お清めの聖水
「早乙女さん、いつもビニール袋持ち歩いてるの?」
「はい。勅使河原さんは持ってないんですか?」
「持ってないなあ」
「急な買い物とかで便利ですよ。汚れ物入れたり、こういうときも使えるし」
右足にコンビニのビニール袋、左足には持参のビニール袋を履いた私を、勅使河原さんは「しっかりしてるねえ」と眺めた。
勅使河原さんはお金持ちっぽい。どうせスーパーに行くときもビニール袋をその場で買うタイプなのだろう。ちょっと卑屈になりかけて、私は深呼吸をした。
「あ、虫除けスプレーはありますよ。使う?」
「使います」
リュックのポケットからミストタイプの虫除けを出した勅使河原さんは、心なしかドヤ顔だった。
これから進むのは背の高い藪だ。もう気温も高くなっているので、絶対に虫はいるはず。スーツを汚さないよう気を付けつつ、念入りにスプレーしておいた。
「あ、お清めの聖水もあった。使う?」
「いらないですなんですかその怪しい水。有効成分何入ってるんですか」
「成分的には水だけど、◯◯神社の霊験あらたかな湧水ですね」
有名な神社だけど、そこの水を持ち歩いているというのは怪しすぎる。そして「聖水」とマジックで書かれたスプレーボトルに入っているのも怪しすぎる。吹き付けるんだろうか。加湿以外の意味あるんだろうか。
「これをこうシュッてすると……ほら! ここにいた変なのが綺麗に消滅!」
「いや消えたとかわからないですしそれ以前にそこに変なのいたんですか怖いんですけど」
勅使河原さんが藪の方にシュッと聖水を吹きかけて通販番組みたいなことを言ったけれど、私の目に写っているのは空中に水を吹き付けてはしゃいでいる姿だけだ。
このホテル、人通りの多い場所になくてよかったなあ。
勅使河原さんの変わったところには段々慣れてきた気がするけれど、他人からの好奇の目まではスルーできる気がしない。
なんだかんだありつつ、私と勅使河原さんは藪を掻き分けて呪いのホテルへと近付いた。
すぐ近くまで来ると、いかにも廃墟といった様子の大きな建物は圧迫感を感じるほど存在を主張していた。
上にある大きな看板の不気味さはもちろん、ほとんどガラスを割られた窓に、裂けて細く垂れているカーテン。昼間なのにその向こうは窺い知れないくらいに暗い。ヒビが入ったコンクリートの壁と床も不気味で、壁の途中まで這い上って枯れた蔦までが、まるでそのホテルに縋り付いて死んだような異様な雰囲気を放っている。
「ほ、本当に入るんですかここ」
「はい。やっぱり早乙女さんにも見えますか、こちらを睨んでいる無数の目が」
「私に見えるのは倒壊の恐れがある建造物ですけど」
入って大丈夫なんだろうか。耐久度的に。あと目って何。
私は立ち止まって、指でこめかみに触れてみた。
いつも職場に行くとき感じていたような頭痛はない。
「あ、龍ですか? 今ちょっと伸び上がってホテルの中を興味深そうに覗き込んでますよ。ほら、丁度タツノオトシゴみたいに尻尾だけ早乙女さんに巻き付けて」
「タツノオトシゴ……」
水族館で見た、くるっと丸まった尻尾が頭に浮かんだ。
私は海藻か何かだろうか。
ちょっと微妙な気持ちだけど、久しぶりに頭痛もなく肩も軽いのは確かだ。
「行きましょう、勅使河原さん」
気持ちは重いけれど身体は軽い。
両方を天秤にかけて、私はスッキリした肩を回しつつ中へ進むことを選んだ。