第九十話 お風呂に入ってるとなんか色々考えちゃう。
「ふー、なんか生き返った気分だ」
「んにーーーー」
湯船に肩まで浸かって、至福の溜息を漏らすハルト。その傍らには、お湯を張った洗面器に同じように浸かって同じような至福の声を上げるネコ。
メリルさんちのお風呂は、とても広かった。まるで高級宿だ。カランは全部で五つあって、洗い場の広さも十分。湯船なんて、一度に十人は入って余裕な感じ。
思い切り伸びをして溜まった疲れを身体から追い出し、湯船の縁に背中を預けてボーっと天井を見上げる。
こうしていると、ついさっきまでの谷底サバイバルが嘘のようだ。
…と言うか、地上界に来てからのあれやこれやが、嘘のようだ。こんなに広い風呂に入ったのは魔王城を出て以来なかったからか。
「失礼致します」
一足遅れて、ルガイアがハルトの隣に身体を沈めた。なお、当初は主君と共に入浴するなど決して許されることではないと固辞していたルガイアだったが、それじゃ自分が気詰まりだしメリルさんにも不審に思われる、とハルトが強引に浴室に引き摺り込んだのだ。
ハルトは、隣のルガイアをチラリ、と見る。
…鍛え抜かれた、屈強な体つき。どうやら彼は着やせするタイプのようで、こうして見ると魔導士ではなく剣士だと言われても不思議ではない。
それはおそらく…否、間違いなく研鑽により彼が自分で手に入れたものだ。マウレ兄弟のプロフィールなどは知らないが、魔王の眷属に選ばれるほどなのだから相当の努力と苦労を積み重ねてきたのだろう。
…同じ立場のエルネストにはそんな風に思ったことはなかったりするが。
ハルトは、なんとなく面白くない。
彼自身、地上界に来るまで努力のどの字も鍛錬のたの字も知らない腑抜けたヘタレ王子ではあったのだが、それにしては均整の取れた、筋肉質の肉体を有している。
しかしそれは、彼が魔王の後継であるがゆえの彼の特性…のようなものに過ぎない。
彼が、自分の意志で自分の努力で手に入れたものではない。
今までは、考えたこともなかった。
強くなりたい、とか、自分の力で手に入れたい、とか。
与えられるものだけで、満足していたのだ。それ以上何も望む必要がないくらい、与えてもらっていたのだ。
与えられるもの以外、知ろうともしていなかった。
遅ればせながらその自分の状況に疑問を感じ、欲しいもののために動き出した彼ではあったが、だからこそ余計にずっと昔からそうしてきたであろうルガイアが、羨ましかった。
…いや、ルガイアだけではない。
マグノリアもアデリーンも、シエルも…他の同期連中はまだまだこれからといった感じだったが…、もしかするとセドリック公子まで、当たり前のように自分の力で自分の望みを果たしてきているのだろう。
おそらくだが、決してそれは特別なことではない。寧ろそれを今まで知らなかったハルトの方が、異質なのだ。
守られ、愛され、甘やかされて。
それを幸せだと、それだけで満足だと思えない自分は、いつか魔界に帰ったときにそんな生活に戻れるのだろうか。
そんな自分を、魔界は受け容れてくれるのだろうか。
そういう意味では、シャロンとハルトは似ている。互いに、親の存在ゆえに尊重される立場。
もしハルトの父が…魔王が彼を疎んじていたら、魔界の民が彼を受け容れてくれていなかったら、彼もまた孤独に追い詰められていたのかもしれない。
…それでも、シャロンには頼れる執事がいた。頼れる領主がいる。
だが、ハルトにはそんな相手はいない。
自分の今の状況が、魔族たちにとって好ましくないということは分かっている。グリードが説得してくれたようだが、ギーヴレイは今も面白く思っていないことだろう。
それでも、猶予は与えられた。そしてそれは、猶予であって容認ではない。
仮に、やはり今すぐ魔界に戻れと言われ、それを拒んだとしたら……
もしかして自分も、魔族たちに疎まれるようになるのだろうか。
今までは疑問にすら思わなかったことだが、シャロンの境遇を聞いてそういう可能性もあるのだと思い至った。
同時に、自分がいかに恵まれた環境にいたのか、ということも。
魔王のように、自分の力で魔界を統治しその偉大さを崇められていた存在と違い、ハルトはそのおこぼれを頂戴しているに過ぎない。
魔族たちは、ハルトを通して魔王を見ている。ハルトを通して、魔王を求めている。
だがハルトは、彼らが敬愛し崇拝する魔王ではない。
では、自分が魔王の意志に…魔界の総意に反する行いをしたときは?
そのとき、彼の傍らにいてくれる臣下は、いるのだろうか。
「……殿下、どうなさいましたか?」
暖かい湯船の中にいるに関わらず顔色の良くないハルトを、ルガイアが気遣った。その無表情からは、ハルトの懸念は伝わっていないと分かる。
「…ん、ううん、別に。ちょっと疲れたなーって思ってさ」
だがそれは、臣下たちには明かせない。
明かしたところで無駄なこと。彼らは口を開けば「御身は尊き存在なのです」「我ら絶対の忠誠を御身に捧げます」と言うばかり。
その言葉の前に、「魔王陛下の後継として相応しくある限り」という文言が隠されているだろうことに、ハルトは気付いてしまった。
そして、それを肯定されてしまうことも怖ろしい。
だから、少なくとも今はまだ、彼はこの思いを一人で抱えるしかない。
本当は師匠に相談したいところだ。きっと彼女なら、自分の心配を笑い飛ばしてくれて、それでももしそうなったら力になる、と言ってくれるだろう。
けれども、廉族である彼女には、このことだけは頼れない。
このことだけは、誰にも頼れないのだ。
「にー、にゃお」
ハルトの心を知ってか知らずか、一際柔らかな声を上げるとネコがハルトに頬ずりをした。
小さな獣の他愛のない行為に心がほぐされたハルトだったが、湯気で濡れた頬にネコの毛がたっぷりとへばりついた。
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「……ん、あれ?どうしたんだろ?」
湯上りでホカホカになったハルトとルガイア、ネコは、浴室から廊下に出たところで異変に気付いた。
異変、と言っても少し騒がしい…という程度の。
アントワープ家の少ない使用人たちが、なんだか行ったり来たりと忙しない。表情は、少し慌てているが警戒とか恐怖とか不安とかがあるわけではないので、異常事態というわけではなさそう。
とりあえずさっきまでいた応接室に戻ろうと廊下を歩きだした二人と一匹だったが、向こう側からメリルさんが足早にやって来た。
「メリルさん、お風呂ありがとうございました。何かあったんですか?」
メリルさんは慌てた様子もなく、そして何故か嬉しそうな顔をしているのでハルトも呑気に訊ねた。
どうやら、悪いことよりも寧ろ良いことが起こっている感じだ。
「ええ、騒がしくして御免なさいね。急なお客様がいらしたものだから」
「……お客?」
余所者自体が珍しいと、メリルさんは言っていた。
それなのに一日に二組も客とは、そういうこともあるのだろうか。
そして、客人が来たのに自分たちはここに居座っていていいのだろうか。
「ええ、さっきもお話ししたかしら。時々、とても可愛らしい友人が私を訪ねてきてくれるのよ。…あ、別に貴方たちが気を使う必要なんてないの。追い出すつもりなんてないから、今夜はうちでゆっくりしてらして?」
メリルさんの視線は、やや上ずり気味だった。
そしてそれは、可愛らしい友人が訪ねて来てくれた喜び…というよりも、湯上りで火照った肌が艶めかしいルガイアの色気のせいだろうとネコは気付いたが、彼はお兄ちゃん大好きっ子なので、黙っておいた。




