第九十七話 暗闇が怖いのはその向こうに何があるのか分からないからだが、見えたら見えたで怖いものは怖いのである。
体が重い。
体だけではない…精神も、まるで鉛のように鈍く僅かでも気を緩めると限りなく深く沈んでいきそうだ。
ここは…どこだろう。
自分は、何故ここにいるのか。
何があったんだっけ……そう、確かシエルと会ったんだった。ハルトたちを探すのを手伝ってもらっていて……
それから……それから。
それから、どうしたんだろう。
頭の中が、靄がかかったようにスッキリとしない。
もう、眠ってしまおうか。なんだか、酷く疲れた。何も考えたくない。少しだけ眠って、後のことはそれから考えよう。
焦ったって、どうにもならないことの方が多いのだ。
こんなにも眠いのだから、きっと身体が睡眠を必要としているのに違いない。
だから…あと少し。
あと、少しだけ…………
「いつまで寝てんのよこの脳筋!!!」
突然の怒声。そして、頭部に衝撃。
そのショックで気だるげな睡魔が霧散して、マグノリアは瞼を開けた。
「……おはよう、アデル」
「まだ寝ぼけてる?」
目を開けた途端に飛び込んできたのは、自分を覗き込むアデリーンの苛立った顔と、セドリック公子の心配そうな顔。
どうでもいいが、長年付き合いのあるアデリーンより出逢って間もないセドリック公子の方が心配してくれてるっぽいのはなんなんだ。
「あー…寝ぼけて、なくはないけど……ここ、何処だ?アタシら、何があってどうなった?」
上体を起こし、尋ねながら身体に異常がないことを確かめる。出血はなし。骨にも筋にも問題なし。打撲も…さっと見たところ、なし。
「私にも最初は何がなんだか、だったんだけど」
言いながら、アデリーンは視線を動かした。つられてそっちを見ると、ここには彼女らの他にもう一人。
ここは薄暗い空間で…窓はあるのだが外は真っ暗で何も見えない…よく見えなかったのだが、目が慣れてくると徐々にその姿がはっきりしてきた。
アデリーンのものと酷似したとんがり帽子に、法衣。両方とも、色は濃紺。燃えるような赤い髪は暗い部屋の中でも浮かび上がるほどで、瞳は琥珀。
年齢は…ちょっとよく分からない。アデリーンと同じくらいか?もう少し上のように見えなくもないが、無表情の中にあどけなさが垣間見える。
「………どちら様?」
マグノリアの質問に、その女性(少女?)はチラッと視線を寄越しただけで、返事をしなかった。その不躾さをカバーするように、アデリーンが横から割って入る。
「あー、うん、紹介するわね。こちら、私のお師匠で救世の英雄の一人でセドリック公子にしょーもない呪いをかけた張本人…」
「……って、もしかして、“黄昏の魔女”ヒルデガルダ!?」
そこまで説明されれば、名前を聞かなくても分かる。分かったのだが……
「って、え?本物?マジのマジで?つか、なんでここに?つか、若くね?」
「ちょっと落ち着きなさいよ。…気持ちは分かるけど」
気持ちは分かるとアデリーンは言うが、それはマグノリアの焦りに対してか「若くね?」のくだりか。
確かに、彼女のお師匠は実年齢(確かもうすぐ三十ではなかったか?)に比べると外見が非常に若い。
「お師匠はハーフエルフだから、外見が私たち普通種とは違うのよ。で、なんでここにいるのかは、今から説明するから」
落ち着け、と言われたので一旦立ち上がって深呼吸して気持ちを落ち着けてから、再び座るマグノリア。ちょっと気になってセドリック公子の方を見てみたら、思いっきり魔女にビビっていた。狭い空間の中で少しでも距離を取ろうと、微妙にマグノリアの背後に隠れる位置に移動している。
「まず、ここが何処かは知らない」
「…おい」
説明すると言われたのに、アデリーンの言葉は全然説明になっていない。が、彼女とてずっとマグノリアと同じ立場なのだから、それも宜なるかな。
「ただし、普通の部屋じゃない。って言うか、普通の空間じゃない」
「…どういうことだよ?」
確かに居心地の良い空間とはお世辞にも言えないが、取り立てて語るもののなさそうな小部屋である。窓が一つに、扉が一つ。壁掛けのランプが一つ。家具はなし。
アデリーンはその扉に近付くと、おもむろに開いた。
「…え、開くの?」
雰囲気的に…閉じ込められてるシチュエーションかなと思っていたマグノリアは、鍵の掛けられている形跡すらない扉に、拍子抜け。
しかし、
「開くけど、開くだけ」
アデリーンは、まるで禅問答のような返事。
「は?何言ってるんだよ。とにかく、外に出れるなら周囲を調べてみよう」
マグノリアはそう言うと、ノブに手をかけたままのアデリーンの横を過ぎて、開け放たれた扉の向こうへ足を踏み出そうとして……
「……なんだ、これ?」
その向こうが、無明の闇に塗り込められていることに気付いた。
いくら夜でも、ここまでの闇はありえない。部屋の中は照明もあるのだし、その灯りが扉の向こうへ僅かでも届くはずなのに……文字どおり、完全な闇。
それを、自然にはありえない現象だと本能的に察したマグノリアは、数歩後ずさった。興味本位で闇の中に手だの足だの頭だのを突っ込む気には、とてもではないがなれなかった。
「賢明な判断ね。その向こうがどうなってるのかは分からないけど、試すにはリスクが高すぎるわ。で、窓の方も同じ」
「…どうなってるんだ、これ?閉じ込められてる…ってことでいいのか?」
密室のような密室ではないような。
扉も窓も開くけれども、外に出ることは出来ない…かどうか試すことも怖い。
「外に出られないというのを閉じ込められたと形容するなら、そうなんでしょうよ」
アデリーンはそう言うと、再び扉を閉めた。
向こうに何があるか分からない闇を、ずっと見ていたいとは思えないのだ。
「私もアンタより少し先に目が覚めたんだけど、その時にはもうお師匠がここにいたのよね」
アデリーンが魔女の方を見ると、魔女は微かに頷いた。
「…ここは、閉ざされた空間。外からも内からも干渉することは出来ない…」
魔女の声は、独り言のように小さかった。小さかったが、不思議と強い響きを持っていた。
魔女は、ぽつりぽつりと続ける。
「この空間を作り上げているのは、神授の秘宝の一つ。術者以外には、何人たりとも解除出来ない」
「術者……そいつが、アタシらをここに閉じ込めた犯人ってわけか。それで、どこのどいつだかアンタは知ってるのか?」
魔女は、その問いにアデリーンの方を見た。
既に聞かされていたのだろう、アデリーンは口惜しそうに息をついて、短く答えた。
「…シエルよ」
「………は?」
いきなり出てきた名前に、マグノリアは言葉を失う。
「シエルって……シエル?」
「シエル=ラングレー。アンタの知り合いで、ハルトの同期…だったっけ?」
「……そのシエルが、なんで?」
シエルが何故、自分たちと魔女をこんな空間に閉じ込めるのか。
彼とは、友好関係にあるのだとばかり思っていたのに……
「なんでかは知らないわよ。私だって、気付いたらここにいたんだから。けど、ティザーレに乗り込んだお師匠を捕まえて閉じ込めたのは、間違いなくシエル=ラングレーだってさ」
「どういうことだ…?あいつは確か、アタシらと似たような依頼…………もしかして」
シエルは、イトゥルまでシャロン=フューバーを迎えにいくのだと言っていた。図らずもシャロンをアンテスルまで送っていくマグノリアたちとカナン峡谷で鉢合わせして(その頃シャロンは谷底だったが)……
「ま、シャロンお嬢様に何らかの原因があるんでしょうね、この状況だと」
シエルとマグノリアたちを結びつける要素はそれしかない。
遊撃士をしていると、依頼中に同業者と衝突することはたまにある。相反する利害関係の二者にそれぞれ雇われたときなんかがそうだ。
しかしそれは、相反する利害関係…の場合であって。
「けど、あいつはシャロン嬢を迎えに来てたんだろ?だったら、寧ろアタシらと協力したって…」
「本当に迎えに来てたんならね。或いは、彼女の保護のために迎えに来てたんならね」
アデリーンが冷たく言い放ち、マグノリアは首を傾げる。
まるで、シエルが良からぬ目的でシャロンを迎えに…この場合は捕えようと、かもしれないが…来ていたように聞こえる。
が、マグノリアの知るシエル=ラングレーは、特に正義感が強いとか義侠心に厚いとかいう印象ではなかったが、魔女を捕えて閉じ込めたり自分たちを問答無用で閉じ込めたり良からぬ依頼を受けたりするような人間には、思えない。
「何か、誤解があるんじゃないか?アタシたちか、もしくはシエルの方に」
情報の行き違いで、こんなことになってしまったのかもしれない。
どのみち、こんな空間に自分たちをいつまでも閉じ込めておくことはしないだろう(と、思いたい)。彼と直接話が出来れば、あっさりと解決してしまいそうな気が……
「あの男を、信用しない方がいい」
魔女が、ボソッと呟いた。
「あれは多分、普通じゃない。普通とは、見ている景色が違う……」
「どういうことだよ、魔女?」
魔女には、何か感じるものがあるのだろうか。その口調には、迷いがない。
聖戦を生き延びた英雄にしか分からないような何かを、シエルに感じ取っているのだとしたら……
酷く嫌な感じがするのは、陰気な部屋の雰囲気のせいだけではなかった。




