第三話「花火」
夏真っ盛りである八月──相も変わらず太陽は、灼熱の如く大地を照り付ける。
昼間の暑い時間を避け、夕方に出かけるも暑さは衰える様子がない。
「……ああ、暑い」
「こういう時、他に従業員が居れば……」
暑さのあまり、そんな怠惰の文句が出てしまう。正直現状、店は一人で回せるレベルなので、実際いたら持て余してしまうだろうけど。
普段の黒いエプロンと白いワイシャツ、そして黒のスカート姿ではなく、白いワンピース一枚の私服に着替えたものの、あまり体感の暑さは変化がない。
両手で、荷物の詰まった黒いトートバッグを持ちながら、私は店までの帰り道である、銀杏並木道を歩いていた。
夏という事もあり、銀杏の葉は緑に生い茂っている。辺りを見渡すと夏休み期間だからか、家族連れやカップルが多く見受けられる。
度々みかけるカップルを見ては、花火大会に誘われた日の事を思い出す。
「…………」
気づけば、約束の日は明日に迫っていた。自分でも、よく分からない感情が渦巻いているのが分かる。
未知なるモノへの期待? あるいは不安? それとも……。
「──あれ、もしかして香笛さん?」
背後から唐突に話しかけられ、驚きつつも振り返ると、そこには見知った顔が。現在進行形で私の心を悩ませている、伊田俊樹本人だ。格好は以前と同じ制服姿、部活か補習の帰りだろうか。
「あ、えっと……お疲れ様です」
「あ……お、お疲れ様です?」
伊田俊樹の疑問符混じりの返答、私は挨拶を間違えたのだろうか。
「制服ということは、部活の帰りとかですか?」
間髪いれず、服装について尋ねてみる。決して、動揺を隠すためではない。
「いやー恥ずかしながら補習の帰りです……」
渇いた笑いを浮かべ、頭をかきながら恥ずかしそうに言う。
「意外と、頭悪かったんですね」
そう悪態つくように微笑んで、再び歩みを進める。
「な、なかなか手厳しいですね香笛さん……」
そう苦笑いを浮かべながら、私の手元に自身の手を差し出す伊田俊樹。
「……どうかしました?」
「よ、よければお持ちしますよ」
「あ、ありがとうございます……」
差し出された手に、戸惑いつつも私は荷物を渡す。
「そう言う香笛さんは買出しの帰りですか?」
「はい、牛乳が切れてしまったので……」
「なるほど、それはお疲れ様です」
「あの、凄く今更ですけど、どうして敬語なんですか?」
会った時から不思議に思っていたが、確か同年代の筈なので、敬語である必要はない。
「そ、それを言うなら香笛さんも」
「私のは職業病です。あるいは性格、とでも言いましょうか」
人見知りの性格も相まって、私はどんな相手にも基本、敬語で話してしまう。ちなみに職業病に関しては、正直まだ一年もミニドリップで働いてないので、こじつけである。
「別に敬語でなくて大丈夫ですよ、私は敬語で話しますけど」
「か、香笛さんが敬語なら俺も敬語で話します! タメ口で話してくれたら、俺もタメ口に……ってしようと思います!」
そっぽを向き、どこか照れた様子でそう答える伊田俊樹。
「そ、そうですか……別に私は構いませんけど……」
「あ、あとさっきからずっと思っていたんですけど……香笛さんの私服、かわ……似合ってますね!」
唐突に服装を褒められ、何て返したらいいか戸惑う私。
「あ、ありがとうございます」
照れとも違う、恥ずかしさと似ても似つかない、表現しがたいこの感情に、私の心は終始乱されていた。
「……すみません、結局お店まで荷物を持っていただいて」
「いえ! 力になれたのなら良かったです!」
たどたどしい会話をしながら、やがて店に辿り着き、カウンターに荷物を置いてもらう。
「非常に助かりました、そこのカウンター席に座って休んでください。コーラで良いですか?」
手をさっと洗い、そのまま慣れた手つきでグラスを取り出し、氷を三つ程入れる。
伊田俊樹にはそのままカウンター席に座ってもらう。流石に茶の一杯くらいは出さないと、私の気分も悪い。
「あ、ありがとうございます……も、もしよければコーヒーが良いかな、なんて」
「別に構わないですが、ミルクと砂糖は一個しか出しませんよ?」
少し棘のある言い方をしてしまった気もするが、伊田俊樹が気にしている様子はない。
「以前来た後にこのお店を調べたら、コーヒーが凄く美味しいお店って書いてあって……是非飲んでみたいなと」
「あまりネットはよく分からないですが、褒めていただけるのは嬉しいですね」
人一倍コーヒーに関してはこだわりもある為、褒められると素直に嬉しいものである。
「そういう事でしたら、アイスコーヒーを淹れますので少々お待ちください」
そう一言呟いて、私はカウンター裏でコーヒーを淹れる支度を始める。期待感を持たれてる事もあり、いつも以上に気合が入る。
一方的ではあるが、店長代理を任されている身として、決して幻滅される事は許されない。
やがて、いつも以上に手間と時間をかけて淹れたアイスコーヒーを、伊田俊樹の前に差し出す。
「お待たせしました、アイスコーヒーです」
時間にして十分ほどだろうか、真夏の歩き疲れた状態という事を鑑みれば、中々渇きが辛かったに違いない。
軽い気持ちで言うんじゃなかったと、後悔すらあってもおかしくない。私なら間違いなく後悔している。
「おお……ちなみに、おすすめの飲み方とかってあるんですか?」
「おすすめ……と言いますか、個人的にはブラックで飲んでもらえたら嬉しいですね」
「いやーやっぱりコーヒーと言えばブラックですよね! 俺むしろブラックしか飲めないですし!」
どこか上ずった声色で、明後日の方向を見ながらそんな事を言う伊田俊樹。
「あ、あの……別に無理なさらないで大丈夫ですよ? ミルクもガムシロも、適正な量であれば良いと思いますし」
「べ、別に無理なんてしてないですよ! じゃあいただきます!」
「あっ……」
制止するより早く、伊田俊樹はアイスコーヒーの注がれたグラスを手に取り一気に飲み干した。
「お、美味しいです……」
言葉とは裏腹に、まるで苦虫を噛み潰したような表情の伊田俊樹。
「いや……台詞と表情が合ってないです」
やれやれ、と言わんばかりに私は溜息を漏らしながらそう言い返す。男と言うものは、こうも見栄を張りたいものなのだろうか。
「すみません……で、でも思ってたより苦くなくて美味しかったのはホントですよ!」
「……素直に賛辞は受け取っておきます」
「そ、それはともかく……伊田さん、明日の件なのですけど」
私がそう改まって口を開くと、伊田俊樹……もとい伊田さんの表情が一瞬で強張る。
「は、はい……」
「当日、桜崎公園は混んでいると思うので、分かりやすくここで待ち合わせというのは、どうでしょうか」
「……え?」
私の言葉を聞いた伊田さんは、目を見開いて口をポカンと開けたまま、固まっている。
「あの、何か変な事言いました……?」
「いやとんでも! まさか来てもらえるとは露ほどにも思ってなかったので……!」
「確かに迷いはしましたけど、何も理由なく断るのもどうかと思いまして」
淡々とそう語る私の姿に、一瞬残念そうな表情をみせるもすぐ笑顔に変わった。
「それでも、俺にとってはめっちゃ嬉しいっす! すげー嬉しいっす!」
声も高々《たかだか》にそう満面の笑みで主張する伊田さんに、思わず私も動揺する。
「そ、そうですか……それは良かったです」
「じゃあ明日、夜の六時にここ来ますね! 俺、香笛さんに楽しんでもらえるよう頑張りますんで!」
ぎこちない空気の中それだけ言い、伊田さんは明日の準備の為と、早々に帰っていった。
「お、お手柔らかにお願いします……で良いんでしょうか?」
何とも言えぬ気持ちを抱えたまま、私は足早に、店の営業を再開するべく入り口に向かった。
扉に下がっている、木製の準備中と書かれた看板をひっくり返し、営業中に変える。伊田さんが去って行った方向をつい見つめていると、背後から見知った声が耳に届く。
「へぇ~あれが噂の男の子か~ふぅ~ん……」
今までにないくらい、ニヤニヤした様子でそう話しかけてくるのは、おそらく仕事帰りであろう白のブラウスと黒のスカートスーツ姿の武藤さん。
「……盗み見なんて、感心しないですね」
「いやいや、今日ははるちゃんの為にわざわざ早上がりして来たんだからこれくらいは!」
わざわざ時間を割いた事を、褒めてと言わんばかりに胸を張る武藤さん。
「それを言われると言い返せないので止めてください」
確かに頼んだ事は真実なので、それを言われてしまうと何も言い返せない。
「ささ、暑いし続きは店の中で~」
言うより早く武藤さんは店の中に入り、いつもの定位置である端のカウンター席に腰掛ける。
「はあ……アイスコーヒーで良いですか?」
まるで我が家のように入っていきますね、なんて思いながら私はそう問いかけたのだった。
「というわけで始まりました! 自称恋愛マスター、武藤愛が講師を務める恋愛講座ー!」
「……武藤さんの名前って、愛だったんですね」
今更ながら、武藤さんの名前が愛という事を知り関心を持つ私。
「はいそこ、関係ない部分に関心を持たない!」
「失礼しました愛先生」
「分かればよろしい。後、名前呼びは単純に恥ずかしいから、やめるよーに」
少し頬を赤く染め、恋愛マスターこと武藤さんが指摘する。意外にも、この恋愛講師はウブなようである。
「脱線したけども、改めて私が教える、絶対に覚えておくべき二十四のポイントを説明するわ」
「先生、それだとよくある自己啓発本みたいに量が多いので、三つ位に絞って欲しいです」
「注文が多いわねこの生徒は。仕方ない、はるちゃんでも分かるよう、三つにまとめてあげましょう!」
「言っておいてあれですけど、相当減りましたね……」
黒の平たいバッグから、おそらく仕事用だと思われるノートPCを取り出し、慣れた様子でパワーポイントを起動する武藤さん。
「ほ、本格的ですね」
「もちろん、やるからには本気よ!」
「ちなみに、いつ作ったんですか?」
「はい、起動したので早速始めまーす」
私の言葉を遮る様にパワーポイントを開き、恋愛について話し始める武藤さん。
さては仕事中に作ったな、この人……。
「まず一つ目! 【むやみな身体的接触は避ける】」
「意外と、これだけで自分に気があるんじゃないかと誤解する男性も居るので、注意しましょう!」
「成程、確かに嫌いな人には、身体的接触なんてしないですもんね」
最初のくだりによる不安とは裏腹に、思ったより的を得た内容に少し驚く。
「ちなみに、猫なで声をプラスして学校でこれやると、もれなくオタサーの姫と女子界隈であだ名がつけられます」
「お、オタサー……?」
よく分からない単語が出てきたが、ようするに女子から目をつけられるという事だろうか。
「そして二つ目! 【思わせぶりな言動は慎む】」
「例えば、花火を見終わった後に私帰りたくないなぁとか言うと、もれなく種付けされます」
「た、種付けって……競争馬か何かですか……」
普通そんな言い方しないだろうと内心思いつつも、私はそう言い返す。
「まあ、《《馬車馬》》のように腰を振る事を考えれば、あながち間違いでもないか!」
「いや間違いですよ。したり顔で評価してますけど、全然上手くもないですからね?」
むしろ、品のない最低な下ネタである。
「まあ話が逸れたけど、とりあえず言動には注意しましょうって事よ、はるちゃん」
「は、はあ……」
「そーしーて! 一番大事な三つ目! 【純粋に楽しむ】」
「多分あの子は、はるちゃんに楽しんでもらいたいと思ってるだろうから。深く考えず、はるちゃんも楽しもうって気持ちで行けば、きっと楽しくなるよ!」
さっきのふざけた様子とは打って変わり、柔らかな笑みを浮かべ、そう私に諭す武藤さん。
「最初から真面目だったら、もっと尊敬できたんですけどね」
「ふふ、別に私は人に尊敬されたいなんて思ってないからなぁ~。周りから一方的に受ける羨望と尊敬の眼差しなんて、不要な重荷だと思ってる位だし」
結露で水が滴っているアイスコーヒーのグラスを見つめながら、武藤さんが呟く。三つもあった正方形の氷は、気づけばほとんど溶けている。
「そう言った目を向けられた記憶がないので、私は同意しかねます」
「前から思ってたけど、しれっと自虐するのはるちゃんの悪い癖だよね~。成功体験の少なさが、そうさせるのかもしれないけど」
どこか見透かしたように、私の目を見ながら武藤さんが言う。
「……そうですね、結構無意識に自虐的な発言が出てしまうので……気をつけます」
「ま、色々言ったけど三つ目が一番大事だから! さっきも言ったけど、あまり深く考えずに楽しんでおいでよ」
「分かりました、先生の分まで楽しんできます」
「まるで私には一緒に行く人が居ないみたいな言い方やめて!? 嫌味でしかないからねその台詞ー!」
結局、そんな相変わらずのやり取りを交えて今日が終わり、そして迎えた、花火大会当日。
時刻は十七時半。派手すぎないフリルと、リボンの装飾が個人的に気に入っている、白のワンピースに着替え、準備を始める。
ちなみに言っておくと、昨日のと同じではない。日焼け対策においても、露出している肩にまで日焼け止めを塗り、対策も怠らない。
実は武藤さんから浴衣の案が出たのだが、一人で着られない為、断念したのは内緒である。
他にも細かな準備を終えて、閉店中のミニドリップ店内にて伊田さんを待つ事に。
「これがドラマだったら、伊田さんが事故に巻き込まれたりして、来なくなるんだろうけど……」
脳内で『最初から今まで』という曲を流しているのも束の間、十分前になろうというタイミングで、扉の入店を知らせるベルが、店内に鳴り響く。
「お、お待たせしました……」
どこか照れくさそうに呟く伊田さんは、シンプルなネイビーカラーのポロシャツに、ボーダーカットソーのインナー、ベージュのクロップドパンツというカジュアルな姿。
派手すぎず、清潔感もあり個人的に好ましい格好であるといえる。
「……似合ってますね、私服」
「香笛さんこそ、そのワンピース似合ってます! 違ったら恥ずかしいんですけど、多分昨日のと違いますよね……?」
「は、はい……実は違います」
そこまでデザインに差異がないのに、違いを気づいてもらえるのは素直に嬉しい。
「と、とりあえず時間もあれですし、行きますか……」
照れを隠すように、そっぽを向きながら小さく呟く伊田さんに、私は静かに頷いた。
十五分程歩き、当初の待ち合わせ予定地であった桜崎公園に辿りつく。
都会のような大規模なものではなく、小規模で展開している地元のお祭りという事もさることながら、余所から来た人が多く、人混みでごった返していた。
「す、凄い人数ですね……」
人混みに圧倒され、思わずそんな言葉が零れる。
「いやー去年はもっと地元の人ばかりで、ここまで混んでなかったんですけどね……」
「俺が思うに多分皆、今年から始まる打ち上げ花火が目的なんじゃないかなと」
「あ、花火って今年からなんですね」
地元民でありながら、そういった事にまるで詳しくない私。今まで行く機会がなかったのだ、知らなくて当然だと私は声高に言いたい。
「そうなんですよ、今までは出店と手軽な花火を配っていただけだったんですけどね」
「と、とりあえず花火まで時間があるので、あっちの広い銀杏並木道に行きましょうか」
普段の通学路である銀杏並木道、祭という事もあって出店が両端にずらりと並んでいる。出店に挟まれながら、独特の喧騒の中歩く銀杏並木道は、私にとって新鮮なもので。
「な、なんか食べたいものとかありますか?」
たどたどしく問いかけてくる伊田さんに、私は遠慮がちに答える。
「たこ焼き……買いたいです」
「任せてください! 速攻で買ってきます!」
「あ、いや料金は払っ……」
私が財布を取り出すより早く、伊田さんはたこ焼き屋の屋台に向かい、素早く購入を済ませる。
「とりあえず一パック買って来ました!」
「あ、ありがとうございます」
お礼と共に、すかさず代金五百円を差し出すも、丁重に断られてしまう。
「お代は良いですよ、嫌でなければ今日はご馳走させてください」
「いえ、流石にそれは申し訳ないので払わせていただけると……」
あまり人から施しを受けるのは好まないということもあり、あえて私は引き下がらない。
「ここは、男をたてると思って財布をしまってくれると嬉しいっす!」
臆面のない笑みを浮かべ、伊田さんは照れくさそうに言う。
「わ、わかりました……よく分からないですが、伊田さんがそれで嬉しいのであれば」
根負けした私は、仕方なく五百円玉を仕舞う素振りを見せる。
「今日は是非とも楽しんでもらいたいですから」
そう笑いながら言う伊田さんの、一瞬、油断した手を取り、私はすかさず五百円玉を握らせる。驚きの表情をみせる伊田さんに、私は目を見据えながら言葉を続ける。
「……今日は私も、同じ位伊田さんに楽しんでもらいたいので、譲りません」
「あ、ありがとうございます……」
喜びの表情も束の間、段々と伊田さんの顔が真っ赤に染まっていく。
「……どうしました?」
「いや、その……手……」
言われて、ようやく気づく。現状、自身の手と伊田さんの手が、五百円玉を間にして重なっている事に。それは最早、手を繋いでいるのと変わりない。
「あっ……すみません!」
動揺し、すぐさま手を離し数歩距離を置く。心拍数が跳ね上がり、動悸が激しくなる。
慣れない事をするもんじゃない、そう心の中で連呼し、己を叱咤する私。
「いえそんな! むしろ……いや……何でもないです」
お互いにぎこちない空気が流れる、私はこういう時の対処法を知らないので、ただそっぽを向き誤魔化すばかりである。
「……あの!」
そんな空気を破ったのは、伊田さんだった。
「こ、混んでますし……その、はぐれたらあれなのでその……手、つ……繋ぎませんか」
暑さからか、恥ずかしさからか、ちらっとみえた伊田さんの表情は、ゆでだこの様で。差し出した手のひらには、先程渡した五百円玉が、屋台の周りを照らす蛍光灯に照らされて、鈍く光っている。
「……そうですね、はぐれたら……面倒ですしね」
そっぽを向いたまま、私は差し出された手を優しく握る。今、伊田さんがどんな表情をしているのか、自身がどんな表情をしているのか。
まともに見れそうもないので分かる術はないけれど、全身が燃える程熱く火照っている現実だけは、確かに感じていた。
お互い無言のまま、どれ程歩いただろうか。気づけば銀杏並木道の終わりに差し掛かっていた。
手元には先程買った冷めたたこ焼き。五百円玉を挟んで繋いだ手は変わらずに。
きっといつも以上に手は汗ばんでいるだろう、不快感を与えてないだろうか、そもそも五百円玉が邪魔だな、そんな事がずっと頭の中を駆け巡っていて。
そろそろ、花火の時間だからなのだろうか、それとも道の終わりが近いからなのか、辺りの人はまばらで混雑は解消されていた。
何か話さないと、なんて思いながらも、途端に何を話していいか、今まで何を話していただろうか、それさえ分からなくなって言葉が出てこない。
「……もうすぐ、花火の時間ですかね」
沈黙の中、口を開いたのは、またしても伊田さんからだった。
「……そう、ですね」
おそらく、意を決して話しかけてくれたにもかかわらず、普遍すぎる返答。
「……すみません、ずっと黙ってしまって」
「いえ、それは私もです……何話したらいいか、わからなくなってしまって」
俯きがちに、私は消え入りそうな声で呟く。
「恥ずかしながら、俺もです……。話そうとしていた内容、全部頭から飛びました」
「じ、自分から手を繋ごうと提案しておいてそれはどうなんでしょう……」
「あはは……返す言葉もないです……」
図星をつかれた伊田さんは、渇いた笑いを浮かべ誤魔化す様に言う。
「……不思議な人ですね」
ふいに、口元が緩む。そんな一瞬の表情をみていた伊田さんは、どこか嬉しそうにみえた。
――そんな瞬間だった。花火が打ちあがっていく音が響く。
──刹那、真夏の夜空一面を鮮やかな光が照らす。
銀杏並木道の真ん中にいた私達は、一面を覆うように光り輝く花火に、ただ目を奪われていた。辺りにいた人達も、一様に空を見つめている。
「凄いですね――」
思わず、呆気に取られる。空を妨げるものがないので花火の迫力が十二分に伝わる。鮮やかに、夜空を彩る色とりどりの花火。けたたましい轟音が更に迫力を掻き立てる。
今まで映像でしか見たことのない光景が、眼前に広がっている。
――こんな日が来る事を、かつて想像しただろうか。
絶景を目の当たりにし、私の脳裏を駆け巡ったのは、意外にもこれまでの記憶だった。
両親に捨てられ、施設で育った日々。誰にも期待せず、興味を示さず、理解を求めず……ただ、抜け殻だった日々。
心を空っぽにして生きてきて、そんな中、私を拾ってくれた義理の父親である香笛さん。
私に人との関わりが大切であると示してくれて、名字もくれた。
生きると言う事に苦しか感じられず、命を絶とうと何度も考えた事だってあった。
そんな私を正し、ここまで育ててくれた大事な父親。血の繋がりなど、そこには関係なくて。
もし、今のこんな姿を見たら何ていうだろうか。
したり顔で笑うだろうか。それとも──。
《《人間らしくなった》》と、笑ってくれるだろうか。
そんな事を考えながら私はただ、夜空一面に広がる花火に、見惚れていた……。
きっと、今日という日を──私は忘れない。