第九十一話 誓い
長く薄暗い廊下を進むシエル=ラングレーの表情は、浮かなかった。
目覚めたときから何かと予想外の出来事に悩まされている彼ではあるが、そしてそれらに比べれば今回の「予想外」は彼にとっても第三者的視点からも重要度は高くない…言うなれば彼の私的な部分に依存するものであるのだが、だからこそ完全に割り切ることが出来ずに思い悩んでいるのだった。
自分の使命に関しては、決して見失うことも見誤ることもないと断言出来る。それは彼の誓いだ。盟友たちと交わした誓いであり、自分自身と交わした誓い。
それを守るためならば、何を犠牲にしても悔いることはない。
だが、後悔しないことと、悩まないということは、同義ではない。
彼は、あの場に自分の同期の遊撃士…ハルトがいないことに安堵していた。
情を移すにはあまりに短い付き合いではあったが、それでも他愛のない仕事で他愛のない会話で触れあった仲間たちは、今の彼には特別な存在だ。
…仮に、もう二度と会うことがなかったとしても。
ハルトは、自分を恨むだろうか。
それも、やむを得ないと思う。どうせ近いうちに、自分は彼にとっての仇となるのだから。
別の選択肢など、ありえない。例え誰から恨まれようと憎まれようと、敵に自分たちの動きを察知されるわけにはいかないのだ…今は、まだ。
それでも、遊撃士になって最初の説明会。純粋な目で自分を見て称賛してくれた何も知らないハルトが、同じ目に怒りと憎しみを滾らせて自分を見ることになるのは、きっととても辛いことだろう。
「…心の準備くらいは、しておいた方がいいかな」
そう呟いてから、自分も随分感傷的になったものだ…と、そうではなかったかつてを懐かしんだ。
「おお、ここにおられたか、ラングレー殿」
廊下の向こうから、一人の老人が歩いてきた。灰色の法衣を着た、聖職者らしき男だ。
「それで、例の部品は入手出来ましたかの?」
「いえ、それが……カナン峡谷で、行方が分からなくなりました」
「……なんと……!」
シエルは、手短に事情を話す。
それを聞きながら、老人の表情は段階的に険しくなっていった。
「それは……ちと厄介ですな。あの峡谷はかなり深い。探そうにも、おそらくそれでは生きておりますまい」
ちと、と言いながら表情的にはかなり厄介だと考えているらしかった。
「未だ、主核すら手に入っていない段階で……しかもアレが駄目だとなると、別の方法を考えるしかありますまい」
「それなんですが」
シエルは、思い悩む老人を遮った。
「もしかしたら、彼女は無事かもしれません。同行していた者がいたのですが、どうも何か確信があるようでした」
「……本当ですかな?」
シエルの言葉に、老人の表情が僅かに明るくなった。
まだ、希望の光は消えていないと感じたのだろう。
「…はい。その者は根拠もなく物事を断定しない人物です。何かを隠している風なのも気になりますし、自分としてはその言葉を信じてみてもいいのではないかと」
「………ふむ、ラングレー殿の仰ることならば、間違いはないでしょう」
老人は、シエルのことを信用しているようだ。
孫息子くらいに年の離れた少年に対し、一定の敬意を払い、そしてかなりの評価を下しているように見える。
「主核に関しては、こちらに宿主がいる限りいずれは補足出来ます。今は事を急いて迂闊に目立った行動をするのはマズい」
「…そうですな。確かにそのとおり。では、計画は今までどおりに進めることといたしましょう」
老人の言葉に頷くと、シエルはふと気付いたように、
「そう言えば、姫君はどちらに?」
極力、声の調子をいつもと変えないように努めて尋ねた。
「その…ラングレー殿が出立されてすぐ、保養地に向かわれました」
「…それは随分と急ですね」
僅かに曇ったシエルの表情に、老人は自分が責められていると勘違いして慌てて言い訳を始める。
「いえ、確かにそうなのですが、ラングレー殿もご存じのとおり、あの方は少しばかり我の強いところがおありです。我らとしても、あまり抑えつけることはしたくありません」
「それは…そうですが」
「それに、お力を使われたばかりでお疲れのようでしたし、少しお体を休めていただかなくてはこれからに差し障るでしょう」
シエルは、老人の言う事にも一理ある、と納得した。
「…分かりました。護衛はついているのでしょう?」
「ええ、いつもの者を貼り付かせてあります」
「……で、あれば心配要りませんね。寧ろ、彼女にはこんなところよりあちらの方が似合ってる…」
シエルの眼差しがふっと柔らかくなって、老人ははて?と首を傾げる。
しかしそれ以上の疑問を許さないかのように、シエルは平坦な口調に戻って話を切り上げてしまった。
「それでは、魔女の方に関してはそちらでお願いします」
「承知しております。……ああ、そう言えば。貴方が連行したあの連中はどう致しますかな?」
その場を立ち去りかけたシエルだったが、老人の言葉に再び足を止めた。
それからしばらく無言で何かを考えているようだったが、
「……彼女らに関しては、オレに任せてもらえますか」
やや逡巡しつつも、そう答えた。
老人はシエルのその煮え切らなさに何かを危惧したようだったが、特に反対はしなかった。
「分かりました、では信徒たちにはそのように申し伝えましょう。ですが、くれぐれも…」
「分かっています。今この状況で、帝国に動きを掴ませるわけにはいかない。街道が封鎖されていたのも、気になります。奴らは何か勘づいているかもしれないが、確信を与えることはしたくありません」
シエルの返答は、老人の期待に適うものだった。
「…お分かりいただいているなら何より。下らぬ情で、今までの全てをご破算にしてしまっては、御神に顔向け出来ませぬからの」
「それも、分かっています」
それでも念を押すように繰り返す老人に、シエルは今度こそ背を向けた。
老人はそれ以上何も言わず、歩き去った。
「…………ほんと、嫌な役回りだな…」
誰にともなくポツリと零したシエルは、懐から首掛けの時計を取り出した。
それは、一見すると普通の懐中時計だったのだが、一つだけ奇妙な点があった。
針が、普通とは逆回りに進んでいるのだ。
時計としては、何の役にも立ちはしない。実際、シエルも時刻を確認する目的でそれを持っているわけではない。
それは、シエルの誓いの証。そして、彼を縛る鎖。
長い長い時を経てなお彼の元へ戻ってきたのも、きっと御神の思し召しなのだろう。
「…今のオレを見たら、君は何て言うのかな…フィリエ………」
もう決して応えることのない者の名を呟き、再び時計を懐にしまって前を向いたときには既に、感傷めいた表情は消え去っていた。
強い決意と冷徹な意志を胸に、シエル=ラングレーは彼の道を進む。
その先に待つ未来が、多くの犠牲に報いるだけのものであって欲しいと、願って。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
すっかり身綺麗になったハルトたちは、夕飯までの時間を客間で過ごしていた。
メリルさんはとても世話好きのようで、一介の旅人に過ぎない彼らにきちんとした客間をあてがってくれて、食事も一緒にしようと言ってくれた。
こんなところで思いもよらない人の温かさに触れてしまったシャロンは、余計に自分の境遇を恨めしく思っているようだった。
同じ権力者でも、こんな人の子供として生まれてきたのであれば、きっと幸せになれただろう。
地図にも載っていないような片田舎の名代と、北部随一の都市の伯爵家では同じ上流階級と言っても雲泥の差がある。しかし、その差と家族の愛情を天秤にかけるほど彼女は物知らずではない。
「けど、他にお客様って言ってたわよね。私たちまで夕飯をご一緒してしまっていいのかしら?」
「メリルさんがいいって言ってるのだし、いいんじゃないですか?」
メリルの様子からすると、先ほど到着したばかりの別の客人は彼女にとって大切な相手らしかった。友人、と呼んではいたが、気の遣い方が普通ではない。
今も、ハルトたちをほったらかしてその友人のところへすっ飛んでいってしまった。
「けど、今はあんまり見知らぬ人と一緒になりたくないのよね…状況が状況だし、もしかすると巻き込んでしまうかもしれない」
既にハルトたちを巻き込んでしまっているシャロンは、これ以上はもう御免だと考えている。
ハルトたちは一応、報酬を支払って雇っている遊撃士だからまだいい。だが、もしここにいることが父に知られれば、刺客がカヌーンにもやって来るだろう。
こんな平和で穏やかな集落で、あんな殺し合いは御免だ。
「んー…だけど、流石に大丈夫じゃないですか?まだ刺客が追っかけて来てるなら、もっと早く襲ってきてるだろうし」
刺客たちにしても、どうせなら人目につかないところで任務を果たしたいだろう。
ここでシャロンたちを殺せば、カヌーンの人々に目撃されてしまう恐れがある。そうなれば、その全員の口を封じる必要が出てくる。
それはあまりにも、無駄な労力だ。
ハルトにしては理知的な判断…なのだが、実のところはなんとなく言っただけのことである。師匠と違い、彼の発言には大した根拠などないことが多い。
そのとき、ルガイアの膝の上のネコが不意に顔を上げた。扉の方を凝視している。
それを見て、ルガイアは立ち上がった。スッと、ハルトの傍らに控える。
「……ん?どしたの、ルガイア」
ハルトがその行動の意味を知る前に、扉がノックされた。
反射的に出ようとしたハルトを手で制して、ルガイアが扉へ向かう。
それを見てシャロンは、もしかして刺客がここまで?と非現実的なことを考えてしまった。仮に刺客だったとしたら、悠長にノックなどするだろうか。
それに、行動の割にはルガイアに警戒は見えない。ただ単純に、主君に扉を開ける手間をかけさせるわけにはいかない…と考えているようだった。ハルトが彼の主君かどうかは別として。
返事をせず無言で扉を開けるルガイア。その向こうに立っていたのは、メリルさんではなかった。
その人物を見た瞬間、ハルトは弾かれたように立ち上がった。
朱の混じった、ふんわりとした亜麻色の髪。
穏やかな、翡翠の瞳。
小柄で、華奢な体躯。
ハルトは、しばらく絶句していた。
まさか、彼女とこんなところで再会出来るとは思ってもいなかった。
彼の命の恩人であり目標であり想い人であり、そして将来の伴侶。
「……メルセデス……?」
その名を呼びながら、ハルトはもしかしたら自分はまた夢を見ているのではないか、と思った。
しかし、次の瞬間部屋に飛び込んで自分を抱きしめた彼女の腕の感触は、彼にこれが現実であると強く訴えかけていた。
シエル君いろいろと事情を抱えていそうです。




