私の失敗
──少し時は遡る。一学期の終業式直後、どうにか学期を乗り切ったと喜んでいた私に教頭が寝耳に水の言葉を投げかけた。その額には痛々しい包帯が巻かれている。
「大塚先生、聞きましたよ。柔道の木村選手と交際されてるのですね」
「え?」
どうしてそれを? 職場では当然秘密にしていた。オリンピックに出場する選手と交際中だなんて知れたら間違いなく騒がれてしまう。
案の定、教頭のわざらとしい大声に反応する先生方。
「えっ、木村選手って……」
「金メダルの有力候補じゃないですか!」
「神住市出身なのは知ってたけど、歩美先生あの人と付き合ってるんですか!?」
「あ、いや、その……」
否定するのは無限に対して悪い感じがする。かといって素直に認めてしまえば火に油を注ぐことになる。
戸惑う私に教頭はフンと鼻息を吹いて嫌味を吐く。
「いいですねえ、木村選手が金メダルでも取ったら玉の輿ですよ」
「ええっ!? 歩美先生、結婚されるんですか!」
「おお、それはおめでとうございます」
「式には呼んでください」
「待ってください。別にまだそうなると決まったわけでは」
「そうなんですか? でもチャンスじゃないですか、思い切っちゃいましょうよ」
「そうそう、人生そう何度も機会は巡って来ませんよ。いや大塚先生ほど美人ならわかりませんけどね」
「あ、谷岡先生、それセクハラ発言ですよ」
「おっと、すいません」
──何を言っても無駄だった。無限との交際を知られた途端、必ずそうなるものだと皆が決めつけてしまって職場は祝福モード一色に。結婚して、そして主婦になるのだろうと考える人ばかり。
でも、私はまだ納得できていない。自分の仕事に満足できない。あいつと結婚してこの職場から逃げたって壁を乗り越えられたなんて思わない。
なんで教頭に知られてしまったのか、心当たりは一つしかなかった。
「すみません、そんなことになってしまうなんて……たしかに先日謝罪に伺った際、教頭先生にお話ししてしまいました。てっきり皆さん知っているものと思っていて」
玄関先で頭を下げたのは谷川君のお母さん。無限との交際のことは学校関係の人間では校長と谷川君にしか話していない。校長先生がうっかり口を滑らせるとは考えにくいから残る可能性は彼だけ。
いつものように訪問して問い質すと、やっぱり谷川君がお母さんに話してしまい、そこから教頭へという流れだった。
「いえ、私が迂闊でした……」
谷川君の私に対する好意への牽制のつもりで無限のことを話してしまったけど、すでに相手がいると答えるだけで良かったんだ。どこの誰なのか詳しく話す必要は無かった。
これは私のミスだ。
「あの、ところで息子さんにはまだ……」
「ええ、多分無理だと思います」
谷川君には少し前から直接会えていない。部屋に入れてくれなくなった。
原因は教頭先生。私を伴わず一人でこの家を訪問して前任の柿崎先生と同じことをした。つまり強引に彼を部屋から引きずり出そうと試みたのだ。
そして大ゲンカ。
教頭が一週間経ってもまだ見せつけるように包帯を巻いているのは、その時に額を怪我したから。そろそろ治っていても良さそうなものなのに。
本当、あの人は余計な事しかしない。
「まったく……」
思い返し憤慨していると、対面に座った谷川君のお母さんが「あの……」と控えめな声で切り出す。
「なんでしょう?」
「前から言おうとは思っていたのですが、今回またご迷惑をおかけしたことで決心が付きました。もう、うちへいらしていただかなくても結構です」
「えっ? 待ってください、どうして──」
「だって先生にとっては大事な時期じゃないですか。教師としても女性としても。そんな時にうちの子なんかに構ってチャンスを逃して欲しくないんです。先生のおかげであの子だいぶ明るさを取り戻しました。今はああですけど、一年前よりずっと良くなったんです。最近は私達とも割と普通に会話してくれて……だから本当に先生には感謝してます。もう、あの子との約束は無しということにしましょう」
真正面から言われ頭が真っ白になってしまう。なんだよそれ? 一年以上も彼のために頑張って来たのに、今さら、こんなところで諦めろって?
第一、その言い草は無いでしょう!
「うちの子なんかって、なんですか?」
「……」
「お母さんがそんな言い方をしないでください。まず親御さんが息子さんのことを信じてあげるべきで──」
「あなたに何がわかるんです?」
えっ。
「あんなおかしな子の親になってしまって、世間から白い目で見られて、それでも自分の子だからやっぱり可愛くて、見捨てられなくて……そんな私達の気持ち、親でもない人にわかるわけないでしょう!?」
激昂されて逆に私は冷静になる。頭から冷や水を浴びせられた感覚。
たしかに、そうかもしれないと思った。今までずっと担任として谷川君にもご両親にも親身に接してきたつもりだったけど、向こうからしたら的外れな意見ばかりを言うただの小娘だったんじゃないか?
そもそも、本当に彼のためだと思ってたの?
教頭と同じように自分の評価のためにやってたんじゃない?
どこか上から見ていなかった? 見下して憐れんでいなかった?
それを見抜かれたんだ。いや、ずっと前から知られていた。
「私は……」
何かを言わなきゃと思っているのに言葉が出て来ない。小学校から短大を卒業するまで十四年間、いったい何を学んで来たのだろう?
それとも学校で教わることなんて結局役に立たないの? だったら谷川君に学校に来てなんて言う意味も無い。彼は自分の力で生きていけるのだから。
「……すみません。今日はもう帰ります」
しばらくして、やっとのことで絞り出せたのはその一言だけ。
玄関で靴を履き、もう一度頭を下げようと振り返ると階段の上から谷川君が降りて来た。予想外の展開に私もお母さんもびっくりする。
「宗近?」
「……歩美先生、帰るの?」
「うん。今日は、ごめんね」
あっ──言ってから“今日”だけじゃないと思い出す。これも伝えておかないと。
「先生、月末から一週間いないんだ。八日からまた来るけど、それでいい……?」
私は今後もここへ来ていいんだろうか? 来るべきなんだろうか?
言外に込めた問いかけに彼が気付いたかはわからない。
谷川君は、ただ「うん」と答え頷いた。お母さんが彼から見えない位置で小さなため息をつく。何かを諦めたように。
なら、そうする。やっぱり約束は果たしたい。
精一杯の笑顔を返して手を振る。
今はそれしかできない。
「またね、谷川君」




