朝の埼京線みたいな感じです
呪いのホテルは、年月をかけて積もったホコリや汚れで全体的にモノクロだった。
「あっ、早乙女さん、今龍があっちの方にびょーんと伸びましたよ」
「そうですか」
「あー、今なんかウネウネしてますね」
「そうですか」
「今度はなんかねじれてます。龍ってそんなにねじれられるんだ」
「そうですか」
記録まで残っているだけあって、呪いのホテルにはやはり何かがあるのかもしれない。年中重苦しいはずの肩や首がさっきから軽く、そして勅使河原さんがそれを裏付けるかのように私に憑いた龍が活発な動きをしていると教えてくれる。
それよりも、私は気になることがあった。
「あの、勅使河原さん」
「どうしたんですか早乙女さん。龍はあちこち動いてるけど尻尾はあなたに絡み付いているので安心してください」
「龍はどうでもいいんですけど……勅使河原さんは大丈夫なんですか?」
「え?」
さっきから勅使河原さんの動きがどうにもおかしいのだ。
丸メガネを掛けた顔はいつものように笑顔だけれど、挙動が無駄に激しくなっている。突然腕を振り回したかと思えば、片足を高く上げたり、かと思うと踊っているかのようにピョンピョン跳ねたり回ったり。
暴れているというよりは、突然踊り出したような状況である。そんな状態なのにこっちの龍がどうたらとか言われても、見ている方からすれば恐怖しかなかった。
「あの、悪霊みたいなのに取り憑かれてたり……しませんよね?」
「まさか。元気ですよほら。ホラッ!」
「いや、その動きが完全に怪しいんですけど」
もしかして勅使河原さんの体は既に悪霊に乗っ取られていて、勅使河原さんの精神はそれに気が付かないままでいる……とかだったらどうしよう。私だけ逃げてもいいんだろうか。ていうか警察にどうやって説明すればいいのかわからない。
とりあえずスマホを取り出してみると、圏外だった上に画面がブラックアウトしてしまった。
「あ、バッテリーが」
「早乙女さん、そういうのは大体霊障ですよ」
「いえ昨日充電し忘れてたのでそのせいだと思います。勅使河原さん、スマホ持ってますか?」
片足でケンケンしながら、勅使河原さんは懐から取り出したスマホをこっちに投げてくれた。私の記憶が正しければ、先々月出たばかりの最新機種だ。10万を余裕で超えるスマホを慎重に扱いながら画面を起動させようとしてみるけれど、ボタンを押しても反応がなかった。
「勅使河原さんのスマホも電源切れてますよ」
「だからそれ霊障ですって」
「これだと警察とかタクシーとか呼べませんね。私ひとりの力だと踊りまくっている勅使河原さんを引きずって戻れるかどうか……」
「何か重大な誤解があるのがわかりましたが、とりあえず早乙女さんが私も助けてくれるつもりであることに安心しました」
勅使河原さんが「ちょっと待ってください」と言い、それからさらに激しく踊り出した。
南無阿弥陀仏でも唱えるべきか手拍子するべきか悩んでいると、若干息を切らした勅使河原さんが動くのをやめる。
「勅使河原さん! まともになったんですね!」
「私はいつでもまともです」
スマホを返すと、勅使河原さんは息を整えながらスマホをリュックに入れる。代わりにスポーツ飲料を飲んでいた。聖水とかじゃなく、スーパーで売っているような普通の市販のやつだ。
「早乙女さん、本当に霊とか見えないタイプなんですね」
「そうですけど……やっぱり悪霊に取り憑かれてたんですか?」
「取り憑かれてません。祓ってただけです」
「……踊ってたんじゃなく?」
「祓ってたんです」
奇抜な舞踊ではなく、お祓いだったらしい。
勅使河原さんいわく、このホテルに一歩足を踏み入れた瞬間からわんさかと悪霊やら怨霊やらが襲いかかってきており、それを蹴ったり殴ったりすることによって跳ね返していたそうだ。ただ無闇に手足を動かしていただけではなかったらしい。
「そうだったんですか」
「そうですよ」
頷きながらも、勅使河原さんは足を高く振り上げた。私には何も見えないけれど、今このホコリっぽい空間に悪霊が蹴り上げられたのだろうか。
「あの、その悪霊とかって、この空間にいっぱいいるんですか?」
「いっぱいいます。ギュウギュウです」
「ギュウギュウ」
「朝の埼京線みたいな感じです」
「すごくギュウギュウなんですね」
入ってすぐの広々とした空間、かつてはホテルのロビーがあったであろうこの場所に、通勤ラッシュ並みのギュウギュウさで悪霊がひしめき合っている、らしい。
……どうにもうまく想像できない。通勤とイメージが重なってしまったせいか、身動きできない不快感に耐えながら揺られているサラリーマンしか思い浮かばなかった。
「勅使河原さん、そんなとこに入って大丈夫なんですか。私も踊った方がいいんですか」
「踊りじゃないですし、早乙女さんはそのままでいても祟られたり呪われたり乗っ取られたりする心配はないから安心してください。ほら、龍が動いたらその先にいる霊が逃げ回っているでしょう」
ほら、と指された先には、崩れたのか壊されたのかわからないカウンターのようなものしかない。勅使河原さんにはそこに龍が体を伸ばし、悪霊がそれを避けているのが見えているらしかった。通勤電車並みの混み具合で避けるのは大変そうだ。
「ここは元々『忌み地』と呼ばれる類の土地でしてね。長い間苦しみ抜いた人間の怨念が積み重なっている土地なんです。そこにこのホテルが建てられたことで住みやすくなって、元からいた怨霊はもちろん周囲の霊も取り込まれるようになったようです」
「そんな歴史があったんですね。…………乗車率200パーセント超えな状況でも、住みやすい環境なんでしょうか」
「まあここの人たちみんな死んでますしね」
このホテルは、すし詰めになってでも居座りたいほど悪霊にとって居心地のいいものらしい。生きている私にはよくわからない価値観だ。
「本格的なお祓いを始める前に、ちょっとこの辺の霊を片付けます。早乙女さんは待っていてください。散歩しててもいいですけど、場所によっては老朽化しているので気を付けて」
「散歩したい場所じゃないので大丈夫です」
霊が見えないとしても、流石にこんな薄暗くて不気味な建物をひとりで探索しようとは思えない。
とはいえ、勅使河原さんがさっきよりも激しく踊り出したので、私は彼の邪魔になったり舞い上がったホコリを吸わないように少し離れていることにした。
ホテルの壁には、時代を感じさせる壁紙や往時のポスターなどがうっすらと見て取れる。私はそれを眺めていようと壁際に移動した。
足元には割れたガラスや木の板などが落ちていて、下を向いて歩いていたほうが安全そうだ。ビニール袋に包まれたスニーカーでシャカシャカとゆっくり歩いていると、ふとロビーの端、廊下へと続く方へ来てしまったのに気が付いた。
勅使河原さんは背後の少し離れたところで手足を動かしている。
廊下がどうなっているのかと興味本位で覗き込んだとき、黒い影が視界を横切った。




