前編:聖女レイチェル
今作は著者の別作品『精霊王の末裔』と同一世界観ですが、長編の200年前の物語なので長編未読でも一切問題なく楽しんでいただけます!
男がのぞく水晶玉の表面がゆらめいて、大理石の柱が立ち並ぶ広い神殿を映し出した。
「力を失った聖女などいらない。お前との婚約は破棄する!」
神聖な空気にインク壺の中身をぶちまけたかのごとく、フェルディナンド王太子の声が響いた。
この国には公爵家に聖魔力の強い女の子が生まれると、聖女となって王太子と結婚するという掟があった。
「力を失ったですって!?」
青天の霹靂と言わんばかりの表情で、現聖女レイチェルはオウム返しに尋ねた。
「そうだとも! 聖騎士団は神の加護を受けられず、敗退を繰り返している!」
「そんな――」
レイチェルは両手で口元を覆った。
聖ラピースラ王国は野蛮なドラゴン率いる魔獣に虐げられる人々を救うため、聖戦中だった。
「お前の祈りはまったく効果がない! 聖王国の聖騎士たちを大勢負傷させた罪は重いと知れ!」
周囲を取り囲む大勢の巫女たちも、顔を見合わせるばかりで口を開く者はない。孤立無援のレイチェルは青ざめた顔でうつむいた。
(国賊として火あぶりにされるのかしら)
聖女は大きな聖魔力を持っているから、ひとたび敵となったらその力を恐れた民衆から何をされるか分からない。実家の公爵家でも、父母はいつも不気味なものでも見るかのような目をレイチェルに向け、さっさと神殿に閉じ込めたがっていた。
「レイチェル、お前を国外追放とする!」
その言葉に、レイチェルはわずかに胸をなで下ろした。
(ようやく解放される……)
どこかにそんな気持もあった。十二歳で神殿に連れてこられてから七年近く、一日三回の祈りを捧げる生活に自由などなかった。一歩神殿の外に出れば人々が貧しい暮らしに耐えているのを知っているから、不満なんてとんでもない。でも――
(恵まれた幽閉生活と、貧しいけど自由な暮らし。どちらが幸せだろう?)
ふとそんな疑問が頭をよぎる日もあった。
(次の聖女が現れるまで、この生活が続くのだわ――)
それは息のつまる日々だった。
「クロエ、入りなさい」
フェルディナンド王太子の声に、レイチェルは我に返った。呼ばれて神殿に足を踏み入れたのは、妹のクロエだった。
「あらお姉様、お久しぶりですわ。なんだか顔色がよろしくないけれど、疲れていますの?」
神聖な空間には不釣り合いな大きな羽飾りの帽子に、原色のドレスの裾を引きずって、クロエは甲高い声を出した。
「クロエを次期聖女に任命するよう父上に頼んだ。今からこの神殿はクロエの住まいだ。お前はさっさと出ていけ!」
「なんだかお姉様に悪いわぁ。わたくし、お姉様の身の回りのお世話をするために王都についてきたのにぃ、巫女さんたちがしてくださるから暇で暇でぇ、フェルディナンド殿下がいつもお相手をして下さるうちに意気投合してしまいましたの」
レイチェルが聖女の役目に追われている間、クロエは毎晩のように舞踏会に出て王太子と仲良く遊びほうけていたのだ。
身の回りのものを少しばかり持って神殿から出ると、王都民が待ち構えていて石を投げてきた。
「あの聖女のせいで王国は野蛮な魔獣たちに負けているんだ!」
戦費に充てるため税金が上がって、王都民にはうっぷんがたまっている。
「聖女の力もないのに毎日神殿でいい暮らししやがって!」
「痛い、やめて!」
顔をおおったレイチェルの頭に、腕に、背中に、石が降り注ぐ。
(どうして私は聖女の力を失ってしまったのかしら)
やるせなさと全身を襲う痛みに涙がこぼれたとき、足元の石畳に突然魔法陣が出現した。金色に輝く魔法陣から立ち上がった光の輪が、レイチェルの全身を包んでゆく。
「聖女が怪しい術を使っているぞ!」
「聖魔力がなくなったんじゃなかったのか!?」
「魔女だったんだ! 火あぶりにしろ!」
人々の怒鳴り声が次第に遠のき、レイチェルは強いめまいに襲われて意識を失った。
◆
「聖女さんの意識はまだ戻らないのか?」
「転移魔法が失敗したんだろうか?」
「まさか。成功したからこのベッドに寝てるんじゃないか」
複数の者が心配そうに交わす話し声で、レイチェルは目を覚ました。
「レイチェル、気付いたか?」
名前を呼んだのはそれまで黙っていた誰か。横たわるレイチェルに顔を近づけ、その手を握った。
「驚かせてしまってすまない」
(私を敵視しないのかしら?)
うっすらと目を開けると、不安げにのぞきこむ青年と目があった。エメラルドを思わせる緑の瞳にやわらかい白銀の髪。特筆すべきはとがった耳と口元からのぞく牙。
(見たことない種族だわ。でも綺麗な人――)
陶器のように白い肌に長いまつ毛を見留めて、レイチェルはわずかにほほ笑んだ。
「助けて下さってありがとう。あなたは――?」
「俺はジュリアン。初めまして、聖女さん」
「ここはどこ?」
レイチェルの問いに、彼らはなぜか気まずそうに顔を見合わせた。
(耳としっぽが生えてる!)
銀髪の青年のうしろに立つ彼らには、動物のような特徴があった。
「転移魔法を使ったのよね?」
聖ラピースラ王国には転移魔法なんて高度な術を使う魔術師がいなかったから、にわかには信じられないが――
「ああ。ひどい仕打ちを受ける君を見ていられなかったんだ」
ジュリアンが苦しげに言葉をつむいだ。
(神殿から出て石を投げられる私が見える位置にいたってこと?)
「ではここは王都なのですか!?」
「違う。ここは聖ラピースラ王国内じゃない。隣の多種族連合の中心地、ヴァーリエだ」
知らない地名だった。
「聖ラピースラ王国の隣には恐ろしい魔獣の国があるのですが、あなたたちは魔獣軍から攻められていないのでしょうか?」
彼らはまた困ったように顔を見合わせた。しばしの沈黙の後、ジュリアンが意を決したように口を開いた。
「その魔獣の国がここだと言ったら――」
あまりに思いがけない話に、レイチェルは言葉が出なかった。部屋の中を沈黙が支配する。にもかかわらず、猫耳の獣人がせわしなくしっぽを振っている。
(この人たちが恐ろしい魔獣!? あり得ないわ)
むしろモフモフしてかわいい。
「もしかしてあなたがた、残酷なドラゴンの命令で仕方なく人々を苦しめているとか――」
「残酷なドラゴンってきっとジュリアンさんのことだよね?」
狐のような耳を生やした獣人がこそっともらした。
「俺、竜人族だからそうだろうね」
盛大なため息をつくジュリアンに、レイチェルは申し訳ない気持ちでいっぱいになって首を振った。
「あなたはほとんど『人』ですわ! 残酷なドラゴンなんてとんでもない!」
彼らは沈黙した。
「本当の事を言うしかないだろ?」
誰かがジュリアンを促すと、彼は抑揚のない声で言った。
「亜人族の領土にオリハルコンの鉱脈が見つかって、それを欲しがった聖ラピースラ王国の国王と王太子が戦を起こしたなんて言っても、信じないよな?」
「う、嘘でしょ……」
「今は信じられなくて当然だよ」
ジュリアンは優しくほほ笑んだが、今も戦いが続いていると思うとレイチェルはいても立ってもいられなかった。ベッドから起き上がろうとすると、
「痛っ」
石を投げられた傷が痛んだ。
「ああ、レイチェル!」
ジュリアンがすぐに肩を抱いた。
「俺たちで応急処置したんだけど、あんたの聖魔法を使った方が早いよな」
ジュリアンに言われて腕を見ると包帯が巻かれている。
「私は聖女の力を失ってしまったの」
レイチェルは悲しげに首を振った。
「それ本当か? あの男に言われただけだろう?」
「えっ?」
レイチェルは驚いて顔を上げた。
「私と王太子様の会話をご存知なのですか?」
「あ、違う違う。ちょっと間違った」
ジュリアンは慌てて手を振って、
「ほら、聖女さんが力を失ったって話は有名だからさ」
「はい―― 私のせいでたくさんの聖騎士たちが犠牲になってしまい……」
話すうち、情けなくて涙があふれてきた。
「な、泣かないでよ!」
ジュリアンがあたふたしながら、ふところからハンカチを出した。
「君は力を失ってなんかいないはずだ。聖女の力というのは本当に、王都の神殿から祈ることで聖騎士たちが強くなる――そういうものなのか?」
改めてそう問われると、レイチェルは沈黙してしまった。
(私が祈れば聖騎士たちが勝利すると――)
なぜそう信じてきたのか?
(そうだわ、王太子様にそう言われたから……)
彼が嘘をついていたのだとしたら? 自分を追放する口実だったとしたら?
「とにかく聖女さん、ショックなことがあったんだ。今は休んだ方がいい。そうだ、腹減ってないか?」
彼は気を利かせてナイフで林檎をむいてくれた。だが不慣れなのか不器用なのか、
「いってぇ」
などと言いながら指先を怪我してしまった。
「まあ大丈夫!?」
レイチェルがその手を握ると気まずそうに、
「俺はいつも皮むかないで食べるから」
と、そっぽを向いた。
だが次の瞬間、不思議なことが起こった。レイチェルの両手から白い光が放たれ、見る見るうちに指先の傷がふさがったのだ。
「私、聖女の力を失ってない!?」
「一瞬で治っちまった! さすが聖女様だね」
ジュリアンが嬉しそうに目を細めた。
(やっぱり王太子様にだまされていた――!?)
その答えを確かめるため、レイチェルは自分の身に聖魔法をかけた。白い光が全身を包み、またたく間に傷が治っていく。
「お願いがあります!」
回復したレイチェルは、不意にジュリアンの両手を固く握ると、彼の目をまっすぐ見つめた。
「私をあなたたちの転移魔法で、負傷した聖騎士たちのいるところへ送ってくれませんか!?」
「何言ってるんだよ! それって一番危険な前線だぞ!?」
「ええ、分かっております。でも私に聖魔力が残っているなら、傷付いた彼らを救いたいのです!」
レイチェルをベッドに押し戻そうとその両肩に手を置いたまま、ジュリアンは苦しげに言葉をつむいだ。
「――知ってる、君はそういう人だって。いつも自分の力を役立てようとするんだ。誰の役にも立たなくたって、君は君のままで笑ってくれればそれでいいのに」
ジュリアンの両眼が涙でうるんだ。
(どうしてこの方は私をこんなに想って下さるのかしら?)
「聖女さんの願い、叶えてあげましょうよ。危険なら我々で守ればいいでしょう?」
「そうだよ、ジュリアン。みんなで転移しようぜ。うまくすりゃあ聖ラピースラ王国を止められるかもしれない」
「確かに。こっちには王国の聖女さんがついてるんだからな」
獣人たちの言葉に、レイチェルはしっかりとうなずいた。
「わたくしは聖騎士団だけでなく、あなたたちの兵も治しますわ!」
最後まで反対していたジュリアンも、レイチェルの強い瞳を見てようやく首を縦に振った。
「その強さこそ、俺のレイチェルだ」
(えぇっ!? 私があなたのレイチェルですって!?)
身体の芯が熱くなるのを感じる。幼いころに大きな聖魔力を見いだされ、聖女になって王太子と婚約することを運命づけられたレイチェルは、意図的に異性と触れ合わないように育てられた。直接口を利いたことのある殿方は、父と兄、それから王太子くらい。初めて寄せられる異性からの好意に、どう反応してよいか戸惑うのも当然だった。
(でも悪い気はしないものね。今の私はもう聖ラピースラ王国の聖女じゃない。自由に恋をしたって良いはずだわ!)
ジュリアンと彼に付き従う獣人数人と共に魔法陣の上に立つと、目の前にふわっとしたしっぽが揺れている。
「か、かわいい!」
思わず指先で触れてしまった。
「わ、ちょっと聖女さん……」
照れる獣人さんの横で、ジュリアンがうなだれた。
「いーよ…… 俺はどうせモフモフしてないし」
「ご、ごめんなさい。ジュリアン!」
レイチェルは勇気を出して、彼のやわらかい髪に指先をすべらせた。
「あなたの銀髪もとっても綺麗よ!」
思い切ってほめると彼がくすぐったそうに笑ったので、レイチェルは口に出してみてよかったと嬉しくなった。
呪文詠唱が始まると魔法陣が輝きだし、やがて彼らはその場から姿を消した。
◆
「この瘴気―― 本当に聖ラピースラ王国じゃないわ……!」
大きな聖魔力を持つレイチェルは、大気中の魔素を感じ取り愕然とした。
(聖ラピースラ王国は本当に隣国の土地を奪おうとしていたのね…… こんなのいくら祈ったって、加護なんて得られないわ!)
国王陛下が国民をだましていた嘘、そしてさらに王太子がレイチェルについた嘘――妹クロエと結婚したいがために、レイチェルが聖女の力を失ったとでっち上げた…… 卑怯な国王親子に怒りの炎が燃え上がった。
「私の聖魔法の威力を見せてあげるわ!」
レイチェルが祈りはじめると、彼女を中心に白い光が広がっていく。土地の瘴気を浄化し、聖騎士団が掘った塹壕に緑の芽が息吹き、重い雲の立ち込めた空に虹がかかった。
「この光はなんだ?」
「聖女様がいらっしゃった!」
「我々を助けに来てくださったんだ!」
聖騎士団が喜びの声を上げる。彼らを包み込んだ白い光はさらに大きくなり、獣人の陣営にも及ぶ。
「人族ども、聖女が来たって騒いでるぞ!」
「あそこに立っているあの女――」
獣人兵の一人が、すぐ近くの小高い丘を指さした。
「――一緒にいるのは俺たちのリーダー、ジュリアン様じゃないか!」
「聖女の光が俺たちの傷も癒していくぞ!」
レイチェルの圧倒的な広範囲聖魔法は全ての兵士を癒し、人々の負の感情を消し去ってしまった。もとより誰も戦いたくなどなかったのだ。ただ一人を除いて――
「おい、お前たち! なぜ攻撃をやめるのだ!」
聖ラピースラ王国の陣地後方から怒声を上げるのは聖騎士団長。
「さっさと弓を射かけぬか!」
「我々は命令を拒否する! 聖王国を守る聖戦だと言われて来てみたら、ここは隣国だ! 聖騎士団は無用な戦いはしない!」
「わしの命令を聞かぬなら――」
「やめときな、おっさん」
攻撃呪文を唱えようとした騎士団長を、うしろから羽交い締めにしたのはジュリアンだった。
「魔力封じの術かけておいたから、魔法は発動しないはずだぜ?」
「くっ……」
ぎりぎりと歯を食いしばる団長の前にレイチェルがすっくと立った。
「誰の命令でこのような残酷なことを? あなたの一存ではないでしょう?」
「も、もちろんです、聖女様! 国王陛下の命令で……」
魔法が使えなくなった途端、騎士団長は弱腰になった。
「分かりました。この不毛な戦いを止めるには、国王陛下とお話ししなければならないようね。王宮まで案内してちょうだい」
周囲をぐるりと抜き身の剣を手にした騎士たちに囲まれて、騎士団長はびくびくしながらレイチェルを馬車のところまで案内した。
「聖女様、我々がお守りします!」
「ありがとう。私は聖魔法しか使えないからとっても助かるわ」
レイチェルは護衛を務める聖騎士たちと馬車に乗り込んだ。そのうしろには、まるで連行される罪人のように騎士たちに腕をつかまれた騎士団長の乗る馬車。
「ちょっと王都まで行ってまいりますわ!」
見送るジュリアンたちに、レイチェルは馬車の窓から手を振った。
「気を付けて。レイチェル!」
ジュリアンは泣きそうな顔をしている。
走り出した馬車へ、残った聖騎士団と亜人族の兵士たちが声を合わせて喝采を送った。
「聖女様は我々の味方だ!」
「聖女様、万歳!」
(私、必要とされてる! これぞ聖女の仕事だわ!)
神殿にこもって祈っているときには決して感じられなかった使命感に、レイチェルは胸を躍らせていた。
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