第八十五話 お家騒動は財産地位の有る無しに関わらず厄介なものだ。
「…………えぇっと……」
ハルトは反応に困った。
シャロンは何か気の利いたことを言ってもらいたいわけでもないのだろうが、黙っているのも気詰まりだしかと言って何を言えばいいのかも分からない。
実の父親に、殺されそうになっているなんて。
ハルトの感覚からしたら、実の親なのに娘を疎んじているというだけでも信じがたい話である。それなのに、それどころか、フューバー伯爵は娘であるシャロンの命を狙っている……と彼女は言う。
「多分」という言葉がついていることから、シャロンとて証拠を持っているわけではないのだろう。だが、その口調は確信めいていて、一抹の疑いさえ垣間見えることがない。
少なくとも彼女は、自分が父親に狙われていると…父親が自分を殺そうとしているのだと、信じている。
「その……本当、なんですか?」
「冗談でこんなこと言えるわけないでしょう」
確認するハルトに答えるシャロンの表情は、厳しくはあったが悲嘆に暮れているようには見えなかった。普通、肉親に狙われているとなればもう少しショックを受けるものではないのだろうか。
それとも、シャロンの生きている世界はそれが然程珍しくないような、そんな場所なのか。
「この国の法律上では、弟よりも私の方が家の継承権が上なの。勿論、抜け穴なんていくらでもあるんだけど、両親としては確実に弟を次期当主にしたい。それには、私が邪魔ってわけ。まぁ、よくある話よね」
「よくある話…なんですか」
魔王のただ一人の後継であるハルトには、まるで理解できない話である。
「最初は、静養って名目でイトゥルに追いやられただけだったんだけど、周囲で妙なことが立て続けに起こったものだから、これはおかしいってウォレスが色々と調べてくれたの。それで……」
「その、国の偉い人とか、警察とかに言ったほうがいいんじゃないんですか?」
ハルトの提案に、シャロンは肩をすくめて首を振った。
「物証もないのにどうやって?。それに、国の要職にある父と、その娘でしかない私と、どちらの言うことが信じてもらえると思う?」
シャロン=フューバーの全ては、出自に由来するものである。
住んでいた屋敷も着ているドレスも乗っていた馬車も、仕えていた使用人も路銀も持ち物も知り合いも友人も何もかも。
フューバー家の娘、という肩書を取り去ってしまえば、彼女は何一つ持たないただの小娘だ。
そんな彼女が家に反目して何かを主張したとしても、耳を傾ける者はいない。
「父も、私の動きを予想してたのかしらね。もしかしたら、病気療養っていうのもそのためだったのかも。娘は精神的に不安定だ…とか言っておけば、誰も私の言うことなんか信じないでしょ」
「そんな!ボクはシャロンを信じますよ!!」
「…ありがと。けど、それは貴方が父より先に私に会って、私の言い分を聞いてくれたから。私は世間的には、実母を亡くして病んでしまった可哀想な貴族の娘…ってことになってるのよ」
どのみち、ハルト一人に信じてもらえたとしても何の意味もないのだが、それでも少なくとも一人は自分の味方がいる、という事実はシャロンにとって非常に心強いものだった。
「けど、それじゃアンテスルに戻ってどうするんですか?」
「一人だけ、信用出来る人がいるの」
…どうやら、味方はハルトだけではなかったらしい。
「その人は、父の上役…アンテスルの領主様なんだけど、昔から私をとても可愛がってくださってて、母が亡くなったときもその人とウォレスだけが、私を慰めてくれたわ」
「良い人、なんですね」
「ええ、領主なのに全然気取ったところがなくて、優しくて公平な方。私が父に疎んじられていることも気に掛けてくださってるし、全部話したら、きっと私のことを保護してくださるわ」
その人物のことを語るときのシャロンは、父のことを語るときよりもよっぽど柔らかな表情をしていた。
「私には、その方だけが頼みの綱なの。だから、領主様のところになんとか辿り着いて、匿ってもらおうと思ったのだけど……」
「お父さんに雇われた刺客が、こんなところまで襲ってきたってわけですか」
そして、ここに刺客が現れたということは、フューバー伯爵にシャロンの行動はお見通しだということだ。
自分を警戒して街道を避けるということも、そしておそらく領主のところに駆け込むつもりだということも。
この分では、先に領主に自分の都合のいいことを吹き込んでいるかもしれない。
「けど、もうどのみち進むしか方法は残されてないわ。領主様はきっと私の言葉を信じて下さるはずだけど、父がどんな根回しをしているか分からない。でも、ここで諦めたって道はないものね」
シャロンは吹っ切ったような声を作っていたが、ほんの僅かに震えがあった。
心の中では、不安を否定しきれないのだ。もし領主が父の味方だったらどうしよう…と。
「あー、もう。ほんと、貴族の家になんか生まれるもんじゃないわね」
そう言ってシャロンは、自棄めいて笑った。
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谷底の道のりは、決して順風満帆とはいかなかった。
ただでさえ危険な渓谷、そのさらに奥まった谷底。道なき道に、次々と魔獣が現れる。
現れる…のはいいのだが。
出没した魔獣を退治するのは、当然ハルトの「お仕事」である。クウちゃんは、喜んでハルトの手伝いをする。ルガイアは相変わらず見守るばかりで手を出そうとしないし、黄金翼の聖獣に至ってはいるんだかいないんだか分からないくらいに沈黙を守っている。
そして当然、護衛対象であり戦う術を持たないシャロンは、物陰でひたすら隠れるしかない。
問題は、シャロンを守ろうという意気込みを持っているのはハルトだけだ、ということ。
クウちゃんは面白がってハルトの手伝いをするが、その目的はあくまでも「はるとにほめられたい」であり、シャロンのことはほぼ眼中にない。ルガイアは言わずもがな。
だいぶ戦いに慣れてきたハルトとは言え、一人では手が足りない。
例えば、自分がいるのとは反対方向から魔獣がシャロンを襲ったりなんかしたら、とても対処しきれない。
そう、例えばではなく、それは十分にありうる事象だ。
現に今も、ハルトがキラーエイプの群れと戦りあっている真っ最中に、その中の一匹が密かにシャロンに目をつけたようだった。
キラーエイプは、猿型の魔獣だけあってそれなりに高い知能を持っている。群れの大半がハルトとクウちゃんの注意を引き、その隙に一匹が森を大きく回り込んでシャロンの背後に出た。
ルガイアだけはその動きに気付いていたが、チラリとそちらを一瞥したきりだった。
シャロンもまた、ハルトの戦いに目を奪われていたので、足音を忍ばせじりじりと背後に迫る魔獣に気付くのが遅れた。
ハルトが気付いたときには、シャロンとキラーエイプとの距離は遠くからだとまるで並んでいるように見えるくらいに迫っていた。
「シャロン!!」
「え……あ…」
ハルトが叫ぶのと、シャロンが背後に気付いたのはほぼ同時。そして、キラーエイプがシャロンに飛び掛かろうとしたのもほぼ同時だった。
ハルトは、間に合わないと思った。自分のいる場所からでは、どんなに走っても自分の手よりキラーエイプの爪の方が先にシャロンに届くだろう。
シャロンは恐怖に身が竦んでいるようで、逃げることすら出来そうにない。
間に合わないとは覚悟の上で、ハルトは走った。クウちゃんもルガイアも、ハルト以外を助けるという点では頼ることが出来ない。
……だが。
魔獣は、何故かシャロンを凝視したまま動かなかった。
それはまるで、動けなかったように見えた。
一度は恐怖でうずくまったシャロンも、攻撃の手がないことに違和感を抱き恐る恐る顔を上げる。そして魔獣と目が合った瞬間、やはり怖くて堪らなかったのか小さく悲鳴を上げた。
魔獣もほぼ同時に、鳴き声を上げた。それは威嚇や驚きではなく、何故か恐怖に彩られている…ようにハルトには聞こえた。
そしてそう感じたのも気のせいではなかったようだ。
キラーエイプは顔を歪めてけたたましく叫ぶといきなり方向転換し、さも恐ろしい魔獣に襲われた人間のように、まさしく脱兎の如く、慌てふためいて逃げ出した。
群れをつくる魔獣は、チームワークを重視する。群れのうちどれか一匹が異常を感じれば、全員がそれを警戒し、危険を回避しようとする。
他のキラーエイプたちにとっても、逃げ出した一匹の反応はそれに相当するものだった。恐怖と悲鳴が群れの中を伝播し、ハルトたちを放置して全ての個体が最初の一匹の後に続いた。
「………えーー…?」
あっという間に、キラーエイプの群れは退散していった。
取り残されたハルトは、シャロンの方へ手を伸ばした格好のまま、固まっていた。




