第九十四話 メリルさんの、恋愛お悩み相談室
谷あいの集落は、夜が早い。
繁華街があるわけでもなく、飲み屋があるわけでもなく、街灯も皆無。陽が落ちれば、辺りは月と星灯りだけが頼りの暗闇だ。
だからなのか、カヌーンの人たちの就寝時間もとにかく早い。農業と狩猟が主な生活手段であるため、日暮れ以降にやることはないのだ。
…なくはないけど、ないと言っておいた方が外聞的にはよろしい。
で、不思議なことに…別に不思議でもなんでもないかもしれないが、メリルさんはハルトたち一行に部屋を三つ、用意してくれた。
男2、女2、猫一匹(あと精霊一体もくっついてるが不可視状態なのでカウント外)の一行に対し、部屋が三つ。
これ、部屋割りがおかしくないだろうか。
仮にメリルさんが社交界に出ている貴族の一員であるならば、主であるシャロンが一部屋、従者であるハルトとルガイアが一部屋、同じく従者っぽいが女の子であるクウちゃんが一部屋、と考えてのことと思われるが、メリルさんはハルトたちをシャロンの従者だとは思っていない。四人の遣り取りを見ていれば多分誰でもそうだろう。事実、彼らは依頼主と遊撃士の関係であって、実際にそこに主従関係は成り立たない。
となると、一人一部屋か、男女別で二部屋、というのが自然ではなかろうか。ペットはまぁいいとして。
ここで判明したのは、メリルさんの「人は好いが抜け目ない観察眼と判断能力」だった。もう、都会の社交界でも活躍できそうな人材である。
彼女は、短い遣り取りでハルトとルガイアの関係を見抜いていた。…ルガイアのハルトへの態度を見ればどちらが上の立場なのかは容易に推測出来るが、それにしてもほとんど自分の意見を言わないルガイアが、ハルトに対し決して必要以上に踏み込まない…一線を保っていることを、見抜いたのだ。
そんな彼が、ハルトと同室で就寝することに抵抗を感じるだろう、ということも。
さらに言うなら、シャロンがハルトとクウちゃんを気にしていることも察していた。正しく言えば、ハルトに執心するクウちゃんをシャロンが心配していることに。
入浴後その様子が顕著なので、何かあったのかもしれない。
メリルさん自身は、部屋割りについて何も言及しなかった。こことこことここの部屋を使ってね、とただそれだけ。
だが結果的に、シャロンがクウちゃんと自分は同じ部屋で寝ると主張し(彼女が果たして何を心配しているのかメリルさんは追及しない)、ルガイアはハルトと同室など畏れ多いと一人で部屋に引っ込み(withネコ)、ハルト一人が残った部屋を使うことになった時点で、メリルさんの思惑通りであった。
メリルさんは、実に良識的な大人である。二十歳でアントワープ家に嫁ぎ、夫と共に過ごした七年間は評判のいい貞淑な妻だった。そして夫に先立たれて五年、少なくとも表沙汰になるようなスキャンダルとは無縁に…表現を変えれば、表沙汰にはならないように上手い具合に、遣り過ごしてきた。
何しろ、ここは小さな小さな集落。僅かな醜聞も、住民たちは見逃さない聞き逃さない。
そんな彼女にとって、三十路女盛りの欲求不満を晴らす機会は、限られている。定期的に集落へ来る行商人か、或いは迷い込んだ旅人か。
ここで彼女のために述べておくが、彼女は別に淫乱でも阿婆擦れでもない。ごくごく普通の、淋しい女性なのだ。
閉鎖的な集落の広い屋敷に一人、村の名代として責任ある立場に相応しい振舞いをしなくてはならない、孤独な女性。
一夜限りの温もりを求めたところで、後ろ指さされる謂れはない。
そんなわけで、メリルさんは意気揚々とルガイアの部屋の扉を叩いた。
彼女は自分の魅力を十分に理解している。二十代のピチピチで溌剌とした美しさは自分にはない。が、成熟した大人なりの魅力というものもあるのだ。
だから、彼女が今身に纏っている衣装も、その魅力を余すことなく発揮させる煽情的なネグリジェ。こんな格好の女性が夜半に訊ねてきたら、勘違いしない男はいないだろう。
ノックから数秒して、扉が開かれた。ルガイアが慎重な性格の持ち主だということはメリルさんにも分かっているので、ここは想定どおり。
目の前に立っているルガイアが、色気もへったくれもない仏頂面なのも、まぁ想定どおり。寧ろこういう禁欲的に見える男の方が、寝台の上では情熱的だったりする。
「………何の用だ」
「ウフフ、少しお時間よろしくて?」
よろしくて?なんて言いつつ、ルガイアの脇をするりと通り抜けて部屋の中へ。もともと彼女のお屋敷なので、とやかく言われる筋合いもない。
「…だから、何の用かと聞いている」
思わせぶりにしなを作ったメリルさんの意図が分からなくもないだろうに、ルガイアは全く表情を変えない。普通の男性なら、この時点で目を逸らすなり目が泳ぐなり凝視するなり、或いは早速押し倒すなり、何らかの反応を見せるのに。
これは手強い、とメリルさんは思った。同時に、実に面白い…とも。彼は久々に、彼女のハンターの血を騒がせてくれる獲物に違いない、と。
最近、特に若者を中心に、女性に対して奥手な男性…なんでも草食系、と称される…が増えてきていると聞く。だが、ルガイアは間違いなくそうではない、とメリルさんの本能が告げている。
どちらかと言えば、ハルトは草食なのだろう。あの純朴で無垢な感じからすると、男と女が営む崇高な行為について、何の知識もなさそう。…どころか、赤ちゃんはコウノトリが運んでくると未だに信じていそうな今どき珍しいくらいの純真な雰囲気の少年だ。
…が、ルガイアから漂ってくるのは、その身に纏う聖職者の法衣なんて誤魔化しでしかないと言わんばかりの男の色気。
聖職者が禁欲的だ…なんてまやかしを信じているのは、余程の狂信者くらいだ。
「まぁ、そんなつれないこと仰らないで下さいな。私も貴方も、初心な子供ではありませんでしょう?」
直立したままのルガイアにしな垂れがかり、その胸に指を這わせる。思ったよりも筋肉が厚い。メリルさんは思わず舌なめずりしたくなるのを必死に我慢した。
ルガイアが、自分の胸板を撫でまわすメリルさんの腕を掴んだ。
彼女は、そのまま押し倒される自分を想像したのだが……ルガイアはそのまま動かなかった。
あら、これは新手の駆け引きかしら?と彼女は期待したのだが、ルガイアはやっぱり色気もへったくれもない仏頂面とぶっきらぼうな口調で、
「用がないのなら、出て行ってもらえるだろうか」
…と、家主に向かってキッパリと告げた。
このあたりから、メリルさんの想定外である。
彼女は、今まで幾人かの行きずりの相手とささやかな交流を重ねてきたが、この状況で相手の取る態度はほぼ限られる。
慌てて拒絶するフリを見せるか、有難く据え膳に預かるか。
中には、さらに駆け引きを楽しもうとする者もいたが、どのみち行き着くところは決まっている。
それに対しルガイアは、全く慌ててもいないし欲情を見せることもない。表情も口調も声も、ただの事務連絡だ。
初めての経験に、メリルさんは驚いて、少しばかり傷付いた。自分の女としての魅力が否定されたと感じたのだ。
同時に、闘争心に火が灯る。これだけ無下にされて大人しく引き下がるのでは、女が廃るというもの。
――――頑張るのよ、メリル。彼はきっと、とても素晴らしいに違いない。
自分を鼓舞し、上目遣いでルガイアを見上げる。彼は一応、視線だけは合わせてくれたがそこに何の感情も読み取ることが出来ない。
――――うむむ、こいつは手強い。だけど、いつまで耐えられるかしら?
しかして強引に部屋を放り出されていないことから、生理的に受け付けない、というわけではないだろう。であれば、勝機は自分にある……はず。
「用ならありますわ。私、貴方ともっと知り合いたいと思ってますもの」
ここで、目を伏せる。長い睫毛が下瞼に影を落とし、更に男の保護欲をくすぐる作戦。これは、上目遣いとセットで用いると攻撃力がおよそ20%ほど向上する。
そのとき、ルガイアが溜息をついた。メリルさんは、勝った!と思った。
中には、女性に迫られて面倒だからとりあえず相手をしておけ、と考える男もいなくもない。だが、そこまで持ち込めば彼女の勝利は確定だ。
だが、ルガイアの溜息は諦めの意ではなかった。
彼は確かに面倒だと思っていたのだが、それは駆け引きが面倒なのではなくて、拒むための説明が面倒なだけだった。
「…其方の思惑は理解した。が、私には妻がいる。彼女を裏切るわけにはいかない」
「………まぁ、奥様がいらっしゃるの」
正直、メリルさんはちょっと意外だった。勝手にルガイアは独身だと思っていたのだ。
それは彼の禁欲的な雰囲気のせいというよりは、さらにその奥深くに隠された危険な香りのせい。
なんとなく、こういう匂いをさせている男性が一人の伴侶に縛られている、というのが意外だったのだ。
ただ、伴侶がいるから他の女性に手を出さない…というのは、メリルさん的にはナンセンス。
「では、奥様に知られては大変、ね?」
隠さなければならないほど燃え上がる、というセオリーに従い、ルガイアを誘惑するメリルさん。ついでに言うと、知られたら大変=知られなければ大丈夫、である。
「知られる知られない、の問題ではない。私が彼女を裏切るか否か、の問題だ。さらに言えば、私が彼女の信頼に値するか否か、だ」
「………まぁ」
メリルさんの中で、ルガイアの評価が急上昇した。男として、だけでなく、人として。勿論彼女は、彼が魔族などとは知る由もない。
たとえ伴侶の目が届かないところでも、知られる恐れがなくても、裏切りとは相手の問題ではなく自分の問題なのだ。
…だからと言ってメリルさんが、「それなら仕方ないですね」と諦めるわけではない。そこまで誠実な男の牙城を突き崩したくなるのも、ハンターとしての血だ。
「それは、とても素敵なことですわ。とても奥様を愛していらっしゃるのね」
「………………」
おや、沈黙だ。
信頼を裏切ることは出来ない、と歯の浮く台詞を臆面もなく言ってのけるルガイアにしては、そこだけ明言を避けるとは。
「……違うの?深く愛してらっしゃるのではなくて?」
おやおやどうやら単純に愛情云々の話ではなさそうだ。そこに、付け入る隙があるかもしれない。
ルガイアは、クソ真面目な表情でしばらく考え込んでいた。
軽くあしらってしまえばいいだけのことなのに真剣に考えるあたり、彼のクソ真面目さが浮き彫りである。
「……果たしてこれが、世間一般に言われる恋愛感情なのかと問われると、即答は出来ない…私も、彼女も」
「あら、あらまあ」
「彼女は確かに私の保護すべき対象であり、彼女も私を慕っているが、仮にその立場を抜きにすれば両者の関係はどのように変化するのだろうか、と」
「…あら、あらまぁ」
なんだか、妙な展開になりそうだ、とメリルさんは思った。
ルガイアの、妻に対する愛情が不足しているのであれば、それに乗じて誘惑してやれ、と期待したのだが。
「私と彼女は、主君の手になる縁により結ばれた。その彼女を裏切るということは、主君に対する裏切りに他ならない。だが、それとは別に私は彼女を愛おしいと思っている。彼女からも同じ言葉を聞く。そしてそれは、果たして互いにそうだと思っている愛なのだろうか」
「え…ええと、深く考えすぎではありませんこと?」
愛情の種類や形がどうあれ、その感情が双方向なのだとしたら何を躊躇することがあるのか。
自分に素直なメリルさんには、ルガイアが何に悩んでいるのかが分からない。
「……いや、これは本来ならばもっと早い段階で答えを見付けておかなければならないことだったのだ。しかし私は彼女の一途さに甘えそれを先延ばしにしてしまった」
「………はぁ」
因みに、ルガイアはメリルさんの腕を掴んだままである。
密着した男女、煽情的な女の衣装、夜の部屋。にも関わらず、このムードの無さは何だろう。
「彼女が私に求めているのは、父性ではないのか?だとすれば、私が応えるべき想いとは、どのような形を取るべきか」
「……そんなの、聞いてみればよろしいのではなくて?」
――――もしかして、この人面倒臭いタイプかしらん。
メリルさんは少しばかり、来なければ良かったかも、と思った。
「聞く……聞いたとしても彼女は否定するだろう。だが、彼女自身が己の気持ちを理解しているかどうか、私には判断出来ない」
「……判断する必要、ありますの?」
なんだか、ルガイアが悩んでいるポイントが分からないメリルさんである。
「…その努力は怠ってはならない…と私は思う。彼女が傷付くのは避けたいが、目の前の傷を怖れて目を逸らせば、いずれもっと深く彼女を傷つけることにならないだろうか」
「…………(めんどくせー…)」
メリルさん、誘惑する気分が霧散してしまった。
こんなことをグダグダ思い悩んでいる男は、彼女の獲物ではない。
ハンターの血、完全沈黙である。
「あのですね、ルガイア様。頭で考えるのはよろしいのですが、それ以前に奥様ときちんと話し合われましたの?」
「…………む」
言い淀むあたり、話し合いはされていないようだ。
「その、不躾な質問ですけれども………奥様とそういった行為はされたのですよね?」
「それは……夫婦だからな、当然だ」
実は、ルガイアは新婚ホヤホヤである。奥方とはそれまでずっと上司と部下の関係で、想いを寄せられてはいたのだが、年齢の差のこともあり、またルガイア本人がほとんど地上界に貼り付け状態で魔界に帰る時間がなかったため、なかなか返事が出来ないでいたのだ。
なので、「当然だ」なんて強がってはいるが回数的には数えるくらいしかない。のだが、そこまでメリルさんに説明する義理はあるまい。
それを聞いたメリルさんは、呆れたように首を振った。そこまでしておいて、何をこの男はウダウダと思い悩んでいるのか。既に答えは出ているではないか。
少なくとも、奥方は既に答えを見つけ表明している。
「……ルガイア様。確かに、婦女子にはときとして相手の男性に父性を求めてそれを恋愛感情と混同してしまうことがございます」
「…やはり、そうなのか……!」
「ですが、それはそれ、これはこれ。父に求めるものと、伴侶に求めるものは違います。仮に奥様が貴方に求めるものが父性だった場合、彼女は貴方に庇護以外は求めません。ましてや、そういう行為に至ろうとすれば、強く拒絶することでしょう」
女だって馬鹿じゃない。自分が真に何を求めているか、頭では分かっていなくても本能はちゃーんと分かってる。稀に父親と✕✕したいという個性的な性癖の女子もいなくはないが、それは圧倒的に少数派だ。多分、母親と✕✕したいという個性的な性癖の男子よりも少ない。
「そ……そうなのか…?」
ルガイアは、イマイチ理解したんだかしていないんだか。
メリルさんは、なんで誘惑しにきた相手の恋愛相談に乗っているのやら、自分がよく分からなくなってくる。
「殿方は…まぁ、そういうことは関係なく欲望に忠実になれますけどね、女はそれに比べるとリスクや制約が大きいのですよ。勢い余って…だとか雰囲気に流されて…ということはありますけれど、自分の感情をはき違えることはございませんわ」
……なお、これはメリルさんの個人的見解であることを付け加えておこう。
「いいですか、「父親を求める」のと、「父親のような頼りがいのある伴侶を求める」のは、似ているようで全っ然違います」
「ち……違うのか」
「違います。まっっったく、違います」
というか、それを混同していたのなら、奥方の求めに応じてたらダメだろう、ルガイア。
ああもしかしたら、この人意外と押しに弱いかもしれない。メリルさんは今さら気付いたが、もう彼を口説く気は空の彼方へ吹っ飛んでいる。
ハンターの血より、村の名代として培われた世話役の血の方が勝ってしまったようだ。
もうこの際、とことんこの一見男気に溢れているがその実繊細ピュアハートの持ち主の夫婦仲を取り持ってやろう。
変てこな使命感に突き動かされるメリルさんであった。
二人の遣り取りの間、ネコはベッド下で「なんだかなー…」と微妙そうな顔をして黙って伸びていた。
大人の男女の色っぽい遣り取りを書きたかったんですが、ルガイア兄ちゃんのクソ真面目さに負けました。
次回ハルトに頑張ってもらうことにします。




