第八十八話 地図にない村
ハルトたちが谷底へ落ちてから、三日が経った。
三日も、経ってしまった。
結局、未だマグノリアたちとは合流出来ていない。それどころか、谷底から脱出さえ出来ていない。
上へ登れるような場所を探しながら進んでいたのだが、今のところは望み薄。高く頭上に橋が架けられているのも見たが、どう考えても登れそうになかった。
「……はぁ」
その日の野営地、大きな岩の傍で焚火の揺らめく炎を眺めながら、シャロンは溜息をついた。
彼女がハルトたちを雇った期間は、五日。このままだと、アンテスルに着くどころか峡谷にいる間に契約期間が終了してしまう。
予定どおり馬車で峡谷を抜けるにしても、丸二日はかかる。峡谷の外れの都市ロワーズで休息し、そこからアンテスルまではまた二日。
ほとんど余裕のない日程だったのだ。未だ谷の出口すら見えていない現状、とてもではないが五日目にアンテスルに到着することはまず不可能。
到着してからも問題は山積みだというのに、まったくもって災難である。
「シャロン、大丈夫ですか?」
溜息を聞きつけて、ハルトが彼女を気遣った。体力的に一人劣っているシャロンは、ただハルトに抱っこされているだけでも疲れてしまうので、体調を崩したのではないかと心配したのだ。
「…うん、大丈夫。ありがと」
正直、体調が優れているわけがない。肉体的にも精神的にも疲れはピークだし、この先どうなるのか不安も尽きないし、連日の野営のせいで身体中も痛い。
しかしシャロンは貴族の娘として、簡単に弱音を吐くことを許されない境遇にいた。そのせいで、身分もへったくれもないこの状況においてなお、弱々しく強がってしまう。
「顔色悪いですよ。ちゃんとご飯食べないと。ほら、お肉焼けましたよ」
単純なハルトは、シャロンの不調を栄養不足だと結論付けてしまった。本日の晩餐、一角兎の丸焼きから手際よくモモの部分を切り取って、シャロンに差し出す。一角兎は、モモが一番美味なのである。
「……………ねぇ」
最初は無言で受け取ったシャロンなのだが、どうしても気になることがあって黙っていられなくなった。
「いつの間に…って言うか調味料なんてどこから持ってきたのよ?」
「なんか、ルガイアが持ってました」
そう、二日目からいきなり食事の質が向上したのである。
勿論のことながら、普段シャロンが味わっているような上流階級向けのお上品で豪華な食事とは違う。素材は谷底で獲れる魚や獣、木の実だし、テーブルにクロスを引いて銀の食器を並べて…なんて食卓ではないことは確か。
しかし、初日こそただ焼いただけの魚だったのに、昨日は鶏肉のシチューが振舞われたし、今日は一角兎の丸焼き(ちゃんと調味料で味付けしてある)に果物を葉っぱで包んで蒸し焼きにしたものまで。
それらの料理を作ったのはルガイアなのだが、一体全体どこから鍋とか皿とか材料とか調味料が現れたのか。
彼もハルトやシャロンと同じく、荷物など持ち出す暇もないまま馬車から放り出されたのだ。
「なんか持ってた」とハルトは言うが、「なんか」で鍋を肌身離さず持ち歩く聖職者なんて聞いたことがない。
……しかも。
「ハルト様、どうぞ」
「あ、ありがと」
ルガイアは、カップに注いだお茶をハルトに手渡した。ハルトは何も考えずに受け取るが、
「なんでお茶まで!?」
ここは貴族の邸宅のサロンルームでなければ街のカフェでもない。人の踏み入ることのない、深い峡谷の谷底なのだ。アウトドアどころではない、サバイバルなのだ。山にあるものだけで、生き延びなければならないのだ。
要するに彼らは、遭難真っ最中なのだから。
しかし疑問に感じているのはシャロンだけで、ハルトもクウちゃんもネコも気にせず食事を堪能している。ルガイアを問いただしてみたいシャロンだが、話しかけても冷たく睨まれてしまうだけで全く意思疎通が出来ない。
「んなな、にゃお」
「……少し待て」
ネコがルガイアに何かを催促して、ルガイアは何故かネコの求めているものが分かっているみたいで、深皿にミルクを注ぐとネコの前に置いた。
シャロンは、もうツッコむのをやめることにした。
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そんなこんなで四日目。
走り続けていたハルトは、視界の先が開けていることに気付いた。
「あれ……なんか出口っぽい?」
切り立ったV字型の渓谷は、いつの間にか緩やかなU字になっている。木々の密度もまばらになり、全体的に明るい。
やがて一行は、小さいが平地に出た。そこには集落が広がっている。
「シャロン、谷を出ましたよ!」
彼らはマグノリアたちとの合流を急いでいたのだが、先に峡谷を抜けてしまったようだ。
それはそれで、ホッと一安心である。
「ここで待ってたら、師匠たち来るんじゃないですか?」
「………………」
しかし、シャロンの表情は冴えない。ハルトの腕から降りて、集落の方をじっと見る。
茅葺の屋根と土壁の家々。柵で囲われた畑と、放し飼いの家畜。道で談笑する婦人らと、その周りを走り回る子供たち。
それはもう、牧歌的な光景である。の、だが。
「…ここ、ロワーズじゃないわね」
「……え?」
カナン峡谷を抜けたら、北部の入口の街ロワーズに着くはずだった。
しかし、
「ロワーズはこんな田舎じゃないもの」
イトゥルやアンテスルほどではないが、ロワーズもれっきとした都市である。北の玄関口として、人も物も多くが行き交うティザーレ北部第二の都市。
だが、目の前の集落はどう見ても、ドがつく田舎…だった。
田舎とは言っても閉鎖的な雰囲気はなく、開けた田園風景、といった趣。地理的には北部に位置するはずだが、平地なので住みやすそうな場所である。
「えっと……それじゃ、ここはどこなんでしょう?」
「……おかしいわね。峡谷のすぐ近くに、ロワーズ以外の集落があるなんて知らなかったわ」
ティザーレの国民であるシャロンが知らない集落。妙な話である。
しかし、谷を抜けたら幻の村に迷い込みました…的な展開にしては、目の前の光景はやけに現実味を持っている。
「途中で道を間違えちゃったんですね、きっと」
ハルトは呑気にそう考えた。地理的におかしい、とシャロンが言っているにも関わらず、ただの道迷いだと思っているあたりが呑気なのである。
「けど、地図にこんな村なんて…」
「とりあえず、村の人たちに聞いてみましょうよ。ここからアンテスルに行く道も」
地図が全てを網羅しているとは限らない。小さかったり人口が少なかったりする村未満の集落であれば、見落とされたり敢えて無視されたりすることもある。
地図がどうであれ、ここに集落があり人が住んでいるということは間違いないので、確かにハルトの言うとおり住人に訊ねてみるのが早い。
ハルトは、井戸端会議中のご婦人たちの輪に近付いていった。クウちゃんはハルトについていくが、シャロンは見ず知らずの平民と会話するのが不慣れなので躊躇ってしまった。
なんとなく、ルガイアと一緒に少し離れたところで待機。
「あの、すみません。この村って、なんていうところなんですか?」
こういうとき、外見は非常に強力な武器である。
見るからに不審者だったり強面だったり怪しげだったり陰鬱だったり軽薄だったりすると、初対面の人に要らぬ警戒心を抱かせてしまうのだが、ハルトは外見も品の良さも純朴さも兼ね備えている。
案の定、ご婦人がたは見ず知らずの少年に話しかけられながらも愛想の良さを崩さなかった。
「あらぁ、旅人さん?珍しいわねぇ、どこから?」
「え、えと、あっちの谷を抜けてきたんですけど」
基本的に、おばちゃんは可愛い男の子が好物なのである。好意混じりの興味津々で、ご婦人の一人がハルトに反応した。
しかし、ハルトがカナン渓谷の方を指すと、吃驚仰天。
「…えぇ!?谷を抜けてきたって?それはまぁ……難儀だったろうねぇ」
「今まで谷の方から人が来たなんてこと、なかったのにね」
「なんだってまた、そんな危険なところを通ってきたんだい?」
「こんな辺鄙なところに何の用なのさ?」
「おやおやあちらにいるのは神官さまかい?だったら巡礼中なのかしら」
口々に、ハルトを質問攻め。こっちが色々聞きたいのに、なかなかその糸口を掴ませてもらえないハルトである。
「え、いや、あの、ちょっと色々とトラブルがありまして、ここに来る予定じゃなかったんですけど、来ちゃったんです。ほんとは、アンテスルまで行きたいんです」
「アンテスルまで!?だったらロワーズに抜ければ良かったじゃないのさ」
「いえ、そうしたかったのはやまやまなんですけど……」
ハルトたちとて、普通に峡谷を抜けられればそれで良かったのだ。或いは、谷底経由であっても目的地に到着出来ればそれで良かったのだ。
しかしおそらく、谷のどこかで分岐を間違ってしまったのだろう。この分だと、マグノリアたちと合流するのも一筋縄ではいかなさそうだ。
ご婦人がたは、愛らしい容姿のハルトとクウちゃんがいたくお気に召したらしい。或いは旅人自体が珍しいからか、気付けばそのうちの一人の家でお茶を御馳走になることになってしまった。
そのご婦人は、この集落のママさんネットワークの最高権力者であり、村の名代的な家の女主人らしかった。
四日間の谷底サバイバルによってだいぶ薄汚れてしまったハルトたちを見かねて、しかし外から人が来ることのほとんどないこの村には宿屋などないということで、自分の屋敷に招待してくれたのだ。
「アンテスルまではまだ長いのだし、うちで少し休んでらっしゃい。ほら、年頃の娘さんにそんな格好させてちゃダメよ。お風呂も貸してあげるから、綺麗にしなきゃ」
……とのこと。どうやら、シャロンやクウちゃんがヨレヨレの格好になっているのが居たたまれなかったようだ。
あと、チラチラとルガイアに思わせぶりな視線を送っていたりもしたが、それが何なのかハルトには分からなかった。
何はともあれ、地図にはない風変わり?な村で小休止を取ることになった一行である。
いつの間にかルガイア兄ちゃん、魔王の料理スキルを引き継いだか…?
と言うわけではなく、ハルトにあんまりひどいものを食べさせるのも嫌なので(あと弟にも)、こっそり魔界から色々持ち込んで(彼は門の能力持ってますから)試してるだけです。普段は料理なんて興味ナッシング。




