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浮気調査専門探偵の殺人事件簿  作者: まつおさん
3/3

黒いレクサスと宅配便

挿絵(By みてみん)

(書籍化されることを妄想して表紙を作ってみました)


 5日間の被疑者勾留の後、俺は無事釈放された。

 司法解剖の結果、包丁からは被害者の皮膚組織等はほぼ付着しておらず、刺創、切創ともに、包丁で作られたものではないこと、逮捕時の俺の衣服に返り血がまったく付着していなかったことなどが判明したためだ。


「ホトケさんに挨拶してくか?」

 留置場から出ると、後ろから龍に声を掛けられた。

「今行くと家族と対面することになるから、気まずいならズラしてもいいが」

「・・・いや、行こう」

 スマホ等、返却された手荷物をポケットにしまい、身だしなみを整えながら答える。

 龍はフッ、と鼻を鳴らすと、ついてこいとばかりに前を歩いた。



「しんっじらんない! サイッテー!! しんっじらんないっ!!」

 霊安室に、耳を覆いたくなるような悲痛な怒声が響き渡った。

 名門女子高の制服を着た少女が、通学カバンを西岡仁美に投げつけて、真っ赤に泣きはらした眼でにらみつけている。

 西岡茉優にしおかまゆ、西岡夫妻の娘だ。

 遺体発見から司法解剖に至るまでの経緯を説明、共有するためには、西岡仁美が俺に夫の浮気調査を依頼していたという事実を隠すことはできない。

 結果的に西岡勇次郎が不貞行為を働いていた証拠はなく、多感な時期の娘から見れば、母親のせいで父親が死んだように感じても無理のないことなのかもしれない。

 西岡親子を霊安室に案内したため同室しているザキが何かを言おうとしたが、龍に制止された。

 今は何を言ってもムダだ。

 こういうことは、理屈で割り切れるようなものではないのだから。

「どいてよっ!!」

 霊安室に入り口側に立っていた俺をキッと睨み上げると、西岡茉優は俺に肩がぶつかるのも構わず、霊安室を駆け出していった。

(追いかけなくては)

 俺の目くばせに、龍はうなずいた。

「・・・今はそっとしておいた方がいいんじゃないスか?」

 ザキの言葉を無視して、俺は霊安室を後にした。

「んなこたぁわかってんだよ。浮気屋も、オレもな」

 出る時に、龍がザキに小声で言っているのが聞こえたが、小声じゃなくても、呆然自失とした西岡夫人には聞こえないだろう。

 非情かもしれないが、今は西岡茉優の心情にかまっている時ではない。

 父親はまったく動機不明のまま殺害され、その手口は正体不明のプロによるもので、その足取りもまったく掴めておらず、逃亡しているならまだいいが潜伏している可能性も高い。

 

 つまり、西岡親子、特に娘の茉優が狙われる可能性はゼロではないということだ。

 ただの思い過ごしかもしれないが、という前提で、俺は龍に、捜査協力を約束する代わりに勾留期間中の西岡親子の身辺警護を頼んでいた。

 そんな西岡茉優が精神的なバランスを欠いた状態で、単独行動を始めた。

 もし西岡親子を狙っている奴がいるとしたら、このタイミングを見逃すはずがない。


 ――んぅっ!

 武蔵野警察署の正面にある八丁通りで西岡茉優を探していた俺は、くぐもった声が聞こえた気がして、警察署の左隣にあるマンションの方を振り向いた。

 それとほぼ同時に、マンションの脇に停車していた宅配便のウォークスルーバンのドアが閉まり、急発進を始める。

 ドアのすき間から、コトリ、と何かが落ちた。

 女物の、通学用ローファーシューズだ。


「っ、くそっ!!」

 俺は全速力で警察署に引き返すと、そこでザキにばったり出くわした。

「いでっ!! な、なにすんだてめぇ!! ってアンタ、浮気の・・・」

 俺の肩に思いっきり鼻がぶち当たったザキが、鼻を押さえながらこちらを見上げる。

「時間がない!! 車出せ!! 早く!!!」

 今はぼーっとしている暇はない。ザキの頭をはたいて、覚醒を促した。

「いでぇ!! な、何!?」

「西岡の娘がさらわれたんだよ!! いいから今すぐ車を出せ!!!」

「い、いでぇっ!! わ、わかった、わかったから!!」

「ダッシュだバカヤロウ!!」


 パトカーで来るものと思っていたが、ザキが回してきた車は黒塗りのいかついレクサスだった。

「お、お前これ、要人警護用のやつじゃないのか?!」

「知りませんよ! 山下先輩に車回しとけって言われてて・・・、お、おれ、殺されますよ!!!」

 フロントドアガラスから顔を出して、半泣きになりながらザキが叫んでいる。

 警察署の入り口でおじいさんを轢きそうになりながらザキが停車すると、俺は急いでレクサスに乗り込んだ。

「宅配便だ!宅配便のバンを追え!! 杉並ナンバーの500『い』〇〇ー〇〇だ!! 八丁通りから文化会館通りを左折、井の頭通りとの交差点に向かっているはずだ! 交差点までに見つけないと間に合わん!! これ覆面だろ? 無線で応援を呼べ。ヘリもだ」  

「マジでさらわれたんスか? 見間違えとかじゃなくて?」

「正真正銘の拉致事件だよ!! しかも警察署の真ん前でだぞ?! 帰した直後にみすみすさらわれちゃいましたってことになったら、お前のキャリアなんて鼻くそみたいに吹き飛ぶぞ?」

 俺に言われて事の重大さに気付いたザキの顔面がみるみる蒼白になる。

「わかったら急いで緊急配備させろ!! わかったか!!」

「は、はい!!」

 八丁通りから文化会館通りを左折したエリアには、武蔵野区検察庁や簡易裁判所など武蔵野市の司法施設が集中していて、その隣に、武蔵野市に本拠を構える国内最大手、世界第六位の計測・制御機器メーカーである横河電機のグラウンドがある。

 その先には五日市街道から吉祥寺駅、井の頭公園の方にまっすぐ伸びる井の頭通りと交差していて、できればここで逃走車両の進行方向を確認しておきたかったのだが、どうやら相手は信号に恵まれたようで、完全に見失ってしまった。

「一旦止めろ。無線連絡は任せる」

 俺はスマホを取り出し、ブラウザで連絡先を調べて電話をかける。

「お電話ありがとうございます、〇〇運輸です」

「ちっ、音声案内か・・・」

 焦る気持ちを必死に抑えて案内を聞き、指定に番号を入力し、オペレーターへの応答に繋ぐ。

「大変お待たせいたしました。〇〇運輸の柴田です」

「柴田さん、こちら警視庁捜査一課三係の山下龍と申します。これはいたずら電話ではありません。これから少しショッキングな話をしますが、落ち着いてよく聞いてください。」

 龍の名前を勝手に出した俺にザキが何か言いたそうにするが、俺はザキの目を見て制止する。

「現在、御社の車両に乗った誘拐犯を追跡中です。盗難車の可能性が高いと考えています。杉並ナンバーの500『い』〇〇ー〇〇です。緊急事態のため、まずこちらに当該車両のGPS情報を共有してください。あなたにその権限がない時は、大至急上長の確認を取ってください。もう一度言います、大至急です。人命がかかっています。令状はありませんし取得する時間もありませんし、そちらで担当ドライバーに連絡を取るなど、事実確認をするのを待つ時間もありません。無理は承知ですが、どうかご協力いただきたい、ええ、はい、お願いします」

 俺は電話を切った。折り返し待ちだ。

 その後すぐさま電話がかかってきたと思ったら、ザキのスマホだった。

「や、やべぇっ!! 山下先輩だ!! うわーどうしよう!!!」

「どうしようって、説明するしかないだろう。しゃーねぇから腹くくれ」

「こ、殺される!! 行くも地獄、戻るも地獄じゃないスか!!!」

 俺は無言でスマホを勝手に操作してハンズフリーにした。

「ザーキーぃぃぃ、てめぇ、どーこほっつきあるいちゃってんの?」

「ひ、ひぃっ!!!!」

 俺のスマホにも折り返しがあり、すぐに受話器を取った。

 ドライバーのGPS情報は社としてはさほど重要ではないのか、上長の許可は比較的スムーズに取れたようだが、GPSの共有手段に困っているようだった。

「とりあえずざっくりした現在位置だけでも、ええ。お願いします。井の頭通りを直進、中央線の高架下を通過・・・ありがとうございます」

 俺はザキに目くばせして、ザキは泣きそうな顔でアクセルを踏んだ。

「・・・その声は浮気屋か? おい、お前ら、まさかとは思うがオレのかわいいレクサスちゃんでいちゃいちゃドライブしちゃってるワケじゃねぇだろうなぁ?」

「そ、それがですね、あのっ」

「お前のじゃないだろ、国民の税金だ」

「アンタは余計なこと言うな!! 燃えさかる炎にガソリンぶっかけてどうすんだ!!」

 組織犯罪対策課、いわゆるマル暴や潜入捜査員など、マイカーを捜査車両として登録している捜査員はいるが、それらはあくまで内定目的の用途に限られており、覆面パトカーのように緊急走行やパトライト、サイレンを載せたりすることはできない。

「ハッハッハ!! 浮気屋の言うとおり、そのパトには国民の血税がたっぷりかかってる。その車はウィルス騒動で都知事を移送するのに使った預かりもんなんだよ」

「ひぃっ、と、都知事サマっ・・・」

「そんなありがたーいおクルマちゃんをこれから返却しに行くからションベンに行ってる間におめぇに車を回させようとしたら、ションベンどころかクソを垂れてもおめぇが戻ってこない。何事かと電話してみたら浮気屋とドライブしてるって? ・・・なぁザキよ、俺はもしかして、便器で頭をぶつけてヘンな夢でも見ているのか?」

「夢であってほしい・・・夢であれ・・・」

 脂汗びっしりと滝のように流しながら、ザキが念仏のようにつぶやいている。 

 


「今すぐ戻ってきたら、半殺し3回で許してやる。・・・いいか、オレはおめぇのことを思って言ってるんだぜ? ・・・少しでも傷が付いたら、ザキ、おめぇ、竹島で交番勤務やらされるかも知れねぇぞ」

「た、竹島っ?!」

「バカ、前を見ろって!うわっ!」

 中央線の高架下を通り、井の頭通りから吉祥寺駅前の交差点で右折して吉祥寺通りに入る。

 動揺したザキがハンドル操作を誤って路肩に乗り上げ、老舗の立ち食い焼き鳥屋、いせやに危うく乗り上げそうになり、反対側にハンドルを切ったことで消火栓にぶち当たり、井の頭公園手前のガードレールにすさまじい水圧の消火用水が噴水のように噴き出した。

「お、おい、なんだ今の音は!? なっ!! お、おめぇまさか」

「うわああああっ、おれの人生おしまいだああああ!!!!」

「ぶつけたのか!? おい、おめぇもしかいて、ぶつけちまったのか?! おい!」

「ううっ、ぶ、ぶつけちゃいましたぁぁぁ・・・・・・ボンネットがベコッて・・・、あと、右のハンドミラーが、ううっ、ど、どっかいっちゃいましたあああっ」

「い、いや、どっかいっちゃいましたってお前・・・・・・」

「バカ!!減速するな!!」

 俺は片手でザキのハンドルを奪い、アクセルを一気に踏み込むと、消火栓に当たった衝撃で俺の膝元にパトランプが落ちて来ていたので、窓から身を乗り出してレクサスの上に設置し、サイレンを鳴らした。

「お、おいおいおい、なんかサイレンの音が聞こえてんぞ・・・、おまえら一体何を・・・あ? すまんが今ちょっとそれどころじゃ・・・はぁ? 緊急配備? おい、待て・・・」

 電話の向こうで龍が誰かと会話をしている。おそらくザキの緊急配備要請が回ってきたのだろう。 

「・・・おい、何があった?」

「娘がさらわれた。あの後すぐだ」

「おい、なんでそれを先に言わない!! 今向かう!!」

「待て! お前は今、西岡夫人の近くにいるんだろ?」

「ああ」

「犯人が単独犯とは限らん。お前は夫人の安全確保を優先しろ」

「・・・・・・、そうだな、わかった。おい、ザキ」

「ふぁい・・・」

 涙と鼻水と脂汗でひどい顔になりながら、ザキが返事をする。

「こうなったらそいつをスクラップにしてもかまわん、死ぬ気で捕まえろ。いいな?」

「ふぁい!!!」

「マル追を発見。八丁通りに入っている。ウィルス騒動のおかげで道路が空いている。かなりのスピードだ」

 ようやく配備が完了したのか、ヘリからの無線連絡が入って、俺はナビを確認した。

「八丁・・・・・・?」

 なぜだ・・・、なぜ戻ってきた・・・?

 緊急配備で本格的な封鎖が始まる前に、なるべく封鎖半径の外側に脱出するのが逃走のセオリーはなずだ。

 なぜ、わざわざ逃走開始地点近くの、しかも警察署のお膝元なんていう最警戒ゾーンに逃げ込むような真似をするのだろうか。

 まぁ、今考えても仕方がない。

 このまま八丁通りをまっすぐ行けば警察署の前を通る。

 かなりのスピードと言っていたから、細い路地に入ることは考えづらく、警察署前を通ることもありえないし、仮に通ったとしても確保は容易だろう。

 となると、手前の中町新道に入る可能性が高い。

「なぁ、三鷹駅のロータリーと、その手前の右折路を封鎖できるか?」

「武蔵野警察署のすぐ近くだ、問題ない」

「ザキ、そろそろ追い込むぞ。スピードを上げろ。プレッシャーさえ与えていれば、スピードを出したウォークスルーバンが通れる場所は1つしかない」

「ふぁいっ・・・・・・」

「大丈夫だ、ザキ、ミラーぐらいなんとかなる。ぶち当てたのは前だけだから、板金交換すればなんとかなるだろ」

「い、いやぁ・・・、アニキ、ハハ、もうこの車ダメっすわ・・・」

 ザキが急に俺をアニキと呼び始めた。

「おれ、さっきの消火栓の時に思いっきりちびっちゃってさ・・・、このシート、本革っすよね?」

「・・・・・・」

「ミラーがもげただけとかさ、へこんだだけとかならまだわかるよ? でもねアニキ、本革のシートまで小便まみれになって、そんな車いくらメンテしたって、都知事サマを乗せたりできるわけないですよね、はは」

「・・・・・・」

「アニキ、ねぇ、なんで黙ってるんですかぁ。一緒に怒られてくれるんでしょ? ねぇ?」

「・・・アニキっていうの、やめてくれない?」

 素晴らしいタイミングでスマホに着信が入ったので、俺はザキとの会話を打ち切った。

「あ、さっきの柴田さん。ええ、はい。ドライバーさんが? どこにいたんです? …そうですか」

 運送会社からの電話を切って、俺は今の情報を整理した。

 今追っている車を担当しているドライバーが見つかったらしい。

 冷凍便の車内から凍死体で発見されたのだそうだ。

 手首と、首を鋭利な刃物で切りつけられていたのだという。




「どうなってるんだ、こりゃ・・・」

 今年の初春に世界中で広まったウィルス騒動の影響で、三鷹駅周辺は幸いにして人通りが少なかったようで、俺たちが三鷹駅北口のロータリーに到着した時にはすっかり封鎖が完成していた。

 中央大通り、桜通り、文化会館通りは警官隊によって封鎖されており、中町新道も俺たちが追い込んだ後はバリケードが設置された。

 そんな三鷹駅北口の円形になったロータリーを、まるでサーキット場のように宅配便のウォークスルーバンが猛スピードで周回しているのだ。

 もうすでに曲がり切れる限界ギリギリまでスピードが上がっていて、内側の車輪が少し浮いてきている。

「な、何やってるんスかね、あれ・・・」

 さっきまであんなに泣きわめいていたザキも、呆然としてその異様な光景を眺めている。

 逮捕が免れないと判断して自暴自棄になっているのだろうか。

 しかし、それならばそもそも、なぜこんな場所を逃走経路に選んだのか・・・。

 それともまさか、自爆テロか何かを狙って・・・。

(いや、それはない)

 今ほど自爆テロに向かない時期はないだろう。

 緊急事態宣言が解除され、段階的緩和措置が取られるようになり、少しずつ街が活気を取り戻しつつあるとはいえ、やはり人通りの少なさは以前と比べるべくもない。

 いったい、この車を運転している奴は何を考えて・・・。

「なっ――?!」

 ハイスピードで駆け回るバンの運転席にようやく目が追い付き、俺は思わず声を漏らしてしまった。

 運転席にいたのは、凶悪な殺人犯でも、卑劣な誘拐犯でもなかった。


 必死の形相でハンドルを握っているのは、西岡茉優だったのだ・・・・・・。


「もっとスピード出せ!」

「アニキ無茶です!! あんまり出すとぶつかっちゃいますよ!!」

「急がないとあの車、転覆しちまうぞ!!」

 俺の指示を受けて、ザキがロータリーの内側を車で走らせている。

 なんとか宅配便の車に併走しようとしているのだが、なかなか上手くいかない。

「いいか、バンを追い越したら俺がドアを開けるから、急減速しろ」

「ア、アニキ、そんなことしたらドアが吹っ飛んじまいますよ!!」 

「吹っ飛ばすんだよ!」

「こ、これ以上ぶっ壊すんですかぁ!」

「いいからやれ! それしかない!」

 本気でアクセルを踏み込んだレクサスとウォークスルーバンでは、勝負にならない。

 一気にバンを追い抜いた瞬間、俺はレクサスのフロントドアを全開させ、ギリギリまで引き付けてから手を離した。

「――っ!!」

 すさまじい衝撃が全身を襲うが、頑丈なフロントドアは半壊程度で千切れかけてはいるものの、期待したダメージにはならなかった。ガラスに至ってはヒビすら入っていない。

「す、すげぇ・・・、レクサスすげぇ」

 ザキがつぶやく。

 要人警護用車だから、特別なのかもしれない。

「ザキ、もう一度だ!」

「わ、わかりました!」

 三度目のトライでようやく、バキィ!!という破滅的な音と共に、レクサスの高級なフロントドアの破片がロータリーに散乱する。

 遮る物がなくなって、むせ返るようなアスファルトの熱気とすさまじい車の駆動音が俺たちに襲い掛かった。

 スリップストリームが効いているのか、角度の問題か、思っていたほど風は感じない。

「ああっ、レクサスが・・・、国民の血税が・・・!」

「国民の血税に盛大にションベンぶっかけたんだろ、もう開き直れ」

「アニキってもしかして、山下先輩よりむちゃくちゃなんじゃ・・・」

 俺はフロントドアがあった場所から身を乗り出すと、西岡茉優に手を振るが、運転するのに必死なようで、なかなか振り向いてもらえない。

 一方のザキは思ったより器用なようで、だいぶ併走がうまくなってきた。

辛抱強くジェスチャーを続けていると、10秒に1秒ぐらいの間隔でこちらを見てくれるようになったので、その1秒で窓を開けるように指示を出す。

 だが、そんな俺のジェスチャーに対して、少女は眉をひそめ、左右に首を振る。

「窓の開け方がわかんないんじゃないスか?」

「・・・運転してるのにか?」

 いや、考えている暇はない。

 俺は窓はあきらめて、ドアを開けるジェスチャーをする。

 茉優はとまどいながらも、10秒に1秒のタイミングで腕を伸ばし、ついにドアを開けることに成功する。

「状況は!」

「たすけて!!止まらないの!!」

「ブレーキを踏むんだ!! アクセルの反対、左側に踏むところがあるだろう!」

「できないの!!」

「大丈夫、落ち着いてやれば・・・」

 パニックになっていてブレーキが踏めないのだと思い、落ち着くように伝えると、茉優はなんでわからないんだという風に叫んだ。

「そうじゃなくて、できないのっ!!!」

「アレっスかね、じいさんがパニックでブレーキとアクセルを踏み間違えちゃってるみたいな・・・」

 いや、それにしてはおかしい。

 そもそも、パニックになっている人間が、こんな風にウォークスルーバンの車体制御を続けながら猛スピードで周回し続けられるだろうか。

 田舎ならともかく、都内の女子高生である西岡茉優が普通免許を持っているかどうかすら怪しいのに。

 むしろ、この子の知能や適応能力は極めて高いと考えるべきだ。

となると、ブレーキが踏めないことにはなにか理由が・・・。

「っ――!?」

「アニキ、危ないっ!!」


 併走していたレクサスとバンが接近しすぎて、俺が一瞬前に身を乗り出していた場所をバンのドアが通過する。


(なん・・・だと・・・!?)


 その時、俺はたしかに見た。

 西岡茉優の足元にある黒い塊。

 その黒い塊からのぞく、ゴムのような物体は・・・人間の、男の顔だ。

 表情はおどろくほど血色がよく、驚愕に目が見開かれていることと、額に大きな穴が開いていることをのぞけば、生きているようにしか思えない。

 おそらく、死後間もないということなのだろう。


 そんな大柄の男がアクセルを押さえ、ブレーキをふさいでしまっているので、茉優は停車することができないでいたのだ。


「ザキ、車をギリギリまでバンに近づけろ。俺が向こうに飛び移る」

「え? マ、マジで言ってんスか?」

「それしか方法がない。俺が飛び移ったのを確認したら、お前は停車せずに周回しながら中央大通りで封鎖している警官と合流しろ」

「わ、わかりました。アニキ、気を付けてくださいよ!!」


 ザキの運転技術はこの数分間でかなり安定してきた気がする。

最初はただの憎めないバカだと思ったが、こいつは、一度腹をくくると、なかなか頼もしく思える。


「もう少し、もう少しスピードを出してくれ。少し追い越すぐらいじゃないと飛び移れない。そう、そうだ」


(いくぞ!!)


 俺は意を決してバンのドアに飛び移った。

「っ――!!」

「アニキっ?!」


なるべく手で掴まないようにしたつもりだったのだが、左手を激痛が走って思わず手を放しそうになる。

 ドアの角でかなりざっくり切れてしまったようで、左手からおびただしい量の血が噴き出るが、今はそれどころではない。

 猛スピードで走行中のドアが飛び移った衝撃で激しく揺れるのを、俺は右腕で挟みこむようにしてしがみついて耐えた。

 すさまじい痛覚を遮断しようと、左手の感覚がマヒしそうになるが、これからやろうとすることを実現するためには、左手の使用は不可欠だ。

 俺は右腕だけで支える事ができる一瞬の時間を使って左手から噴き出た血液をジャケットで拭うと、左手をフロントドアの内側に回して窓を全開にし、そこに足をかけた。

 そのまま、ポールダンサーのように足をかけたまま、走行中の開いたドアで逆立ちのような状態になって、頭を下に下げる。

「な!? ちょ、ちょっと、な、何やってるの?!」

「ア、アニキ!!うわあああ、もう見てらんねぇ!!」

 風圧で激しく揺れるドアに宙づりになった俺の頭の数センチ下には地面がある。

「くっ、うぷっ! くっ――!!」

 スピードの乗ったタイヤに弾かれた小石や細かい砂がすさまじい風圧と共に顔に飛んできて、とても目を開けていられない。

「うおおおおおおっ!!!」

 雄叫びをあげながら無理やり身体を起こし、俺は車内に転がる死体の襟元を掴んだ。

 左手にズキン!と、心が折れそうなほどの痛みが襲うが、脳の命令を無理やりオーバーライドして、死体の運搬を最優先事項とする。

「俺は!! 浮気調査専門探偵だ!!!!」

 大柄の男を力任せに引っ張り上げながら、俺は叫んだ。

「それなのに・・・・・・、それなのに!!!」

 ドアを挟み込む足に力を入れて、脇を締めて、全身のすべての力を使って死体を引っ張り上げる。

「俺は!! なんで!! こんなことをやっているんだああ!!!」

 眉間を撃ち抜かれた大柄の男の死体がドアのすき間から滑り落ちるように落下して、ロータリーのアスファルトに落下し、そのまま桜通りの方向に転がっていく。

 まだだ。

 まだ終わりじゃない。

「あ、あんた、何者?!」

「どうだ、ブレーキは踏めそうか?」

「だ、だめ・・・」

「だめ?」

「固まっちゃって、う、動かない」

「ふふっ」

「なっ、なんで笑ってるの?!」

 俺は思わず笑ってしまった。

 そりゃそうだよな。

 こんな状況で、女子高生が一人でここまで運送屋のバンを乗り回しているだけでも驚愕なのだ。

「しんじらんない・・・・・・、こんな状況でどうして笑えるの?」

「君はとても可愛いな」

「は、はぁ?」

「俺は君のお父さんを守れなかった。でも、君からいくら嫌われようと、君のことは絶対に俺が守る」

「――っ」

 俺は左手を軽く動かしてみた。

 もうほとんど握力がない。

 アクセルを踏んでいた死体をどかしたので、徐々に減速されていっているはずなのだが、それよりもオーバーステアが強くなって、ギリギリで保っていた車体バランスが大きく崩れようとしていた。

「いち、に、さんで俺がブレーキを踏む。どのぐらい踏めるかはわからないが、たぶんすぐには止まらないし、車体も大きく崩れる。君はいち、に、さんのタイミングで助手席に移ってくれ。できるか?」 

「や、やってみる」

 西岡茉優は俺の目をちらりと見て答えた。

 一生分ぐらいの恐怖を体験しているだろうに、目の光が失われていない。

 ・・・強い子だな。

「よし、いくぞ・・・、いち!!」

 俺はドアのぶら下がったままの状態で、握力がほぼなくなった左手を後部座席のドアに叩きつけた。

「ぐぅっ――!!! にぃ!!!」

 俺の全体重が反作用の力で跳ね返り、気流に乗ってドアごと反対側に跳ね飛ばされる。

「きゃっ!!?」

「ア、アニキー!!」

 限界まで開かれたフロントドアが、再び戻ってくる反動に乗せて、俺は一気に足のロックを外して座席内に飛び込んだ。

「さんっ!!!」

「す、すげぇ!!!」

 茉優と完全には座席にスイッチができず、半分ぐらい膝の上にのるような形になってしまったが、なんとか運転を代わることができた。

 だが、その時、ウォークスルーバンの前輪タイヤがロータリーの縁石に乗り上げてしまい、左側の前輪、後輪タイヤが完全に浮き上がるほどに車体が傾いた。

「左側に全体重をかけるんだ!!」

「はい――!!」

 ハンドルとブレーキから身体を離さずに、俺と西岡茉優は全体重を左側に倒し、ギリギリのところで転覆を防ぐ。

 バンの片側だけを浮かせたまま、ロータリーを半周ほどして、ようやく左側の車輪が設置するが、やはり減速が足りない。

「衝撃が来るぞ!!」

「――っ!!」

「アニキ―っ!!」



 ふぅ。

 心臓の鼓動が聞こえる。

 自分の鼓動と、もう1つの鼓動。

 小鳥のように激しく脈打っているが、とても力強いエネルギーを感じさせる鼓動だ。


「助かった、の?」

「・・・ああ」


 俺に抱きかかえられた状態のまま、茉優が尋ねた。

 体を離そうにも、茉優の身体が上になっている状態なので動けない。

 というより、しばらく身体が動かせそうになかった。


「お父さんを殺した人が、私をさらったの?」

「わからない」

「私をさらった人を殺した人が、お父さんを殺したの?」

「わからない」

「わからないことだらけね」

「そうだ」

「そう」

 茉優はそれだけ言うと、俺の胸元に顎を乗せたまま黙った。

「アニキ―!!」

 ザキがこっちに駆け寄りながら叫んでいる声が聞こえてくる。

「あの人警官だよね?」

「ああ」

「どうしてあなたのことをアニキって言ってるの?」

「俺にもわからん」

「わからないことだらけね」

「ああ」

「いずれ、全部突き止める」

「・・・そっか」

「アニキ以外はな」


 俺の返答に、茉優はほんの少しだけ口元を緩めた、ような気がした。


「アニキ、大丈夫っすか?! 嬢ちゃんも!」

「ああ、二人とも大丈夫だ。」

「良かった・・・・・・。アニキ、むちゃくちゃですよ」

「お前のカッコも、むちゃくちゃだぞ・・・」

 汗と鼻水と涙でぐちゃぐちゃになって、股間を失禁でびしょびしょに濡らしながら、坊主頭のチンピラ刑事は俺たちの生存を喜んでいた。

「とりあえず、救急車を呼んでくれないか。この子のメディカルチェックがしたいのと・・・、情けないが俺も少し血を流しすぎたみたいだ。動けそうにない」

「わ、わかりました!」

 ザキはすぐにスマホを取り出して救急車を手配しはじめた。


「もう少し、こうしてていい?」

「え?」

「・・・・・・変な誤解しないでよ、足がまだ動かないの」

「それは別にかまわないんだけど・・・」

「何よ」

「俺さ」

「うん」

「めっちゃくさくない?」

「・・・・・・くさい。そう言われれば、めっちゃくさいかも」

「だよな、5日もフロに入ってなかったんだ」

「さいってー」

「しょうがないだろ、留置所にいたんだから」

「私いま動けないのよ。どうしてくれるのよ」

「ふふっ」

「ぷっ、あはは!」

 それは、西岡茉優が初めて、俺に笑顔を見せた瞬間だった。

 茉優はひとしきり笑った後、笑いながらぽろぽろと涙を流し、今度はそのまま涙が止まらなくなり、救急車が来るまでの間ずっと泣きじゃくっていた。

 俺は何も言わず、そんな彼女の透き通るような黒髪をずっと撫で続けていた。


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