かげのおり19
「浦上さん、何もせず帰ってください。じゃないと持ってる殺虫剤を全部あなたに吹きかけます。人間だって、殺虫剤まともに吸ったら健康によくないですよ」
「うん、ニオイがやばそう」
スプレー缶が入ったバッグを揺らしてみせる。虫のように一瞬で倒すことはできないだろうけれど、逃げ出すチャンスくらいは作れそうだ。廊下を抜けて1階に降りるには浦上さんの他に木田さんの横もすり抜けないといけないけれど、この状況でずっとカメラを回し続けているところからすると木田さんには殺意がないかもしれない。善意もないようだけれど。
私が隙を狙ってじりじりと横に動くと、浦上さんが笑う。
「意外と諦めないタイプなんだね。そういうのいいよー。諦めて命乞いとかされるとすぐ終わっちゃってつまんないもんね。ほらほら頑張ってー」
高級そうな靴が、木材を蹴ってこちらに飛ばしてきた。そんなに痛そうな勢いではないけれど、角や折れた部分に当たると怪我をしそうだ。飛んできたら避けるしかない。浦上さんは私に当てようという気持ちはそんなにないようで、物を片付けるみたいに落ちている木材をこっちに積み上げてくる。部屋の奥へと下がって、私は割れたドアからベランダへと逃げた。
黒ずんだコンクリートのベランダは思ってた以上に狭かった。2階をぐるりと囲むように作られているはずだけれど、吐き出し窓を出てすぐ、左右どちらにも物が積まれて塞がれている。ダンボールや黒いゴミ袋が肩くらいの高さまで積まれていて、ご丁寧に有刺鉄線が載せられている。
手すりから下は1階の屋根がある。そこまでは降りられそうだけれど、天井が高いせいでそこから地上へと降りるのは難易度が高そうだ。足を怪我したら追いつかれてしまう。
「ほらほらー早く逃げないと危ないよー」
「浦上さんだって危ないですよ。それ以上近付かないでください」
棚板を持って一歩近付いた浦上さんに、またスプレーを構える。
すると浦上さんは首を竦めた。
「早乙女さん、俺にもスプレー渡したの忘れた? 武器にするなら誰かに渡しちゃダメだよ?」
確かに私は、浦上さんにも殺虫剤を渡した。勅使河原さん経由で。
でも携帯用の小さいものだ。
量の方では私に勝ち目はある。そう思っていると、スプレーを取り出した浦上さんが、さらにポケットを探る。
「あとさー、スプレーで戦うならせめてコレ持ってないと意味なくない?」
コレ、と振られたのはライターだった。
「……確かに」
私は素直に頷いて、浦上さんから距離を取ろうとベランダの手すり近くへ下がった。
スプレー缶には火気厳禁と書かれている。火を近付けるとどうなのかは実際には見たことなかったけれど、昔読んだ本に載っていた。
その本に載っていた通り、浦上さんがライターに火を付け、そこにスプレーを噴射する。
即席火炎放射器のできあがりだった。
「初めてやったけど結構楽しいねこれ」
「部屋が明るくなりましたね」
私に向かって攻撃してくれなかったのはよかった。
けれど、スプレー缶から噴き出た大きな炎は私の手前に重なった木材に燃え移り、パチパチと音を立てながら煙を出し始めた。
暑い夏の夜がさらに温度を上げる。煙越しに、木田さんがゆっくりカメラを動かしているのが見えた。浦上さんは首を傾げながらこっちを見ている。
「あれ? 全然怖くないの? おかしいなあ」
おかしいのはあなたなんですけど。
私が反論する前に、浦上さんが燃えかけた角材をこっちに投げてきた。
流石に焦って避けるのと同時に、どぉん、と大きく家が揺れた。
「なんだ今の。地震?」
他の角材に火を移しながら浦上さんが周囲を見回すけれど、今のは地震ではないことは経験的にわかった。
もう一度、どおん、と大きな音が鳴る。ものすごく巨大な太鼓を叩いたような、空気がびりびり揺れているような、遠くで何かが爆発したようなそんな音は、今までにも聞いたことがあった。
火が近いし、びたーんびたーんが来るとちょっと困るな。別の感じでやってほしい。
そう思いながら身構える。すると、目の前がパッと眩しく光った。




