落ち着いて落ち着いて
『ごめんなさいねー。ちょうどバイトさん決まっちゃったとこなのよ』
『すみません、今朝店の水道管が破裂してしばらく休業になるので……』
『ちょっと今忙しいので!! おい、早く消火器持ってこい!!』
最後の応募先はわーわーと騒がしい音が聞こえるだけで応答がなくなってしまったので、失礼しますーと叫んでからそっと切った。
バイト雑誌に載っていた区内のバイト先は、これで全滅だ。
「さすがにおかしい」
命綱である工場系の日払いバイトの派遣先からもなぜか募集が来ず、連絡してみたら不通。なんでだろうと首を捻ったら、開けっ放しの窓から隣のテレビの音が聞こえてきた。どうやらとんでもない不祥事が発覚したようだ。
財布の中身は千円札が2枚と24円。
大きく溜息を吐くと、ギシギシと玄関の外が軋んだ。新しい仕事が見つかったら老朽化しまくりのこのアパートから脱出したいと思っていたけれど、今のところそれは実現しそうにない。
財布をしまい、それからバッグのポケットに入れていた名刺を見る。
「……」
仕事の相談に乗ってくれるって、本当だろうか。
いやいや詐欺だろう。きっとあの手この手で騙した上で借金とか作らされるんだ。でもない袖は振れない状態で借金ってできるんだろうか。闇金の人ってバイトとか紹介してくれないのかな。内臓売れよって言われるのかな。でもお祓いお清めとか書いてるからやっぱり怪しい宗教なんだろうか。住み込みで掃除とかお祈りとかさせられるんだろうか。ご飯と布団が付いてるなら魅力的だ。
「いやいや」
できるなら自分の手で稼いで生活する道を歩みたい。
まだそれが選べる状態だ。
たぶん。
あと1週間くらいは。
「いらっしゃーい」
気付けば私は、現代風着物姿の怪しい男性と再会していた。
「どうぞどうぞ」
丸メガネ越しに目を細めながら、その男性は背後にあるマンションへと案内しようとする。
「ちょ、ちょっと待ってください」
「まあ落ち着いて、話はお茶でも飲みながら」
「私、ここに来たくて来たんじゃないんですけど!!」
そう。私が会いにきたいと望んできたわけじゃない。
スマホの通信量が上限に達しそうだったので、もやしを買いに行くついでに紙のバイト情報誌を探しに街に出かけたら往来ですっころび、羞恥心を堪えながらも立ち上がったところで正面から血走った目の男の人が刃物を持ちながら走って来ていることに気が付き、咄嗟に逃げたものの何故か私が標的にされていて追いかけ回され、飛び出してきた車に轢かれそうになったりカラスの巣が落ちてきたりしながらもなんとか逃げ延び、息切れで立ち止まってふと顔を上げたらこの人がいたのだ。
「何なんですかあなた。なんでここに立ってるんですか」
「逆逆。あなたがここに導かれてきたんですよ」
「導かれて……誰に……?」
「そこのひとに」
怪しい男の人の指先が、また私の顔よりちょっと斜め上の位置を指す。
一応振り向いてみたけれど特に何もない。道路を挟んだ向こう側のビルの上に看板があるけれど、新発売ポテチが描いてあるだけだ。ポテチに導かれた覚えはない。
「そ、そこのひとって」
「言ったでしょ。あなた憑かれてますよって」
詳しい話はウチでどうぞ、と言った怪しい人は、そのままマンションのエントランスへと歩き出してしまう。私はもう一度、何も見えない斜め上へと視線を向けてみる。
落武者とか。
自殺した女性の霊とか。
苦しんで殺された怨霊とか。
そういうのがいるのかもしれないと想像するとゾッとして心細くなった。そのせいである。ついていってしまったのは。
「何飲みます? コーヒー? 紅茶? 緑茶? ほうじ茶? 烏龍茶? マテ茶? ブラッドオレンジジュース? レモン水? スパークリングウォーター? 飲むヨーグルト? 青汁?」
怪しい男の人が開けたドアの向こうは普通のマンションの一室だったけれど、飲み物の選択肢はやたらと多かった。
ほうじ茶を頼み、向かい合わせになっているソファの玄関に近い方へ浅く座る。リビングがちょっとした応接室っぽい雰囲気なのは、こうやって誰かを招き入れることが多いからだろうか。
湯呑みを出されて会釈しつつ、私は向かいに座ろうとする怪しい人に問いかける。
「あの、憑いてるってどういうことですか。私、霊に取り憑かれてるんですか。呪い殺されたりするんですか」
「落ち着いて落ち着いて」
怪しい人は、私を制しながら飲むヨーグルトをゆっくり口にする。そして口周りを白くしたまま私をまっすぐに見つめ、それから静かに告げた。
「あなたに憑いているのは……」
「のは……?」
「龍です」
「は?」
「龍。ドラゴンです。ほらあの細長くてヒゲがニョロっとしていてツノがある」
目の前の怪しい人は、ご丁寧に両手の人差し指を伸ばして頭にくっつけ、体をくねらせて全身で「龍」を表現した。
「ほら、こういう龍ですよ! こう、こういう感じの! 目付きとかこうギョロッとした感じの!」
私の反応が不満なのか、怪しい人のモノマネがどんどん加熱していく。
やっぱりからかわれているんだろうか。
私はちょっと帰りたくなった。