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浮気調査専門探偵の殺人事件簿  作者: まつおさん
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取調室

挿絵(By みてみん)

(書籍化されることを妄想して表紙を作ってみました)


 西岡勇次郎の妻、西岡仁美にしおかひとみが、夫の浮気を疑ったのは今から三ヵ月前のことだったらしい。

 といっても、たとえば帰宅時間が変わったり、女物の香水の匂いがしたり、スマホをコソコソと風呂場に持ち込んだりといったような怪しい行動があったわけではないらしい。


「急に、優しくなったんです」


 口元を卑屈に歪ませて、西岡仁美は言った。

 まだ不倫と決まっているわけではないのに、西岡夫人の表情は暗い。

 グレイ、黒、ベージュ、ブラウン・・・、日差しが日増しに強くなってきた今のシーズンに、服もバッグもベーシックカラーだけで地味に無難にまとめ、無造作にならない程度に後ろで束ねただけのヘアースタイルからは、良く言えば協調性を重んじ、悪く言えば他人の顔色ばかり気になる彼女の性格が如実に表れているように思える。

 おそらく、この探偵事務所に訪れるだけでも彼女にとっては一大決心だったに違いない。


「大丈夫、続けてください」


 心理的圧迫を与えないよう、俺は彼女としっかりとは目を合わせず、だが誠意の伝わるギリギリの焦点距離に視線を合わせて微笑みかけた。

 西岡勇次郎は、今から三ヵ月ほど前ぐらいから、今まで一度も手伝うことがなかった家事を突然手伝い始めたり、花を贈ったり、休日に買い出しに行くときはわざわざ車を出したりするようになったのだという。

 夫人も最初は夫の変わりようを嬉しく思ったりしていたようだが、だんだん不安の方が大きくなっていったのだという。

 

「わかるわ・・・、幸せになればなるほど怖くなるんですよね」

 美月が昼ドラにハマった主婦のように隣で身を乗り出して、西岡仁美の話に聞き入りながら珈琲を飲んでいた。

「・・・美月君、それは俺のカップなんだが」

「奥様、お任せください。どのような結果になるかはわかりませんが、必ず、こちらの探偵、吉祥寺三郎が真相を解明してご覧に入れますので」

 美月の言葉に、西岡の妻は頭を下げ、消え入るような声で「よろしくお願いします」とだけ言った。


 この時点では、俺は西岡勇次郎の浮気の可能性は8割だと考えていた。

たしかに、浮気が後ろめたくなった男が妻に優しくなり、妻が「女の勘」でそれを見抜くというケースはよくある話だ。

 だが、当然だがそうではないことだってある。

 人は常に何かに影響を受ける生き物だ。

 突然大病を患ったり、映画で感動したり、他所の家で歓待を受け・・・、きっかけは何であれ心機一転して、夫としての在り方を変えようとすることだってあるだろう。


 それでも俺が「8割」と見ていたのは、つまり、男というのがたいていはチャンスがあれば浮気をするどうしようもない生き物であるからだ。

 叩けば8割の男からは何かしらのホコリが出るのだから、わざわざ叩く必要はない。

 そういう考え方もあるだろう。


 だが、俺はそうは思わない。

 中には西岡夫人のように自分に自信が持てず、疑う気持ちがどんどん募って自己嫌悪に陥る女性もいる。

 夫の無実が明らかとなれば、安心して夫の優しさに身を委ねることができるかもしれないし、そうでなかったとしても・・・、少なくとも自己嫌悪は解消することができるし、その意思があれば離婚や、慰謝料を請求することもできるのだ。

 それに・・・、今や浮気は男だけのものではない。

 ほんの数年前まで、「不倫は男がするもの」という社会常識があり、浮気調査の依頼も女性からのものがほとんどだったが、女性の社会進出が進んだ今では女性側の不倫も多く、調査依頼の男女比はほぼ半々と言ってよい。


 テレビのワイドショーで、コメンテーターのオヤジが「いやはや、世も末だねぇ」なんてのたまっていたが、そうではない。


 それだけ、社会がほんの少しだけ「健全」になったということだ。

 不倫はたしかにロクでもない行為かもしれないが、そもそも人間とはロクでもない生き物なのだ。男女が平等にロクでもない行為に及ぶことができるようになっただけ、この世はほんの少しだけマシになったと言える。

 神様の前で契約できるほど上等な人間ばかりの世の中なんて、それこそロクでもないのではないか。


「お前みたいなロクでもない野郎に殺されちゃ、あのオッサンも浮かばれねぇだろうな!」

 『浮気調査専門探偵 吉祥寺三郎』と書かれた俺の名刺をテーブルに放り投げて、取り調べの刑事が言った。

 まだ若い。新米刑事といったところだろうか。

 巡査で22、昇任試験を受けた巡査長で24歳が最短だから、それ以上なのだろうが、身長が低いせいもあってか、それ以下にしか見えない。

「刑事さん、何度も言ったでしょう。俺は殺してません。それに、俺はこの仕事にプライドを持っていますんで」

「は? 笑わせんな。浮気調査専門って、他人様の家庭をぶち壊すドブネズミみてぇな仕事じゃねぇかよ!!」

 坊主頭に季節にミスマッチなブルーのスカジャンを着た、どう見てもチンピラにしか見えない新米刑事が俺の耳元でがなり立てる。無駄にボリュームの大きい甲高い声に、鼓膜がピーンと響いた。

「そうじゃねぇよ」

「あ?」

 耳元で叫んだ新米刑事の顔は、俺とキスできるくらい近い距離にある。

 そんな新米刑事の顔を見上げながら、俺は声を低くして言った。

「そうじゃねぇっつったんだよ、若造。他人様の家庭をぶち壊すんじゃなくて、とっくにぶっ壊れちまってることを明らかにして、人生を立て直せるように手助けしてるんだよ、俺は」


 俺は目の焦点をぼかしたまま、黒目を動かさずに刑事の目をまっすぐに見た。 昔、映画でアル・パチーノがやっていたのを見てパクったのだが、チンピラをビビらせるのにはこれが一番効果的だ。

 

「だ、だから殺したってのか・・・」

「殺してねぇっつってんだろ!!!!」

「うわっ!!」


 ツバが飛ぶのも構わず俺が怒鳴りつけると、驚いた新米警官が思わず後ろに下がって机に肘をぶつけた。


「ハッハッハ!! 相変わらずだな、浮気屋」

「龍・・・?!」

「げっ、山下さん!!」

 

 取調室に入ってきた大柄の男が、ニヤニヤしながら俺に近づいてきた。

 優男風の顔をしているが、日本人離れした長身に金のロレックス、見るからに高級そうなスーツの前を開けて下品なネックレスをぶら下げている姿は、警察と対局にある反社会的な勢力にしか見えない。


「・・・なんでお前がここにいる?」

 警視庁捜査一課強行犯第三係、山下龍やましたりゅうを見上げて、俺は尋ねた。

「ほれ、新型ウィルスの例の騒動でな、ここ、武蔵野警察署内で感染者が出ちまったもんだから、捜査員がごっそり自宅待機になったのさ。当分は本庁からの応援ってヤツさ」

 その割にはずいぶんと態度がデカい。隣の新米刑事と並んでいると、どっかの組の若頭と舎弟にしか見えん。


「ザキ、コイツはお前にゃ無理だ。オレに代われ」

「い、いや、でも・・・痛でぇっ!!!」

 龍の右腕が翻ると、メコッ!という妙な音を立ててザキと呼ばれた新米刑事が額を両手で押さえた。

「おいおいザキよぉ、オレちゃん言ったべ? オレに「あの」「いや」「でも」「しかし」「できません」「わかりません」って言ったらジェットデコピンかますぞって」

「す、すいません」

「ってかお前、ジェットデコピンわかってる?」

「わかりません」

「なんだお前、わかってねぇのにわかりましたって言ってたのか?」

「あ、いや」

「はいジェットデコピーン!!」

「痛でぇっ!!!」


 どうやらジェットデコピンというのは、左手で右手の中指と人差し指をつかんで、引っ張ってすっぽ抜ける反動でデコピンを入れるという技らしい。ほとんど裏拳じゃないか。

 かわいそうに、大の大人がデコピンを食らって半泣きになっている。


「・・・お前それ、イジメだぞ、龍」

「イジメじゃねぇよ。「あの」「いや」「でも」「しかし」「できません」「わかりません」って言わなきゃいいだけなんだから。ルールだよ、ルール。な、ザキ?」

「は、はい・・・」

「なんだよ、笑えよ。オレが本当にイジメてるみたいじゃねぇか」

「そ、そうですよね。エヘ、エヘヘ」


 半泣きで笑顔を作っている新米刑事を見て、俺はさっきの取り調べのことも忘れてコイツに心底同情した。


「お二人はその、お知り合いなんですか?」

 痛みが和らいだ頃に、おずおずとザキが尋ねた。

 さっきの取り調べの時とは俺に対する態度が全然違う。


「知り合いも何も、浮気屋はお前の大先輩だぞ」

「浮気屋って言うな」

「えっ、先輩ってことは・・・あんた元ポリ・・・」

「自分でポリとか言うなよ」

 俺は少しだけコイツのことが好きになった。

「ハッハッハ! 聞いて驚け、この浮気屋は泣く子も黙る機捜出身だ」

「きそう?! 機動捜査隊ッスか?! すっげぇ、エリートじゃないスか!! そんなアンタがなんでこんな変態みたいな仕事・・・」

「・・・龍、手錠を外せ。俺にもコイツにジェットデコピンさせろ」

 俺がそう言うと、龍は腹を抱えながら手をひらひらさせた。

「ワッハッハ!!! 残念ながらそうもいかねぇ。おめぇは目下、最重要参考人ってヤツだからな」

「そんなこと言っても、お前が来たってことは、どうせ俺の疑惑は晴れたんだろう?」

「えっ? そうなんですか?」

「・・・ほう」

 龍は口元を歪ませると、内ポケットからマルボロライトを取り出してくわえた。

 手慣れた動作でザキがライターを取り出し、龍のタバコに火をつける。・・・禁煙じゃないのか、ここ。

「どうして、そう思うんだ? 殺害現場にいて、凶器まで握りしめていて、あまつさえ、現場に駆けつけた警官を襲撃したお前が」

「答えは簡単だ。アレは凶器じゃない」

 勾留されている間、死体発見から逮捕までの状況を何度もプレイバックして気付いたことがある。

 その一番が、凶器は包丁じゃないということだ。

「いや、待て、それはおかし・・・」

「はいジェットデコピーン!!!」

「痛でぇっ!!!!」

 額を押さえるザキをそのままに、龍が表情で話の続きを促している。

 俺の話に興味を持っているようだ。

 口元は笑っているが、目が笑っていない。

「死体の傷は、手首と首。致命傷は首だろうが、手首の傷も相当ザックリ切られていた」

「ああ、さっき見て来たぜ・・・、ありゃ、なかなかのもんだな。それで?」

「首の傷は気道を真一文字に一太刀でかっさばかれていた。家庭用の包丁であんな風に切ることは難しいだろう」

「そうだな。でも、難しいだけだ。できたかもしれない」

 龍は答える。

 警察機構という凝り固まった世界で、コイツのような傍若無人な男がやっていけているのは、タフなだけでなく、こういうクレバーさも持ち合わせているからだ。

「もちろんそうだ。だが、手首の傷は無理だ。手首に沿って円を描くように切られていた。包丁ではどうやったって生前にはあんな傷はできない」

 あの時の死体の赤い腕輪のような手首の傷を思い出しながら、俺は答えた。

「死後に時間をかけてやった可能性だってあるだろう?」

「それも考えにくい。なぜなら、手首の周りにはおびただしい出血があった。死後、時間をかけてやったらああはならない。時間が経過すればするほど、黄色い脂肪層が露出しているはずだ」

「すげぇ・・・山下先輩、コレ合ってんスか?」

「ああ、さすが元機捜のエリートってとこだよなぁ?」


 テレビドラマなどでは、殺人事件が起こると黄色いテープが張られ、鑑識が現場の分析を行っている中、龍のように捜査一課の腕章を付けた私服の刑事が颯爽と登場するシーンがよくあるが、実際は違う。

 実際は、警視庁および各道府県警本部刑事部所属の機動捜査隊が初動捜査を行い、その後捜査一課や三課、組織犯罪対策課に引継ぎを行うのだ。

 地域社会に密着して、聞き込みや綿密な調査を行ったりしない代わりに、機動捜査隊は初動捜査のプロなのだ。


「それじゃぁ、どんな凶器が使われたか、目星はついてんのか?」

「うーん、いや、あの、思いついたことは思いついたんだがなぁ」

「なんだよ、煮え切らねぇな。言えよ。お前もジェットデコピンするぞ?」

 取り調べの間中、俺はずっとそのことについて考えていた。

 どう考えてもその結論がしっくりくる。

(だが、なぜ、そんなことになるのだろうか)

「ほら、さーん、にー、いち・・・・・・」

「えええっ、なんでオレなんスか!!」

 龍がザキの額に向けてジェットデコピンを構える中、俺は答えた。

「カランビットだ」

「あだっ!!!!!!」

 龍のジェットデコピンが結局間に合わずにザキの額に命中する中、俺はその名称を口にした。

「カランビット? なんじゃそら。水道管の部品か何かか?」

「カランビットっていうナイフだ。インドネシアやフィリピンで元々は農業用の道具として生まれたナイフで・・・、たぶんお前らも映画とかで見たことがあると思うぞ。刃先が鋭くて、鎌や鉤爪かぎづめのように大きく湾曲した刃を持つ折り畳み式のナイフで、グリップにフィンガーリングと呼ばれる大きな輪っかがあって、親指を入れられるようになっている」

「ああ、悪役とかがよく使ってるやつスね」

「そうだ。だが、映画とかではその見た目だけで使われていて、順手で持っている場合がほとんどだな。カランビットを使う軍隊格闘技はインドネシアやフィリピン、マレーシアにたくさんあるが、その多くはこのカランビットを逆手に持つ」

「うーん、現物がないとわかりづらいな」

「バナナとかないのか?」

「あ、給湯室にいただきもののがあったと思います! ちょっと行ってきやス!」

「あんのかよ」

 バナナを握りしめてダッシュで戻ってきたザキからそれを受け取ると、俺はバナナの房側を握って、バナナの湾曲して曲がった先が拳側を向くようにした。

「このバナナの内側が全部刃になっているのがカランビットだ。ザキ、包丁を握るフリをしてみろ」

「あのなぁ、なんでアンタにまでザキって言われなきゃ・・・やりますやります!!」

 龍が無言でジェットデコピンの体勢に入ったので、ザキが慌てて右手を前に突き出し、包丁を握っているような動作をする。

「カランビットの最大の特徴は、攻防一体のアクションができるということだ。たとえば、こうやって包丁を突き出してきた相手に、こうすると・・・」

 俺はザキが右手で包丁を突き出す動作に合わせて、バナナを逆手に握った手をゆっくり振り上げた。

「あっ!!手首が!!」

 ザキの包丁を握るフリをした手首に、バナナの内側のカーブが接触し、そのまま、手首を中心にカーブの流れに沿って、滑るようにバナナが手首の外周にスライドしていく。

 もしこのバナナの内側が鋭利な刃だったら、ザキの手首は今頃ザックリと腕輪のような傷が入っていることだろう。

「刃物を突き付けた相手の手首を負傷させて、そのまま首狙い。それも頸動脈を傷つけずに気道だけをかっさばく・・・、プロの犯行意外にありえない」

「お前が言ってた、スーパーモデルみたいな女がやったってことか」

 俺の供述内容をあらかじめチェックしていたらしく、龍が尋ねる。

「まだわからん。だが、これだけは言える。その女といい、犯行手口といい、そのすべてが、ただのスポーツ用品店の店長にすぎない被害者にまったくふさわしくない」

「たしかにな。こりゃ普通のヤマじゃねぇ。浮気屋、おめぇにも手伝ってもらうからな」

「や、山下先輩、そりゃマズいっすよ! この人は一般人・・・あだっ!!」

「馬鹿野郎、警官にチョーク極めて投げ飛ばして拳銃チャカ奪い取る一般人がいてたまるか」

「龍、待て、俺は・・・」

 ザキを右手で小突いた龍は、左手で俺の発言を制する。

「言ったろ、今は捜査員の人手不足なんだ。だから俺も本庁からわざわざ出向してやってるんだ。だから、オレの仕事を手伝うか勾留期限までオナ禁生活するかは今すぐここで決めろ」

 龍の言葉に、俺はうんざりしながら、ぼやいた。


「俺はただ、浮気調査がしたいだけなのに・・・」


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