宮島の異界
これは私が広島に住んでいた時の話。
都内から遊びに来た友人を連れて、宮島を観光することになった。
宮島に行くとまずエイリアンの置物がある牡蠣屋で牡蠣を食べる。
まだ現存しているかは謎だが、あそこの牡蠣は一番美味しいのでぜひ味わってみて欲しい。
高齢の店主が
「この牡蠣は美味いよ、身がでかい!」
と言って貝を開けてくれるのだが、実際に大きいし、味も濃い。
ちなみに小さい場合は
「これ、ちいちゃいねぇ、オマケするよ!」
と、殻の蓋を開く前に宣言してくれる。
実際に開けてみると小さいのだから、預言者めいている。
そうやって牡蠣を買い食いし、厳島神社へと向かう。
観光客はそれなりに多く、友人と一緒に地図も特に見ないでのんびり歩いていた。
神社に到着し、何時もなら手水舎に立ち寄ってから社内を歩くのだが、今日に限って見付からなからない。
仕方ない、とすぐに諦めて厳島神社の本殿を歩いていると、妙な緊張感が足元から沸き上がる。
『いやいや、気のせいだろ』
と、私は否定した。
私はけっこう懐疑的なたちであるため、直感や嫌な予感というものを、あまり信じていない。
この時も気の迷いとして切り捨ててしまうと、友人と楽しくお喋りをしながら歩いていた。
二人で厳島神社の本殿を後にし、白い玉砂利が左右に敷き詰められている石畳の道に出る。
側には鹿が二匹、人間よりも堂々と歩いていた。
海岸に添うようにして松の木が等間隔に植えられており、その緑が凪いだ海に映えている。
空の青さも相俟って、なんとも美しい。
そして、とても静かだった。
いや、静かすぎる。
途端に私はゾッとした。
強くはないが、風はそれなりにある。しかし、葉の擦れ合う音一つしない。
鹿が歩く地面は玉砂利の上なのに、石が転がる音もない。
私たちの足音もいつの間にか聞こえなくなっていた。
友人と顔を見合わす。
二人とも異変に気付いていた。
そして、どちらからともなく唐突に走り出した。
『やっぱり変だ。』
私は確信した。
走っているのに靴音がしない。
弾んで乱れる、呼吸の音も、ない。
正直本当に、怖かった。
変な場所に紛れ込んでしまった!と、感じた。
元の世界に帰れるのか、という恐怖を抱いたのは後にも先にもこれだけだった気がする。
どうしよう。
そんな言葉が頭の中を埋め尽くすなか、建物の角を曲がった。
途端に、ふっ と空気が軽くなる。
まだ神社の敷地内ではあったが、開けた場所に出た。
そこには小さな社が並んでおり、エプロン姿の女性が二人立っている。
ちり取りと箒を持っていた彼女たちは、突然走って現れた私たちの姿に驚いている様だった。
「人がいるよ!」
と友人が嬉しそうに言っていたのを、未だに覚えている。
こちらを向いていた女性二人はすぐに興味を無くした様子で、井戸端会議に戻っていた。
音がない空間、というのは本当に異様なものだった。
興味深くはあったが、二度と行きたいとは思わない。
あれ以来、私は神社にお邪魔する時は手水舎に立ち寄って順路を守るように心掛けている。
人様にも神様にも礼儀を欠いてはならないと、身をもって教えられた事件だった。
神社って要するに他人の家なんだよな。って思いました。