―吉祥寺三郎探偵事務所―
1
鋭い観察力と灰色の脳細胞を十全に活用して謎を解く探偵や、タフでなければ生きていけないハードボイルドな探偵。
推理小説に登場するような名探偵はさまざまだが、彼らにはある一つの共通点がある。
それは、浮気調査やペット探しのような「つまらない」事件は担当しないということだ。
強大な権力や組織、時としては国家間の問題に発展しかねないような大事件や、社会を震撼させるような凶悪犯罪が彼らの舞台であり、そんな彼らの英雄じみた使命感が「つまらない」事件に発揮されることはない。
だが、俺は思う。
「つまらない」人生を一生懸命に生きていくのが、人間なのだ。
俺、吉祥寺三郎は、浮気調査専門の探偵だ。
「はい、お電話ありがとうございます。吉祥寺三郎探偵事務所でございます」
助手の仲瀬美月に電話応対を任せながら、俺はコーヒーミルで豆を挽いていた。ミディアムローストにしたマンデリンの濃密で官能的な薫りが鼻腔を刺激する。
「いえ、その、事務所の場所は吉祥寺ではなく西荻窪です。はい、土日の中央線では停車いたしませんので、総武線でお越しいただければ」
ゴリゴリゴリとミルを挽く音が気になるのか、美月は穏かな電話応対をしている通話相手からは予想もつかないような表情で俺をにらみつけ、しっしっ、と手を払うようなジェスチャーをする。不動明王みたいな顔だ。
俺は肩をすくめてミルを止めると、ドリッパーに珈琲豆を入れ、天然水を沸かしておいたポットに温度計を入れ、83.5度まで下がるのを確認してから、ゆっくりと、円を描くように湯水を注いでいく。
「・・・・・・」
受話器を手のひらでふさいだ美月がこちらを向いて物言いたげにしているが、何も言わずに我慢している。
長い付き合いで、このタイミングの俺に話しかけても返事がないことをわかっているのだ。
豆全体が湯水で湿ってからの30秒間。
この30秒間よりも重要な時間など、人生には存在しない。
「美月君おまたせ、ありがとう」
「浮気調査のご相談です。今からお越しになりたいと」
「誰かのご紹介かな」
「いえ、吉祥寺駅の北口で配っていたティッシュのチラシだそうです」
「あ、そう」
返答を終えたはずの美月がなかなか電話応対に戻る気配がないので、俺は嫌々ながら顔を上げる。
思った通り、美月は勝ち誇ったような目でこちらを見て笑っていた。
「やっぱり効果あったでしょ、チラシ」
「・・・みたいだな」
「次のお給料、デザイン料も含めてくださいね」
「・・・・・・」
美月が勤務時間中に勝手にパソコンで作って勝手に業者に発注したティッシュを見て連絡が来たのは、これで五件目。
一週間に一件相談が来れば良い方だった貧乏探偵事務所にとっては、認めたくはないが驚くべき成果といえる。
(あんなクソダサいデザインなのに・・・、納得がいかん)
OS標準搭載のペイントソフトを使って作られた、どぎつい水色や黄色を多用した素人感丸出しの広告を見て、なぜ電話をかけようと思うのか、そもそもなぜそんなティッシュを受け取ろうと思うのか、俺にはまったく理解ができなかった。
サイドにウェーブがかかったロングの黒髪を片耳にかけて、受話器を当てる美月の耳たぶから、やや大きめのイヤリングが揺れる。
白いブラウスの上にサーモンピンクのサマーカーディガンを羽織った助手と、そんな彼女が制作物であるデスクの上にあるひどいデザインのポケットティッシュを交互に見ながら、俺は珈琲の抽出を待っていた。
大手外資系保険会社のOLだった仲瀬美月は寿退社の後、主婦として子育てに専念し、吉祥寺三郎探偵事務所の助手として社会復帰した。
人間の心の暗部や薄汚い部分を嫌というほど見せられる仕事を淡々とこなすことができるタフさは、保険会社時代に培われたものなのだろうか。
強い苦みと抑え目の酸味が特徴のマンデリンだが、83.5度でドリップするとその苦みはマイルドに、そしてフルーティーな酸味が感じられるようになる。
今日の出来もすばらしい。
きっと、いい一日になるだろう。
珈琲の違いがわからない助手の分の珈琲をカップに注ぎながら、俺はそんなことを考えていた。
今日が、おそろしい事件の幕開けになる一日になるとも知らずに。
2
吉祥寺本町の旧近鉄裏は、ヨドバシカメラの裏側にある歓楽街エリアだ。
若者の住みたい街ランキングで常にトップを走っていたこの街だが、その夜は意外と早く、特に北口で遅くまで遊ぶことができる場所はこことハモニカ横丁と呼ばれるエリアぐらいしかない。
西荻窪の俺の事務所から歩いて行ける距離にあるこのエリアには武蔵野市の施設がある関係でパチンコや風俗店の新規出店は条令で禁止されており、わずか数ブロックの区間に幽霊が出ると噂の古めかしいラブホテルや風俗店が吉祥寺図書館やコミュニティセンターと共に立ち並ぶという、吉祥寺の中でも最もカオスな区画の一つである。
(なんじゃ、ありゃ?!)
調査対象の男と並んで歩く女を観察して、俺は思わず息を飲む。
(すげぇいい女じゃないか!)
鮮やかなイエローのノースリーブのブラウスから伸びるしなやかな腕と、同系色のイエローにブラウンやグリーンのタイルパターンのひざ丈のラップスカートごしでもわかる豊満なヒップライン。年齢はおそらく美月と変わらないぐらいだろうが、ふわっとしたショートヘアを揺らし、コツ、コツとヒールの音を立てて颯爽と歩く姿は、まるでスーパーモデルのようだった。
後ろから尾行しているので横顔しか見えないが、控えめに笑う口元やクッキリした目鼻立ちを見るだけでも、彼女が相当の美人だということがわかる。
俺は調査対象の男のことをしばらく忘れて、半ば呆然と女の姿を眺めていた。幸いにして、すれ違う男たちも皆、俺と似たような反応をしていたので、俺の様子はさほど不審には見えないだろう。
(なんなんだ、この状況は)
ごくありふれた浮気調査依頼と思われた今回の調査の思わぬ状況に、俺は軽くめまいを覚えた。
男の名前は西岡勇次郎。
西岡は某有名スポーツショップブランドの店長で、新宿の某百貨店の最上階にあるショップの店長をしている。
年収は500万程度、とてもこんなレベルの愛人を連れ回せる身分には思えない。
しかも目立つ。
とてつもなく目立つ。
通常、不倫というものは、男も女もひっそり、こっそりやるものだ。
平日の昼間に、スーツを着たオヤジとつばの広い帽子に大きめのサングラスのババアが日傘をさして早歩きでホテル街を歩いていたりしたら、まず間違いなく不倫カップルだろう。
さらに、男の家は吉祥寺東町にある。
地元の駅前でこんなスーパーモデルみたいな女と歩いていたら、大声で慰謝料を払いますと言っているようなものだ。
(ただのアホなのか、それとも・・・)
二人は歓楽街の路地裏を曲がると、さびれたアパートの階段を上った。
とても現在でも営業しているとは思えないスナックやラウンジの看板が立ち並ぶそのアパートの下では、手持無沙汰なアジア人の女性がスマホを耳に当てながらうろうろしている。おそらく、このアパートの居室のどこかで違法なマッサージなどを経営しているのだろう。
女が鍵を開け、204号室に二人が入る様子をさりげなくスマホで撮影してから、俺は美月に電話をかけた。
「俺だ、吉ヨドの裏の駐車場に車を回しておいてくれないか」
「わかりました。20分で行けます、大丈夫ですか」
「ありがとう」
スマホを切ると、俺はもう一度古びたアパートを見上げた。
写真を不倫の証拠として使うには、入ったところだけでなく、出たところも撮影しなくてはならない。
つまり、彼らがシャワーを浴び、ひと時の逢瀬を楽しんで、またシャワーを浴びて外に出るまで、俺はここでずっと待機していなくてはならないのだ。
あんなスーパーモデル級の女がこんな古びたアパートで、あんな冴えないスポーツショップのオッサンと交わっているのかと思うと、何年も前に止めたタバコを吸いたくなって、ついジャケットの内ポケットに手を入れた。
もちろん、中にタバコは入っていない。
3
「え、まだ終わってなかったんですか?」
「・・・ああ」
電話ごしの美月に、ぞんざいに答える。
「てっきり、その辺のおでん屋さんで芋焼酎でも飲んでいるのかと思っていました」
「・・・やっぱり君は探偵に向いているな。まさにそのつもりだったんだが、もしかしたら今夜は泊りになるかもしれん」
二人がアパートに入るところを見届けてから、すでに7時間以上が経過している。
辺りはすっかり夜の賑わいを見せており、ピンサロやガールズバーの店の前に黒服が立っている。
「あらあら。でも、おかしいですよね? 奥様の話では、そんなことは一度も・・・」
「ああ。・・・何かのトラブルでも起こってないといいが」
「やだぁ、ヘンなこと言わないでくださいよ」
こういう仕事をやっていると、その「ヘンなこと」が度々起こる。
幸運にも、美月が助手になってからはその手のトラブルは起こっていなかったが、痴情のもつれによる傷害事件や、時には無理心中未遂に居合わせたこともあった。
もちろん、調査対象が翌朝まで出てこないことは一度や二度ではない。
ただ、夜になってアパートの他の部屋の灯りが次々と灯っていく中、204号室だけがずっと暗いままなことが妙に気になっていて、首筋をじっとりとした汗が流れ落ちた。
どうにも、嫌な予感がする。
旧近鉄裏の路地は古い建物が多いこともあり、歓楽街とはいえ薄暗く、古アパートの周囲は街灯の弱々しい灯りが階段をぼんやりと照らすのみだった。
(ここで動くのはプロ失格なんだがな)
俺は周囲を確認して人気がいないのを確認すると、近くの居酒屋の裏口に畳まれていた段ボールを拾って手早く箱を作ると、肩に担ぎながらアパートの階段をゆっくり上った。
鉄筋コンクリートの古びた階段は、さほど苦労しなくても足音を立てずに上ることができるから都合がよい。
薄暗いから服装まではわからないだろうし、外から見れば、住民に配慮して静かに階段を上る配達員か何かに見えるだろう。
俺はアパートの前に立つと、さりげなく電気メーターを見上げた。
(・・・止まっている)
嫌な汗が再び首筋を伝い落ちる。
たとえ電気を消していても、生活をしていればメーターが完全に止まるようなことはない。
6月も半ばを過ぎ、気温は30度から数える方が近い。
電気の通らない部屋で男女が7時間も過ごすことができるだろうか。
仮にブレーカーを落としたのだとすれば、もう部屋の中にはいないということになる。
(出るところを見落としているハズはない)
試しにドアノブに手をかけると、あっさりと回転し、ラッチボルトが戻る感触と共にドアが開いていく。
(おいおい、回るのかよ)
ギギギギ、と油圧が弱くなったドアクローザーが不快な音を立てるのをなるべく最小限になるように細心の注意を払いながら、内部の様子に注意深く気を配る。
人の気配はない。
真っ暗な室内に充満するむわっとした熱気が、安物の芳香剤の人工的なシトラスの香りを運んでくる。
そんなシトラスの匂いと混ざる、東急百貨店の一階のような匂い。
(これはあの女の香水の匂いだろうな)
こんなひどい例え方を美月に聞かれたら、どれだけ馬鹿にされるだろうかと苦笑しかけた俺の鼻腔に、別の匂いが漂ってくる。
錆びた、鉄のような匂い。
(まずい・・・、これはまずいぞ)
俺は、この匂いを知っている。
前職で嫌というほど嗅いできた匂い。
・・・人間の血液の匂いだ。
(っ!?)
その時、背後から階段を上る音が聞こえて、俺は急いで室内に入った。
複数の足音。
おそらく男性2名。
妙にゆっくりと階段を上り切るその足取りは、まるで何かに警戒しているような、だが、迷いなくこの部屋に向かっているように感じる。
その時、一歩後ろに下がった俺のかかとに、にちゃ、という粘着質な音と共に、妙に弾力のある感触が触れる。
(ああ、くそっ! まじかよ!)
時間がないから瞬時に判断するしかない。
振り向かなくても、全身に浮き出た鳥肌でわかる。
今俺が靴の踏んだのは男か女の死体で、今こちらに向かっているのは見張っていた男たち。
俺が侵入したのを見て、同じように殺しに来た可能性が高い。
侵入がバレているなら、今の俺にできることは2つ。
逃走経路を確認することと、武器になるものを探すことだ。
「ふぅっ!」
俺は内ポケットからペンライトを取り出すと、大きく息を吐き、覚悟を決めて後ろを振り向いた。
「こんなもんどうってこと・・・うーわ」
予想以上の惨殺死体に、俺は思わず声を上げた。
男の死体だけだ、女のものはない。
(首をかっさばかれている・・・)
男の首は真一文字に切り裂かれていて、まるで口が二つあるように大きく開いている。
それほどの裂傷にも関わらず、出血量はそれほどではないようだ。
(頸動脈は切断せずに、気道だけを切り裂いてる。どうりで悲鳴が聞こえなかったわけだ)
男の出血はどちらかというと右手首の裂傷からの方が多く、血だまりになっている。
(なんだ、この傷は・・・)
男の手首の裂傷は、まるで赤い腕輪のように円形に入っていた。
(違う!今はそれどころじゃない!)
「くそっ!」
周囲を見渡して、俺は思わずうめいた。
(雨戸が閉まっている!)
部屋のあまりもの暗さにそんな予感はしていたが、雨戸が完全に閉まっている。
いざとなったら窓を蹴破って脱出しようと思ったが、これでは間に合わない。
雨戸を動かせば大きな音が鳴るし、そうなれば連中はすぐに襲撃してくるだろう。
高窓が開いていて、身軽な人間ならあそこから脱出できるかもしれないが・・・。
(あの女はここから脱出したのか、それとも・・・)
もしかしたら、女はまだ俺が確認していないトイレや浴室で死んでいるのかもしれない。
「ん、おい、開いているぞ」
ドアノブを回した男が、もう一人の男に小声で報告するのが聞こえる。
鍵を閉めるのを忘れた迂闊さに、俺は心の中で舌打ちをした。
2LDKのL部分にいるので、玄関側にいる男たちからはまだこちらの様子はわからないが、もはや一刻の猶予もない。
俺は視界にさっきからチラチラ入っていた包丁に目を向けた。
男の右手近くに突き立っている血濡れの包丁は、ペンライトの光に反射してギラギラ光っていた。
(よく考えろ、この包丁に指紋を付けるということがどういう結果に繋がるか・・・)
俺がペンライトの光を消すのとほぼ同時に、男たちが室内に侵入する音と共に、ダイニングキッチンからもれる男たちのライトの灯りが交錯する。
(いや、他に選択肢はない)
俺は覚悟を決めて血濡れの包丁を握りしめると、脇差のようにズボンのベルトに差し、隣室につながる引き戸をゆっくり開けて、物音がかき消えるように、男たちの歩調に合わせるようにして移動する。
漢字の「品」のような間取りの2LDKになった室内で、男たちは現在、ダイニングキッチンのある一番上の「口」の部分にいて、俺は左側の部屋から右側の部屋に移動した。
(急げ!)
玄関側から右側の部屋は狭いドアになっているので、男たちは俺と同様、まずは左側の部屋から侵入を試みる可能性が高いと判断した俺は、右側の部屋を経由して、背後から男たちを制圧することにしたのだ。
右側からダイニングキッチンに繋がるドアを無音で開けた俺は、背後から男たちに襲い掛かろうとした。
「お、おい、これ見ろよ!!」
「う、うわっ!! なんだこれ」
「うおおおおおおおおおっ!!!」
惨殺死体を見て狼狽する男たちに向けて俺は一気に突進する。
驚いた左側の男の喉を人差し指と中指の第二間接で突いて崩すと、右側の男が銃口らしきものをこちらに向けたので、俺はその男の右手首を左手で払い、そのまま男と一緒に半円を描くように移動した後、急反転して男の手首を外側に返すようにして投げると、男は美しい円を描くように転倒し、俺の右手には相手の拳銃が残る。
前職で学んだ合気道の技、「小手返し」だ。
左手でベルトに差した包丁を抜いて喉笛を突かれてうずくまった男の首筋に押し当て、右手で奪った拳銃で投げ飛ばした相手に銃口を向けた。
「いいか、暗いからわかりづらいかもしれないが、パニックにならずに現状を認識してくれよ?」
俺はなるべく穏かな声で、うめき声を上げる男たちに語り掛ける。
「喉を突かれたお前の首には今、包丁が当たっていて、俺に投げられた方は銃を向けられている。見えるか?」
「げほっ、げほっ、あ、ああ」
「お、お前、こんなことをしてどうなるか・・・」
「動くなって言ったはずだ!」
銃口を向けられた方の男が不用意に近づこうとしたため、俺は改めて拳銃を握り直す。
(ん・・・・・・)
・・・・・・引っ張られるような、妙な抵抗があって銃口を向けづらい。
拳銃の底部に伸縮性の紐が取り付けられていて、それが銃口を向けられた方の男に繋がっているようだ。
(フッ、つり紐を拳銃にぶらさげるって、それじゃまるで・・・)
「えっ」
ある一つの考えが頭に浮かんで、俺はサッと顔から血の気が引いていくのを感じる。
(そういえば、さっきコイツら、死体を見て動揺していたよな・・・)
全身から脂汗が吹き出るのを感じる。
「あの、だな。い、いや、あの、ですね・・・、ちょっと確認というか、その、一応、その、双方の誤解がある気がするので、確認をしたいんですが・・・」
俺は拳銃を今すぐ放り出したい気持ちをぐっとこらえて、男たちに質問する。
「もしかして、お二人は、警察の方々だったり・・・します?」
「武蔵野警察署だ」
銃と包丁を置いた俺は殺人容疑で即刻逮捕された。