染めた春燕は、いかにも恋を知らない乙女といった風情で、恋愛に疎いのは事実のようだ。もしこの反応が演技であったなら、大したものだった。


「では、玉環様、奉仙様、智蕭様に恋人がいらっしゃるかはご存じでしょうか?」

「奉仙と智蕭のことは存じませんが、玉環様なら宦官の恋人がいらっしゃるという噂を伺ったことがありますわ。恋多き方のようですから、今もどなたかお相手がいらっしゃるのではないでしょうか? 姐様と親しくなってから、他の友人とは疎遠気味なので、しばらく噂も聞いていませんけれど」


 楽戸を嫌っている玉環が、奴隷同然の宦官を恋人にしているとは意外だったが、とても対等な関係を築いているとは思えなかった。


 恐らく、宦官を性欲処理の道具として使っているのだろう。


 自分より身分の低い相手を見下しながら、肉体関係を持つというのはよくわからない感覚だが、娼妓を買う世の男性達も似たような行いをしているのだから、決して玉環が特殊という訳でもなかった。


 そういう真似が平気でできる点において、男女の別はないらしい。


 そういう一面は、私の中にもあるのだろうか。


 私が吐き気にも似た不快さが胸に広がるのを感じていると、春燕は続けた。


「起きて身支度を整えてから、朝餉を頂くために大広間へ向かいました。あまり食欲はありませんでしたが、少しでも食べておかないと、お稽古の時に体が動きませんから」

「その時、玉環様と奉仙様、智蕭様の姿をご覧になりましたか?」

「はい、確か玉環様の後に奉仙が、随分遅れて智蕭が入って来るのを見ましたわ」


 春燕の証言は、玉環のそれと一致していた。


 もし春燕が大広間にいなかったとしても、口裏を合わせれば証言を一致させることはできるが、教坊の宮妓達は揃って大広間で食事を摂っているようなので、とても嘘を隠し通すことはできないだろう。


 全員で結託して口裏を合わせた可能性はあるものの、裏切り者を出さずに多くの人間をまとめ上げることなど、そうそうできることではなかった。


 多くの女性が皇帝の寵愛を争っているこの後宮では、尚更難しいに違いない。

 

 春燕のこの証言は、ひとまず信用して良さそうだった。

 

 私がそう考えていると、春燕は言葉を継ぎ足す。


「智蕭が入って来て少ししてから、玉環様の席の方から『金英が死んだ』という声が聞こえてきて、私は席を立って玉環様に詰め寄りました。そして、あの方から姐様が亡くなったと聞かされたのです」


 春燕の憔悴した様子からして、恐らく金英の知らせを聞いた後は臥せっていたのだろう。


 相当参っているらしい春燕に見せるのは、少々気が引けたが、金英の胸に刺さっていた笄が金英の物か確かめておきたい。


 私は懐に手を入れると、笄を包んだ布ごと取り出して、几の上に置いた。


 布を開いて、血で汚れた蓮の笄が露わになると、春燕の大きな目が、更に大きく見開かれる。


「この笄は、金英様が亡くなった場所で見付かった物です。これは、金英様の持ち物でしょうか?」


 春燕の反応から答えはわかりきっていたが、私が敢えてそう尋ねると、春燕は大きな目に今にも零れ落ちそうな涙を溜めて、小さく頷いた。


 多分、上手く声が出せなかったのだろう。


「ありがとうございました。もう十分です」


 私が再び笄を布で包んで懐にしまっていると、冏は走らせていた筆を置いて、不意に口を開いた。


「畏れながら、私も一つ春燕様にお尋ねしてもよろしいでしょうか?」

「……ええ、どうぞ」


 袖口で目元を拭った春燕が、涙に掠れた声でそう促すと、冏は問いを口にした。


「金英様と親しい方は少なかったようですが、金英様が想いを寄せていた方はいらっしゃらなかったのでしょうか?」


 冏がこの質問を口にするまで完全に失念していたが、恋愛感情が原因で何らかの問題が起こることは珍しくない。


 もし金英が誰かに熱を上げていたとしたら、そのことが下手人の嫉妬や憎しみを生んだのかも知れなかった。

 

 私が静かに二人のやり取りを見守っていると、春燕は潤んだ目を懐かしそうに細めて答えた。


「姐様が一緒に旅をしていた一座の中に、将来を誓い合った方がいると、以前お話して下さったことがあります。お年始の祝日に運良くその方と再会できたそうで、『生きていれば、またあの人に会えるかも知れないから、どんなに辛いことがあっても頑張れる』と、そうおっしゃって……っ」


 春燕は言葉を詰まらせると、袖口でまた涙を拭った。


 進んで後宮に入りたがる女性は決して多くはないため、嫌がる女性を強引に連れ去るようなこともあると聞く。


 一度後宮に入った女性達は、原則として死ぬか老いて放逐されるまで後宮から出ることはできないが、年に一度――年始の祝日だけは、門の辺りで外部の家族や知人と会うことを許されていた。


 しかし、後宮には何千という女性達がいて、訪問者は更に多い。


 それこそ数え切れない程の人々が門に殺到するため、互いを見付けることができずに、一日が終わってしまうことも多いという。


 金英が想い人と再会できたのは、相当な幸運に違いなかった。

 

 旅の空の下ということは、その想い人は金英の死に関わってはいないのだろうが、今どこでどうしているのだろう。

 

 できれば金英のことを伝えてあげたいと私が考えていると、春燕は袖を下ろして、赤い目で言った。


「もし姐様の死が人の仕業であるなら、どうか必ずその者を見付け出して、姐様の無念を晴らして下さいませ」


 涙を堪えるその大きな目に嘘はない気がして、私は春燕を安心させようと、誠意を込めて言う。


「必ず全力を尽くすと、お約束致します」


 私の返事に、春燕は満足そうに頷いた。





 調査の件を口外しないように言い含めた後、春燕が静かに房間を後にすると、私は筆を置いた冏に問いかけた。


「どう? 何か、春燕様に怪しいところはあったかしら?」

「いえ、特には……そもそもあの方は金英様と親しかったとのことですし、金英様を殺める理由がないように思われます」

「そうね」


 春燕の話が全て本当なら、春燕は金英に恩義を感じていたようであるし、金英を手に掛けるとは考え難かった。


 だが、厄介なことに人は嘘を吐く生き物なのだ。


 私は口に出そうか少し迷ってから、喉元を彷徨っていた言葉を吐き出した。


「でも、口で言う程親しかった訳じゃないかも知れないし、本当に仲が良くても、何かの理由でこじれて、あんなことになったのかも知れないし……やっぱりいくら金英様と親しいと言っても、疑ってかかるべきなのよね。あまりいい気持ちはしないけど」


 言葉はどうとでも偽れるものなので、疑おうと思えば、それこそいくらでも疑えてしまう。


 仕事柄仕方がないとはいえ、自分がひどく醜い気がして、どうにも気が滅入った。

 

 私は、小さく溜め息を吐く。


「嫌だわ。私、この仕事始めてから、疑り深くなったって言うか、どんどん性格が悪くなってる気がするのよね」

「私が月鈴様にお会いしたのは今日が初めてですが、それはきっと気のせいです」

「ありがとう。でも、あんまり私を甘やかさないで。ますます人間が駄目になるわ。人間なんて堕落し易い生き物なんだから、もっと志を高く持って生きないと」

「ご自分に厳しくていらっしゃいますね。やはり、神仙となることを目指していらっしゃるからですか?」

「あら、冏は鬼を信じてないのに、神仙は信じてるのね。意外だわ」


 私はそう言いながら、隣に座る冏を見た。


 方術を極め、修行を積んで徳を重ねた方士は、いずれ神仙という不老不死の存在になると言われている。


 人から神仙に変じたと言われている伝説上の人物は何人もいたが、私はその伝説を信じていなかった。


 不老不死に興味はなかったし、どれ程修行をしようが、徳を積もうが、人間はきっと人間以上の存在にはなり得ない。

 

 この仕事をしていると、尚更そう思わずにはいられなかった。

 

 どうやら、冏はそうは思っていないようだが。


 私が驚きの混じる視線を向けると、冏はほんの少しだけ居心地が悪そうに、私から目を逸らした。


「神仙を信じている訳ではありませんが、方士の方は皆、神仙を目指すものだと思っていたので……そういう訳ではないのですね」

「真剣に神仙を目指して修行してる人もいるわよ? 単に私が違うだけ。方術を使う時は神様に祈りを捧げるものだから、私もそうしてるけど、あれはあくまで儀式だから、信じてるとか信じてないとか、そういうことじゃないのよね」


 私は一度言葉を切ると、続けた。


「私が志高く生きたいのは、醜い自分になりたくないからよ。私の父は私と同じように官僚として取り立てられた方士で、私の母は父の正妻だったけど、父には愛妾がいたの。母はその愛妾に、随分辛く当たっていたわ。腹違いの弟があまり出来のいい子じゃなくて、父は方士の才能があった私を官僚にすることで家の体面を保つことにしたから、母が面目を失うことはなかったんだけどね。男の子を産めなかったのが、よっぽど口惜しかったみたいで、あんな風にはなりたくないと思ったの」


 母はとても美しい人だったが、愛妾と腹違いの弟に物を投げ付け、鞭打つ時は鬼のような形相で、この世のものとは思えない程醜かった。


 母も母なりに辛かったのだろうということは、この年になれば理解できたものの、今でも母を擁護する気にはなれない。

 

 自分が辛いからと言って、相手に何をしても許される訳ではないだろう。

 

 あの母の血が自分にも流れていることが厭わしく、ひどく惨めに思えて、私は母と口を利かなくなった。

 

 母ばかりでなく、父とも話さなくなった。父は悪い人ではなかったが、父が愛妾さえ持たなかったら、母があれ程酷い人になることはなかったかも知れないのだから。

 

 私はただ誰を傷付けることもなく、人の傍らで静かに咲いて、心を和ませる花のように生きたかった。

 

 それはきっと、とても美しいことだろう。


「月鈴様は、先程『意外だった』とおっしゃいましたが、私も少し意外でした。あなたはもっと気難しくて、傲慢な方のように聞いていたので」


 冏が逸らしていた視線を再び私に向けてそう言うと、私は少し苛立ちながら言葉を返す。


「失礼しちゃうわね。どうせ今まで私と組んでた書記官の誰かが言ったんでしょうけど、私は単に物をはっきり言うだけよ」


 ただはっきりした物言いをするだけで、陰口を叩かれ、面と向かって軽んじられることすらあるのは、どう考えてもおかしいが、世の多くの男性にとってはそうではないらしい。


 男性が優位とされるこの世の中で、女性である私が男性と肩を並べて働くのは、決して楽なことではなかった。


「全く、口答えされるのが嫌なら、真っ当なことだけ言えばいいんだわ」

「おっしゃる通りです」


 冏は、神妙な面持ちで頷いた。


 冏も私に対して何か思うところがあるのかも知れないが、一緒に金英の死の真相を突き止めようとしてくれているのだから、それで十分だろう。


 今までは誰かと一緒に仕事をしていても、自分一人しかいなかったも同然で、あの頃に比べたら、今はずっといい。

 

 力を貸してくれる人がいるというのは、それだけで心強かった。


「お喋りはここまでにしましょ。次は、奉仙様からお話を聞きたいわ」


 私が意識を仕事に切り替えてそう言うと、冏は立ち上がって、静かに言った。


「畏まりました」






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