初夏のかげ1
昼間は汗ばむようになってきたけれど、朝はまだ気持ちいい。
アラームをかけて早起きする。手順よく身支度を済ませて、ガタピシ鳴る部屋を出た。通勤ラッシュがそろそろ始まりそうな時間は、カフェも少し騒がしい。
カフェオレとクロワッサンサンドを頼み、通りを眺められるカウンター席にひとり座る。
足早に駅へ向かう人々は、毎日しっかり働ける安定した職場がある。それは羨ましい。
けれど、今こうして朝ごはんをカフェで食べられる金銭的余裕があるだけで幸せだ。
「ママ! でっかくてヒゲのあるヘビがあの人に巻き付いてる!!」
「なあにたっくんまだ寝ぼけてるの?」
「……」
……たとえ、龍に憑かれているとしても。
じわじわと痛み出したこめかみを揉む。揉むふりをして、ちょっと手で何もないところを払ってみる。
私の雇い主である勅使河原さんからすると、この頭痛は「龍の甘噛み」らしい。痛みを感じている時点で甘噛みじゃない気もするけれど、とにかくじゃれついているのだそうだ。
まだ信じたわけではない。
幽霊ならまだしも、龍なんて実在するとは思えないし。いや実在はしてないけど。
けれど、私の不調や周囲で起こる不思議な出来事はどうやらこの取り憑いている龍の仕業だと勅使河原さんは頑なに主張している。そしてアドバイス通りにしてみるとちょっと生活がラクになる。だから龍が原因かどうかはともかく、私は今のところ勅使河原さんの元で働き続けていた。
龍がいようが悪霊がいようが、お給料を安定してもらえる暮らしはありがたい。
サクサクのクロワッサンに挟まれたアボカドシュリンプを噛み締めていると、スマホが短く震えた。
『おはようございます♪( ´▽`) 紅茶が切れていたので、途中で買ってきてくれませんか?』
勅使河原さんは絵文字より顔文字派だ。
文章のあとに「オネガイ」と手を合わせているセイウチのスタンプが送られてきたので、「了解です」と返事する。すると「ワーイワーイ」とペンギンが喜んでいるスタンプが返ってきた。先週は表情が怖いウサギのスタンプだったけれど、今週は水族館シリーズのようだ。
ラッシュが終わるまでゆっくりと朝食を楽しんだあと、早めに開店するスーパーに立ち寄る。備品購入用のノノコカードで高そうなロゴのスタンダードっぽい紅茶を買った。マンションの入り口で部屋番号を押し、ドアを開けてもらう。
「おはようございまーす」
「おはよう早乙女さん。お使いありがとう」
「レシートも確認お願いします」
缶と共にレシートを渡し、ノノコカードの残高も確認してもらった。勅使河原さんは苦笑しながら頷く。
「早乙女さんってキッチリしてるよね。ちょっとくらい使ってもいいよ。お菓子とかジュースとか」
「いえ、お預かりしたお金を無断で使うわけには」
「そういうキッチリしたとこも好かれてるみたいだねえ」
眼鏡をかけた勅使河原さんの目が、私の少し上に移動した。今日も元気だなーと呟いている。
「じゃあ今日もよろしくね」
「はい」
「今日は最初に出張お祓いで夕方に打ち合わせだけど、もう出かける準備できてる?」
「はい」
「さすが。今日は規模小さいから、持ってくのは基本の3大お祓いセットだけでいいよ」
「用意してあります」
リビングの壁に置かれた棚から、昨日準備していた小さなバッグを取り出す。
そこに入っている3つの道具は、お祓いになくてはならないものだ。
「虫除けスプレー、虫除けリング、殺虫剤ですよね」
「うん、早乙女さん、それはもはや3大虫除けセットだからね」
何をおいてもこれは外せないセットだ。
私がしっかりバッグに入れると、勅使河原さんが遠い目をした。




