第九話 ボンボン殿下、修行に励む。
「いいか、一日千回だからな。余裕があったら、その倍だ。分かったな?」
「はい、師匠!」
日が傾き始めた頃、マグノリアはようやく自分が依頼の途中だったことを思い出した。いくら急ぎのものではないにしても、ここで赤の他人に剣術指南をするほど悠長にはやっていられない。
なので、とりあえず型だけでも体に叩きこませるため、素振り一日千回をノルマに指定したのだ。
正直、ハルトがそれに耐えられるとは思っていない。剣を持ったばかりの素人にとって、ただひたすら素振りを繰り返すだけというのは、苦行以外の何物でもない。
だが、短期間で一定以上の成果を上げようと思ったら無茶は仕方ないことだし、ここでその程度の無茶も出来ないようならば遊撃士になることも諦めた方がいいと、マグノリアは敢えてハルトを突き放すことにした。
「アタシはこれから依頼されてた仕事にいくけど、サボるなよ?サボってもバレねーと思ったら間違いだからな。んで、サボってたら見棄てるからな」
「はい、分かりました師匠!」
返事だけは一丁前のハルトが疑わしいマグノリアだったが、これ以上自分が強制することは出来ないと思い宿を出た。
依頼の途中で何度か顔を見せるつもりでいることは、やっぱり癪なのでハルトには言わなかった。
宿を出てすぐ、マグノリアは例の視線に気が付いた。相変わらず鋭いが、気配を消すだとかは全く出来ていないお目付け役である。
マグノリアは、その気配の方へ足を向けた。物陰に身を隠す相手が一瞬だけ動揺したのが伝わってきたが、構わず歩を進める。
目は、合わせない。ただ偶然そっちの方向に歩いているだけだ、という素振りで近付き、相手もまたただの通行人を装ってマグノリアをやり過ごそうとしているのが分かった。
すれ違ってから数歩で、マグノリアは足を止める。
「お目付け役ごくろーさん。けど、ちょっとばかり放任が過ぎるんじゃねーの?」
「………………」
背中越しに話しかけられたその男は、無言でマグノリアを見遣った。
その瞬間マグノリアの脳裏をよぎったのは、早まったかも、という後悔にも似た感想だった。
男は、少なくとも今のところ、マグノリアに対し敵意や殺意は向けていない。ただ、無表情に見つめているだけだ。
それは、マグノリアを値踏みしているのか見定めようとしているのか……どちらにせよ、こうして間近に相対してみて、相手が自分を遥かに超える実力者であることにマグノリアは気付かされた。
理屈ではない。戦ってもいないのに、自分と相手を比較することなんて出来ない。
しかし、男の纏う空気…存在感とでも言えばいいのか…は、自分のそれとは、桁違いに濃密だった。
マグノリアは、第二等級の遊撃士である。メルセデス=ラファティを始め第一等級の化け物連中や、それらを遥かに凌駕するという三剣の勇者たちには遠く及ばないが、それでもトップクラスの遊撃士として名を馳せ、幾多の死地をくぐり抜けてきた。
しかし、そんな彼女をしても、目の前の男とやりあって生き延びるビジョンが、どうしても浮かばなかった。
男は、見たところマグノリアと同年代…二十代半ば、といったところ。短く刈り込んだ金髪に、精悍な顔つきの美丈夫だ。
「貴様は、何者だ?で…あの御方に近付いて、何を企んでいる?」
警戒を隠しもせずに男は問う。刃を隠し持った声に戦慄を覚えるマグノリアだったが、流石に聞き流すことは出来なかった。
「お…おいおい、企むってなんだよそりゃ。どっちかっつーと、お前の御主人サマの方からアタシを頼って来てるんだろ」
ここで話の分からない奴ならどうしよう、とマグノリアは危惧したが、男は意外に常識人のようだった。彼女の言葉に、それもそうか、と頷いている。
「ふむ……まぁ良かろう。貴様があの御方に危害を加えないのであれば、それでいい」
「なぁ、あいつって何者なんだよ」
ただの金持ちのボンボンならば、この男ほどの手練れが付き従うのも妙な話だ。マグノリアとしてはハルトの正体にそこまで深い関心があるわけでもないのだが、軽い気分で訊ねてから再び後悔した。
それは、男の眼差し。
深く、昏く、恐ろしく静かな一瞥は、彼女が今まで対峙したどの強者よりも危険に感じられた。
「あー…いや、聞かない方がいいってんなら、そうする」
これ以上踏み込まない方がいいと判断したマグノリアは、潔く撤退を決めた。このあたりの引際の良さも、彼女の経歴の賜物である。
「それがいいだろう。余計な詮索は誰の利にもならない」
男はそう言うと、マグノリアから視線を外す。それは、話はもう終わりだ、と暗に示す仕草だった。
しかし、マグノリアには一つだけ聞いておきたいことがあった。
「なら、これだけは確認させてくれ。あいつが倒したっつー魔獣、アンタが手を貸したんだろ?」
ハルトのあのへっぴり腰では、魔獣を倒すことなど不可能だ。おそらく、このお目付け役が陰からこっそり魔獣にとどめを刺したに違いない。
そう思って、尋ねたのだが。
男は、きょとんと首を傾げた。こうして見るとなかなか愛嬌がある。
「魔獣……?」
「ああ、ハルトがここの近くの森で倒したっつー魔獣だ。あいつの実力じゃ、高位魔獣なんて倒せるはずがない」
マグノリアの言葉にしばらく考え込んでいた男だったが、やがて思い当たったようだ。
「ああ、あのヒポグリフのことか。高位などと言うから、一体なんのことかと思ったではないか」
「って、ヒポグリフだったのかよ……!」
ヒポグリフは、レベル8の高位魔獣である。グリフォンやヒュドラ、オロチなどには及ばないが、討伐するとなれば適性ランクは第二等級以上。
ただ、男の口振りには妙な違和感が。
まるで、ヒポグリフが高位魔獣ではないかのような。
しかしその違和感は、男の次の台詞のせいでどこかへすっ飛んでいった。
「言っておくが、私は何もしていない。あれは全て、ハルトで…ハルト様のなされたことだ」
「…は!?いや、いくらなんでもそれはないだろ。あいつの実力じゃ、レベル8なんてとても…」
「貴様如きがあの御方の力を推し量ろうなどと、不遜も甚だしい」
再び男の視線が鋭くなって、マグノリアの言葉を遮った。
「…………分かったよ、信じることにする。それじゃアタシは行くわ。邪魔して悪かったな」
マグノリアは、今度こそ完全に撤退することにした。これ以上は危険だ。男の機嫌を損ねるのも怖かったが、自分がハルトと男のことを詮索しようとしている、と思われるのはもっと危険なように感じられた。
しばらく進んで、男が先ほどの場所から動いていないことを遠目に確認してから安堵の息をつく。どうやら、わざわざ追ってきてマグノリアを排除する、なんてことは考えていなさそうだ。
どうにも面倒そうな相手に関わってしまったと後悔しつつ、マグノリアは同時にハルト自身にも興味が出てきてしまったことに気付いた。詮索するなと言われると余計に気になる…というセオリーだろうか。
過剰な好奇心は命取りになる。これもまた遊撃士にとって心に留め置かなくてはならないことだ。一度お節介を焼いてしまったためにこのまま放置するのも気が引けるが、ハルトと関わるのは彼が遊撃士に登録するまでの間…いやいや一発合格できるとは限らないというかできる可能性の方が低いので最初の試験に挑戦するときまでにしよう、とマグノリアは自分に固く誓った。
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マグノリアが宿に戻ったのは、それから三日後だった。
依頼が完了したわけではない。ただ、難易度は大したことないがそれなりに腰を据えてかからなければならない案件であったため、ひとまず様子見ということで顔を覗かせたのだ。
ハルトが真面目に取り組んでいるならば良し、そうでなければさっさと見限ろう、と思って。
ハルトが未だ宿に滞在していることは、例の男が変わらず外に貼り付いていることからすぐに分かった。その時点で、投げ出してはいないのだろうと踏んで裏庭を覗いてみたら、予想どおり臨時の教え子はそこにいた。
「あれ、師匠!お帰りなさい、お仕事終わったんですか?」
マグノリアの姿を見止めた途端に駆け寄ってくるハルトの姿がまるで新婚ホヤホヤの夫を出迎える幼な妻みたいな感じに見えなくもなくて少々焦ったマグノリアだが、そんな自分のふざけた妄想はすぐさま頭から追いやった。
いくら色恋沙汰に縁がないと言っても、子供に手を出すほど飢えても盛ってもいない。
「いや、ちょっと小休止ついでに様子見。どうだ、真面目にやってるか?」
「はい、もちろんです!これでも、少しはマシになったんですよ」
ニコニコと修行の成果を報告するハルト。充実した嬉しそうな笑顔が、可愛い。
「んにー、なおーーん」
笑顔にあてられて赤面しかけたマグノリアを、ベンチに寝そべった黒猫の一声が現実に引き戻した。
どうやらこの猫も、ハルトのお目付け役を自認しているようだ。
「んんっ、ゴホン。えー、ちょっと見せてみろ」
三日も完全放置だったので、変な癖がついているかもしれない。だが、まだこの時点なら修正は容易いだろう。
すっかりハルトのペースに呑まれていることに半ば気が付きながらも、乗りかかった船だからこれも仕方ないか、と自分に言い訳するマグノリア。あれでも乗りかかった船ってこういうこと言うのだったか。
「はい!!」
元気いっぱいに返事をして再びマグノリアから離れ、剣を構えるハルト。
「……へぇ」
マグノリアは、素直に感心した。
正直言って、モノになるのはだいぶ時間がかかると思っていたのだ。多少の心得のある者ならばまだしも、それまで剣術とは無縁で生きてきたハルトが一度や二度見たところで型を会得するのは不可能に近い。
だが、目の前で剣を構えまっすぐに前を見据える少年は、見た目だけならば一人前の剣士だ。
そして、ハルトは剣を振るう。上段から下段へ振り下ろし。返す刀で横薙ぎ、そして刺突。その光景に、マグノリアはこのあどけない少年が素人であることを忘れるところだった。
「……って、おいおいマジかよ。お前のご主人、どうなってんだ?」
思わず、ベンチ上の猫に話しかけてしまった。
「ななーお、んにゃあ」
猫は、得意げにそう鳴いてからは興味を失ったように丸くなった。
マグノリアは、しばらくの間剣を振るうハルトを眺めていた。彼が参考にできるのはマグノリアだけなので、その太刀筋は彼女のものと酷似している。
だが、初心者ゆえの初々しさとひたむきさが、一種の輝きを彼の姿に与えていた。
「…どうですか、師匠?」
剣を降ろし、ソワソワした様子を隠そうともせず尋ねるハルト。褒められるのを待っている仔犬に見えなくもない。
「ん…んー、まぁ、悪くないんじゃないか?」
調子づけるのも良くないので控えめな評価を下したマグノリアだったが、実のところは悪くないどころではない。
いくら型稽古とは言え、完全初心者の状態から三日でこれならば、先が楽しみというものである。
「本当ですか?ありがとうございます師匠のおかげです!」
「いやー、それほどでもねーよ…っていやいやまだこれからだろ」
確かにハルトは真面目に鍛錬に励んだのだろうし(いくら才能があっても努力なしに三日でここまで来るのは不可能だ)、その上達ぶりには目を見張るものがあるが、遊撃士試験はあくまでも実戦形式である。型は立派でもそれだけでは合格できない。
「それじゃ、次の段階に進むか」
「はい、お願いします!」
ハルトのやる気も十分なようなので、マグノリアのお節介はさらに続く。
彼女はひとまず遊撃士組合に赴き、必要な道具を借りてきた。
訓練用の標的である。まだ実際に人と対峙しての打ち込み稽古はいくらなんでも早すぎるので、これで感覚を掴ませようという考えだ。
「……っと、こんな感じでこいつに打ち込め。これは……そうだなぁ、最低でも一日二百本。余裕があれば五百本。素振りと違って反動が来るから、腕や手首を傷めないように気を付けるのと、必ず休息は挟むこと。いいな?」
例によってお手本を見せてから注意事項を伝えるマグノリアに、ハルトは素振りを見たとき以上の興奮が詰まった視線を向けていた。
いちいち反応が大げさなので、やっぱり悪い気はしないマグノリアである。
それと、これは大丈夫だと思うが念の為。
「この標的はギルドからのレンタル品だが、一体で十万イェルクもするやつだからな。粗末に扱うんじゃねーぞ。汚したら拭いとけ」
「はい、分かりました!」
訓練用標的はギルドが新人育成補助として貸し出しているものだが、実のところ上位遊撃士たちも例えばブランク明けだとか基本に立ち返るとかで使用しても問題ない代物である。
中心部には鋼鉄が仕込んであり(そのせいで移動は荷車だ)、衝撃吸収材でそれを包んださらに外側には、ギガサーペントの革が厳重に巻き付けてある。
ギガサーペントは防御力に定評のある魔獣で、通常攻撃だと傷一つ付かない厄介な高位種だ。そのため剣士殺しの異名も持っていたりするのだが、同時に防刃性・弾力性・耐久性に優れたその革は非常に強力な防具にもなる。
唯一の欠点が、討伐推奨ランクが第三等級以上というレベルの高さゆえの稀少性。要するに、値段が高い。
さすがに傷を付けられることは心配していないが、雨風の中放置されたり汚されたりするとギルドの職員がすごく嫌な顔をするのだ。稽古のための道具なのだから汚れるくらい文句を言うなとマグノリアは思うのだが、ギルドに所属する以上ギルド職員の言うことは絶対だったりする。
だから念を押して再び仕事へと向かったマグノリアだったが、自分の迂闊さを後悔することになるのはそれから一週間後のことだった。




