第十五話 あの日を見せる陽炎の#A
夏の匂いが鼻を突くたび、あの日のことを思い出す。
家の電話が鳴る音。
受話器の向こうの喧騒と、焦燥の声。
海にでも突き落とされたかのように、一気に冷めていく体。
もし、あんなことが無ければ。
アタシもあの子も、今は―――
☆
「杏梨ちゃん?」
「え、わぁっ!」
間近で響いた声に驚き、椅子ごとひっくり返る。教室中の視線を集めながら、杏梨はゆっくりと起き上がった。
声をかけた舞華と、一緒に話していた芽衣は怪訝な顔をしながらその様子を見ている。
「いやーそーりー、んで何の話だっけ」
「何の話もなにもっしょ。杏梨今日ボーッとしすぎ」
「体調悪いの? 何かあったなら話聞くけど」
口々に心配の声をかけられ、たじろぐ。一人で悩むなとは言わないまでも、明らかに様子がおかしいことは看過できないと二人の表情が語っていた。
しばらくは唸り声を出しながら狼狽えていた杏梨だが、結局手を合わせて謝った。
「ごめん! こればっかりは話せない!」
「……自分で片付けられる問題なの?」
舞華の問いかけは、杏梨の心に重くのしかかった。思わず苦い顔を見せてしまい、視線を逸らす。
まずかったか、と少しだけ舞華の顔色を伺う。しかしそれ以上の追及はなく、空気の重いまま話は流された。
その後も杏梨は浮かない顔のままで、授業中にも何度か教師に注意される。あまりにも様子がおかしいことを見かねてか、一度は保健室に行った方がいいのではとまで言われてしまった程だ。
☆
「どう思う、あれ」
「そう言うと思って、予想つけてきました」
「早ーい」
放課後、スーパーの中を歩きながら舞華と芽衣は昼間のことを思い返す。本人の弁を尊重するのであれば首を突っ込むのは野暮だが、それでも普段は元気の塊である杏梨が落ち込んでいるのを見逃せる二人ではない。
調味料の棚を見ながら、芽衣は深刻そうに語り始めた。
「杏梨のさ、入学動機。話したいセンパイがいるってやつあったっしょ」
「ああ、それ」
「どーもキナクサイんだよねー……こう憧れーとか恋ーとか、そういう系じゃないっぽいの」
少し言いよどむ。その先を話していいものか、この場においてなお芽衣は迷っていた。
しかし一度腹を決めた身、深呼吸を挟んでからおもむろに続きを話し出す。
「もしかしたら……マジで復讐とかそーゆーヤツかもしれない」
「……何かあったの?」
「あくまで予想なんだけど」
芽衣から聞いた話は、以下の通りだった。
二年生で陸上部に所属するある生徒は、通常の練習に同行しない。暗くなった後、夜七時から八時にかけての一時間の間だけ一人で走り高跳びの練習をしているのだそうだ。
曰くその生徒は中学生の時、記録を競っていた後輩に怪我を負わせ、以後の大会へ出場停止の処分を受けたらしい。
他の生徒と同じ時間に練習できないのはその話が噂として広まったせい……
「それと杏梨ちゃんとの関係って……」
「同じなんだって、中学。だから多分、その怪我させられた後輩っていうのが」
「……じゃあ」
杏梨が天祥学園に入学した理由は、友人が怪我した事件の真相を知るため―――
言葉が出ない。何かを言おうにもこの場に当事者である杏梨はおらず、自分達がむやみに首を突っ込んでいい話でないことが思考をより狭めていく。
しばらく二人して無言のまま立ち尽くし、遂には座り込んでしまった。何かできないかとは思っても、頭が空回りして呆けるしかできない。
スーパーに流れる呑気な音楽も、談笑の声もどこか別の世界にあるかのように遠く聞こえる。
「……何かできないかな」
「できたら……よかったよね」
☆
今でも正確に、その顔を思い出せる。
話を聞かせろと乗り込んで、友達に引きずられていた時だ。
無表情を貫きつつも、どこか申し訳なさそうな―――
本当にそうか?
―――無表情。興味もなく、当然といったような。
人に手を出し、怪我をさせておきながら。
そうだ、それでいい。
なんであんなことを。
憎い。苛立ちが収まらない。
同じ目に遭わせてやりたい。罰が無くていいはずがない。
あの子の代わりに、アタシが―――




