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二 趙金英(ちょうきんえい)

 ここは東方に位置する瑞国(ずいこく)――国を統べる皇帝が築き上げた大興城(だいこうじょう)という都城だ。


 異民族の襲撃に備えて、四方を城壁に囲まれているが、城壁内部は市の他、様々な官署や高級住宅街、皇帝達が住まう宮殿で占められていて、民の多くは城壁の外で暮らしている。


 私が属する太常は、皇帝が会議を行う天央宮(てんおうきゅう)と呼ばれる宮殿の側に置かれた官署群の中にあった。


 赤旗がはためく煉瓦造りの官署の門前に敷き詰められた石畳には、旗と同じ赤の塗料が塗られている。


 石畳が整然と敷き詰められたその道を、官僚達が急ぎ足で行き交っていた。


 高い空を目指す太陽から注がれる眼差しは穏やかだったが、雲に遮られがちで、地面には歪な影が落ちかかっている。


 私は葛宮を目指して足早に歩きながら、太常丞から聞いた事件のあらましを、少し後ろを歩く冏に語って聞かせた。


 軽く後ろを振り返ると、耳に筆を挟んだ冏は、太常丞から預かった竹簡を抱えて、いかにも書記官らしい風情だ。


 私は事件についてすっかり話し終えると、最後に付け加えた。


「――という訳で、私達はこれから金英様の死体を調べたり、事情を知っていそうな人達から話を聞くことになるわ。後で太常丞に報告を上げなくちゃいけないから、あなたには一通りの記録を取っておいて欲しいのよ。お願いできる?」


 冏の機嫌を損ねないよう、私はできる限り丁寧に、そして優しくそう言ったが、冏はにこりともせずに言う。


「お任せを」


 それきり冏は黙り込んでしまい、会話は途切れた。


 まだ出会ったばかりだが、もう嫌われてしまったのかも知れない。


 去勢されて男性ではなくなっていても、物の考え方まで変わったりはしないだろう。


 異民族なら、女性であるというだけで下に見たりしないでくれるかも知れないと、少しだけ期待していたのに。


 私は一旦心を閉ざしかけたものの、すぐに思い直した。


 碌に話もしない内から、相手のことをあれこれ決め付けていたら、今まで会って来た書記官達と同じだ。


 葛宮まではまだ少し距離があるし、今の内に少しでも打ち解ける努力をしておくべきだろう。

 

 あきらめるには、早過ぎる。

 

 私は顔を前に戻すと、何を話そうか、少し迷ってから言った。


「……ねえ、私のことは月鈴と呼んでくれて構わないわ。あなたのことは、何て呼べばいい?」

「どうぞ、お好きなようにお呼び下さい」


 冏の声は淡々としてはいたが、決して冷たくはなかった。


 私はそのことにわずかばかり安堵すると、言う。


「じゃあ、冏と呼ばせてもらうわね。冏は、今までどんな仕事をしてたの?」

「掃除です」


 宮殿の掃除は結構な重労働と聞いているが、そんな仕事を書記官の仕事が務まる程教養のある冏がしていたというのも、妙な話だった。


 宦官の身で太常の書記官になったこと自体が異例とはいえ、いろいろと謎の多い人物だ。

 

 不思議に思いながら、私は言った。


「きっとこき使われてたんでしょうけど、私は酷い扱いをしたりするつもりはないから、安心して。何か不満があったら、言ってくれれば直すようにするから。まあ、『年下の女性だから気に食わない』なんて言われても、どうしようもないから、そこは我慢してもらうしかないんだけど……」


 私はそう言いながら、冏と向かい合っていなくて良かったと思わずにはいられなかった。


 今の私は、もしかしたら情けない顔をしているかも知れない。


 年齢も性別も、変えたいと思っても変えられないものだ。


 去勢された宦官も多くの男性と同じように妻を娶ることがあると言うし、子どもが産めないように罰を受けた女性も、決して女性でなくなる訳ではなかった。


 たとえどれ程体を傷付けたところで、自分であることからは逃げられない。

 

 できることなら、今の自分を嫌ったりせずに、受け入れて欲しかった。

 

 私が再び冏を振り返ると、冏はその美しい面に何の感情も浮かべることなく言う。


「私は宦官です。宦官は物と大差ありませんから、命令とあればどなたにでもお仕えします。お気遣いは不要です」


 私は鼻白み、これ以上冏に話し掛けていいものか迷った。


 嫌われている訳ではないのかも知れないが、少なくとも私に対して心を閉ざしているのは、間違いない気がする。


 私達は初対面であっても、冏からすれば自分に危害を加えた人間の同胞である以上、なかなか友好的に振る舞おうという気にはなれないだろう。


 だがここで黙り込んでしまったら、死ぬまで打ち解けてもらえないかも知れなかった。

 

 私は、勇気を出して言う。


「私は冏を物だとは思っていないし、できればお互いに気持ち良く仕事ができたらいいと思ってるの。それだけは覚えておいてね」

「畏まりました」


 冏はそう言ったが、その表情からも声からも、私は感情らしいものを何一つ感じ取ることはできないままだった。






 瑞国の皇帝は、贅沢にも用途に応じた複数の宮殿を有している。


 その中の一つである葛宮は、天央宮の北に位置していた。


 多くの女性達を飼い殺しにするために建てられたその宮殿は、四方を高い壁と濠で囲われている。


 葛宮と外の世界を繋ぐ出入口は、茜門という大きな門だけだ。


 赤は縁起のいい色とされているため、宮殿や官署の門は決まって赤く塗られているが、茜門も勿論例外ではなかった。


 人の背丈の何倍もある門の両脇を、門番の宦官達が固めている。

 

 私は冏と共に閉ざされた門の前で足を止めると、揖の挨拶をしてから、門番の一人に言う。


「お役目ご苦労様です。(わたくし)は楊月鈴。こちらは書記官の令弧冏。この度亡くなられた趙金英様の調査を仰せつかり、太常より参上致しました。ここをお通し下さい」


 冏が調査を命じる旨が書かれた竹簡を宦官の一人に差し出すと、宦官はその竹簡をしっかりと受け取った。


「少々お待ちを」


 宦官はそう言って、見るからに重そうな門扉をもう一人の宦官と協力して少しだけ開けると、一人だけ門の向こうへ姿を消した。


 私と冏が言われた通りにそのまま待っていると、少しして先程の宦官が別の宦官を連れて戻って来る。

 

 その宦官は、小柄だった。


 太い眉に、頑固そうに固く引き結ばれた唇。引き締まった表情は、実直な人柄を感じさせた。


 私が冏と共に、新たにやって来た宦官と揖の挨拶を交わすと、その宦官は言う。


「ようこそお越し下さいました。お話は伺っております。私は、仲長広(ちゅうちょうこう)。これより案内役を務めさせて頂きますので、何でもお言い付け下さい」

「お世話になります。それでは、早速金英様のご遺体を見せて頂きたいのですが」

「では、こちらへ」


 広に促されるまま、私達が門をくぐると、目の前が急に開けた。


 葛宮の敷地は思った以上に広く、正面に聳え立つ宮殿以外にも、いくつもの建物が並んでいて、さながら一つの町のようだ。


 茜門の内側を守る門番達を横目に、私と冏は小走りで駆け出した広を追い掛けて、走り出した。


 初めて来た物珍しさから、私がついきょろきょろしていると、広が近くにある大きな建物を指差して言う。


「あそこが、宮妓の皆様が稽古に励む教坊です。亡くなった金英様は、あの建物で寝起きしておられました」


 教坊の装飾は、宮殿に比して質素なものだ。


 縁が反り返るような形が特徴的な、大きな屋根。


 貝灰が混ざっているらしい漆喰の壁が、日の光を受けて白い輝きを放っていた。


「金英様のご遺体は、あそこに?」


 私が少し先を走る広の背中に向かって、そう問いかけると、広は振り返らずに答える。


「いいえ、教坊の隣にある楽器保管庫の中に、そのままにしてあります」


 楽器保管庫は、教坊と同じ縁が反り返るような形の屋根を戴いてはいるが、教坊よりも随分小さな建物だった。


 見たところ窓はなさそうで、正面に両開きの扉がある。


 その扉の脇には、金英の物と思われる踠下が揃えてそっと置かれていた。


 そして扉の前には、時折薄気味悪そうな視線を扉に向けながら見張りに立つ、二人の宦官の姿がある。


 扉に近付いた私達が足を止めると、宦官達は揖の挨拶をした。


 冏と共に挨拶を返した私が、弾んだ息を整えていると、広が扉を守る宦官達に言う。


「こちらは、金英様の件について調べるために、太常からいらした方々です。扉を開けて下さい」


 宦官達が広に言われるままに扉の前から退くと、金属の錠前が露わになる。


 見たところ、目新しい傷はなく、鍵を無理矢理こじ開けようとした痕跡は見受けられなかった。


 下手人は、どうやって鍵を開けたのだろう。


 私がそう考えていると、宦官の一人が錠前に鍵を差し込んで、鍵を開けた。


 そうしてもう一人の宦官と共に、両開きの扉を大きく開け放つ。


「ありがとうございます。金英様のご遺体が見付かった後、ここを出入りした方はいませんね?」


 私がそう尋ねると、鍵を開けた宦官とは別の宦官が答えた。


「鬼が出たと言われる場所に、わざわざ近付く物好きはいません。最初に中に入って、金英様の死を確認した宦官と、その宦官に呼ばれてご遺体を確認した者以外は、誰も入っていないと聞いています」


 その物言いに、引っ掛かるものを感じた私は、問いを重ねた。


「『聞いている』ということは、あなた方は死体が見付かった時から、ずっとここにいた訳ではないのですか?」

「最初にここに駆け付けたのは、茜門の内側を守る門番達で、私達は後から呼ばれてここに来ました。二人共夜番でしたから、今は休んでいる筈です」


 鍵を開けた宦官が、そう答えた。


 門の内側に門番がいると言うのもなかなか奇妙な話ではあるが、この葛宮は女性達にとっては牢獄同然なので、逃亡を防ぐために門番を置いているのだろう。


 休んでいるところ悪いが、その門番達にも後で話を聞いた方が良さそうだった。


「それでは、検めさせて頂きますね」


 私はそう言い置くと、広と目を合わせて続ける。


「申し訳ありませんが、あなたはここで待っていて下さい。できる限り、楽器保管庫の中を荒らされたくないので」

「承知しました」


 広が頷くと、私は楽器保管庫の中に目を向ける。


 楽器保管庫にはやはり窓がないようで、扉から差し込む日差しが届かない奥の方は、泥のように蟠る闇に沈んでいた。

 

 これは、明かりがなくてはどうにもならない。

 

 私は手の平を上向けると、静かに目を閉じて、方術を使うために精神を集中させた。


 気は誰の中にも必ず流れているものであっても、それを扱えるのはごく一部の人々だけだ。


 多くの人には、目には見えない気の流れを感じ取ることすらできないが、私は幼い頃から朧げに気の流れを感じることができ、またそれを操ることができた。

 

 方士達が信仰する陰陽教(いんようきょう)では、万物に神が宿ると考えているため、私は手の平の上で気を練りながら、光の神に助力を祈る。


 目を閉じたままでも、手の上に凝った気が、光の形を取って現れたことを瞼越しに感じた。

 

 方士であれば誰でも使える、簡単な明かりの術だ。

 

 冏達もこの程度の術は目にしたことがあるようで、特に驚きの声を上げることはなかった。

 

 私は目を開けて踠下を脱ぐと、手の平の上に浮かべた光と冏を連れて、楽器保管庫の中へと足を踏み入れる。


 肌に触れるざらついた闇は、死人の手で撫でられたのかと錯覚してしまいそうな冷たさだった。


 人があまりいない場所特有の、埃っぽい匂いに混じって、血の匂いが微かに漂っている。

 

 思わず眉を顰めた私が、明かりを天井へ移動させて光量を上げると、部屋の様子がすっかり浮かび上がった。


 筝や琵琶、笛など、様々な楽器が棚に並べられ、あるいは壁に立て掛けられている。


 どの楽器も埃を被ったりすることもなく、きちんと手入れがされているようであるし、見たところ壊れている楽器もない。


 争った形跡は、特に見受けられなかった。

 

 その整然とした楽器保管庫の中央に、一人の女性が扉に平行に、仰向けで倒れている。

 

 この女性が、趙金英だろう。

 

 すらりとした肢体に纏う襦と裙は、秋の寒空を思わせる淡い青。


 床に広がる裙の先からは、白い爪先が覗いていた。


 両腕が背中に回っているのは、縛られているせいだろう。


 纏められていない長い黒髪が床に広がり、おどろおどろしい紋様を描き出していた。


 髪が解けているところからして、胸に突き立つ蓮の花をあしらった笄は、金英自身の物なのだろう。


 十五歳という話だったが、私には金英が自分より年上のように見えた。


 後宮入りするだけあって、その面貌はかなり整っている。


 死後ある程度の時間が経っているらしく、顔色は大分死人らしいそれだったが、それでも視線を惹き付けられずにはいられないような美しさだった。

 

 その両目は、もう何も映さないまま開き続けていて、私は少したじろぐ。


 死体を見たのは初めてではなくとも、死人の焦点の定まらない瞳で見つめられるのは、どうにも苦手だった。


 せめて目くらい閉じておいてくれればいいのにと思わずにはいられなかったが、私はすぐにその考えを打ち消す。


 下手に現場を弄られて、手掛かりが消えてしまうのは不味かった。

 

 さあ、仕事だ。

 

 私は意を決して金英に近付くと、その傍らに屈み込んだ。


 横たわる金英の側には、燃え尽きた蝋燭がそのままになっている燭台がある。

 

 誰かが、金英に情けを掛けたのだろう。

 

 命を奪われて、さぞ無念だったことだろうが、最後に感じた人の優しさが、少しでも金英の心を救ってくれていたらいい。

 

 私はそう思いながら、そっと金英の両目を閉じさせた。


 その横で、冏は懐から硯や小ぶりな瓢箪、文字を書き付けるための(こつ)を取り出し、床の上で墨を磨り始めている。


 すぐ近くに死体が横たわっているというのに、全く動じる様子はなかった。


 異民族である冏がこの後宮に連れて来られる時には、もっと多くの凄惨な死体を見る羽目になったのだろうから、大して血も出ていない死体など、どうということもないのかも知れない。

 

 私は頭を垂れて、せめてもの礼を尽くすと、物言わぬ金英に向かって語り掛けた。


「申し訳ありません。見ず知らずの私に触られるのはお嫌でしょうが、少々調べさせて頂きます」


 私は俯けていた顔を上げると、冏が十分な墨を磨り終える頃合いを見計らって言う。


「これから私が言うことを、書き留めて」

「畏まりました。いつでもどうぞ」


 冏は耳に挟んでいた筆を手に取ると、墨を含ませた。


 筆を持つ冏の手は、形こそ整っていたが、これまでの労働の厳しさを物語るように荒れている。


 これまで、随分と苦労をしてきたのだろう。

 

 私は冏の手から視線を外すと、辺りや金英の体を観察しながら言った。


「楽器保管庫の中は、特に争った形跡は見受けられない。中央部には、仰向けで両腕を後ろに回した女性の死体。胸に笄が刺さっているが、その他に目立つ傷は見当たらない。側には、燃え尽きた蝋燭が置かれている」


 冏が、迷いのない手付きで笏に筆を走らせるのを見て、私は少なからず安堵した。


 太常丞から聞いた話からして、冏は高い教養を備えているようだったが、やはりこの目で実際に冏の筆記を見るまでは、少し不安もあったのだ。


 だがこの様子なら、しっかり仕事をこなしてくれそうだった。

 

 私は冏の手元に向けていた視線を、再び金英の体へと落とす。


 本当は服を脱がせて全身をくまなく調べた方がいいのだろうが、そこまでするのは死人を辱めるようで気が引けた。


 余程手掛かりに困るようなことがない限りは、そこまでしたくない。

 

 私はふと、金英の胸元に目を留めた。


「襦の胸元に、小さな穴を確認」


 笄は襦に開いた穴の近くに刺さっていて、周りには明らかに血とは異なる色合いの、赤い染みができていた。


 よく見れば、胸元の線がやや不自然なので、何か入っているのだろう。


「失礼致します」


 私はそう断りを入れてから、そっと笄を引き抜いた。


 笄が金英の物か、後で金英の知人に確認しようと、笄を布で包んで懐に入れる。


 そうして金英の胸元をはだけさせてみると、小ぶりな柘榴が滑り落ちてきた。


 私は床に落ちた柘榴を拾い上げると、手の平に置いて丹念に観察してみる。


「胸元に柘榴を確認。襦の血とは違う赤い染みは、柘榴から出た汁と思われる」


 柘榴は半分に切られていて、露わになった粒状の果肉は、今にも血を滴らせそうな程に禍々しい赤を湛えていた。


 笄が刺さったらしく、柘榴には穴が一つだけ開いている。


 だが、先程私が笄を引き抜いた時にできた穴を含め、金英の襦には二つの穴が開いていて、金英が二回刺されているのは確かだった。


 私は金英の胸の傷を確かめてみたが、意外にも傷は一つしかない。


 これはどういうことだろう。


 私は訝しみながらも、唇を動かした。


「下手人は女性を二回刺したと思われるが、襦に開いた穴は二つ。柘榴に開いた穴は一つ。胸の傷は一つで、刺した回数と傷の数は符合しない」


 奇妙な状況ではあるが、よく考えてみれば、全く説明が付かないということもなかった。


 私は、続けて言う。


「恐らく、笄による下手人の最初の一撃は、胸元の柘榴によって致命傷にはならなかったため、下手人は笄を引き抜いてもう一度刺したものと思われる」


 これなら、辻褄は合うだろう。


 金英は縛られていたのだから、一刺しで殺せなかったとしても、もう一度刺し直すことは容易かった筈だ。

 

 殺された時の状況はおおよそ見当が付いたが、金英は何故胸元に柘榴を忍ばせていたのだろう。


 誰かに殺されることを予感していて、命を守ろうとするなら、柘榴ではなく、もっと固い物を選ぶ筈だ。


 どこかの風習や、呪いの類なのだろうか。

 

 私はそんなことを考えながら、柘榴を床に置いた。


 そうして金英の肌に触れてみると、その滑らかな肌は思ったより温かく、そして硬い。


 これまでの経験から、人間の体が死後に硬直していくことは知っていたので、驚きはしなかったが、生々しく感じる死に何とも薄ら寒い心地になった。

 

 私は服の上から全身の硬直具合を確かめてみたが、硬直し始めているのは、首の辺りだけだ。


「首から胸元にかけて、体が硬直し始めている。他の場所に硬直が見られないこと、そして体の温かさから判断して、恐らく殺されたのは朝方と推察される」


 私は金英の襟元を元通りに整えると、金英の肩に手を置いて、冏に声を掛けた。


「悪いけど、ちょっと手を貸してくれない? ご遺体を俯せにしたいの」

「少々お待ちを」


 冏が筆を耳に挟み直して、金英の足を持つと、私は言った。


「いい? 一、二、三で行くわよ。一、二、三!」


 私は冏と息を合わせて、金英の体を俯せにした。


 話に聞いていた通り、その両手首は縄で縛められている。


 胸の傷はそれ程深くはなかったようで、背中を覆う襦は血で汚れてはいなかった。


「俯せにして背面も確認。胸の傷は、背中にまでは達していない模様。両腕は後ろ手に縛られている」


 特に不審なところはなさそうであるし、この縄を切ってしまおう。


 このままでは、気の毒だ。


 私は手の平を上向けると、方術を発動させるべく目を閉じた。


 刀の神に祈りを捧げながら、天井に向けて開いた手の平に、気から練り上げた刀を創っていく。


 私が手に柄の固さを感じて目を開けると、そこには思い描いた通りの刀があった。


 私が刀で縄を切り、用が済んだ刀を気に戻して小さく息を吐くと、冏は少し感心したように言う。


「便利なものですね」


 冏が事務的な言葉以外を口にしたことに、私は少し驚いた。


 これはきっと、いい兆候に違いない。


 私は冏に笑顔を向けると、金英の手首に巻き付いたままの縄を退けて、その細い両手首を検分しながら言った。


「手首には特に傷や、縄の跡は残っていない。それ程きつく縛っていた訳ではないらしい」


 折檻と言うからには、もっときつく縛っていてもおかしくはなかったが、誰かが手心を加えたのだろうか。


 もしかしたら、縛ったのは蠟燭を置いた人物と、同一人物なのかも知れなかった。


 私は金英の手をそっと下ろすと、冏と力を合わせて、金英の体を再度仰向けにする。


 一通りの検分は済んだし、このままにしておくのは少々心苦しいが、遺体はまだこのままにしておいてもらった方がいいだろう。


 何か重大なものを見落としてしまっている可能性もある。


 私は、立ち上がって言った。


「そろそろ出ましょ」






 私が冏と共に楽器保管庫の外に出ると、広はともかく扉を守っていた宦官達は、揃って幽霊でも見たような顔で私達を迎えた。


 彼等にとって、楽器保管庫の中は『鬼が出た場所』なので、私達も鬼に殺されるものと思っていたのかも知れない。

 

 私は扉を振り返ると、天井に浮かべた明かりを消した。


 冏の両手は硯や書き終えた笏ですっかり塞がっていたので、私は自分で扉を閉めて、広に言う。


「私がいいと言うまで、このまま扉の見張りを続けて下さい。それと、何人かお話を伺いたい方がいるのですが、どこかゆっくりお話しできる場所はありますか?」

「では、こちらへ」


 広は踵を返すと、教坊に向かって小走りで駆け出した。






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