第六話 苦労性ってのは性格というより性質みたいなものだからもうどうしようもないものである。
どうやら、杞憂だったか。
レオニール=アルバは、剣の柄に添えていた右手を離した。そして何事もなかったことに、安堵の息を僅かに漏らす。
彼の視線の先には、敬愛すべき主である王太子と、テーブルを挟んだ向かいに座る女剣士。女剣士が主に手を伸ばした瞬間は、彼の緊張もピークに達した。
どうやら攻撃意図はなかったようだが、そうでなければ即座にその女の首を撥ねるつもりだった。魔族である自分が、地上界で廉族を手に掛けることがあれば何かと面倒なことになるだろうとは分かっていたが、それよりも主の無事の方が遥かに優先される。
だが、双方にとって幸運なことに、女剣士はすぐに主から手を離した。狙いは分からないが、どうやら主に敵意や害意を抱いているわけではないらしい。
ひとまず安心はしたが、まだまだ油断は出来ない。レオニールは、気を引き締めて主の動向に、その一挙手一投足に、そして主の周囲の動きに最大限の注意を向けた。
魔界の王太子であるハルトが城を抜け出した、という情報は彼の耳にもすぐさま入った。魔王の代理であり王太子の後見でもある宰相が、主の不自然な動きに気がつかないはずもない。
レオニールは、宰相から命令を受けた。
王太子殿下を即座に、そして無事に連れ戻せ……と。
その命に従ってレオニールはハルトを追い、主が空間に開いた時空の歪みに飛び込んだことに大いに焦り、そして自分も同じように虚穴へと飛び込んだ。
自身の安全は二の次だった。彼には、その穴がどこに続くのか分からず、そもそも無事にどこかに出ることができるかどうかも定かではなく、もしものことがあれば我が身を盾にしてでも主を守るつもりだった。
そして運よく辿り着いた地上界で、彼はすぐに主を捕捉することが出来た。
連れ戻そうと思えば、それは簡単だった。
王太子とは言え、魔王の後継とは言え、今のハルトは魔界の中でも群を抜いて非力な部類に入る。怪我をさせないように注意する必要はあっても(万が一ハルトに傷の一つでもつけようものなら、レオニールの首が飛ぶ)、力づくで抑えつけることは容易い。
しかし、幼く非力な主が魔獣ヒポグリフの襲撃を受けた瞬間、彼は躊躇した。
無論、見殺しにするなどという選択肢はない。
しかし、彼は見てしまったのだ。
主が、震えながらも魔獣に立ち向かう姿を。
逃げ回る姿は実に無様ではあったが、それでも主は、自分を逃がそうとした黒猫(いつの間にペットなんて飼い始めたのだろうか?)を見棄てようとはしなかった。
せっかく逃げるチャンスだったというのに、あろうことかハルトは剣を抜き、構えてみせた。
それは、レオニールでなくても誰から見ても、素人の姿だった。
構えはぎこちなく、肩には要らない力が入っていて腰が引けていて、膝は笑っていた。普通、このような状態ではナマケウサギですら倒せそうにない。
レオニールは、少しだけ様子を見ることにした。
主に危険が及ぶことがあればすぐに自分が手を下すつもりだったが、あの日和見王子が生まれて初めて自分の中の恐怖に立ち向かう姿に、感銘を受けたのだ。
自分は、王太子のことを誤解していたのかもしれない。
怠惰で無欲で無気力で、ただ与えられるものだけで満足してしまう、腑抜けた王子なのだ、と。
しかし、だからこそ震えるハルトの姿は、レオニールの目には誇らしく、神々しくさえ映った。
レオニールは、音もなく剣を抜き放つ。
ハルトの攻撃は、十中八九躱されるか、運よく当たっても魔獣にかすり傷程度しか与えられないだろう。不格好な様を見ればその結果は容易に想像される。
だから、ハルトの攻撃の直後…或いは魔獣の攻撃の方が速ければその直前、自分が動くことにしたのだ。
幸い、地上界に生息する魔獣は揃いも揃って脆弱である。レオニールであれば、一瞬で絶命させることは朝飯前。
彼が注意すべきは、敵のレベルではなく主の無事だけだ。それだけを考えてハルトの動きを注視していたレオニールだったが、次の瞬間には我が目を疑った。
ハルトの踏み込みは、鮮烈だった。
魔界でも屈指の剣士であるレオニールですら、目で追うことが難しいくらい、鋭くて速い突撃。そして、その勢いのまま、不格好ながらも繰り出された突きもまた、激烈。
これは偶然だったのだろうが、ハルトの剣はヒポグリフの首の付け根…急所を深々と貫いていた。
レオニールは、一部始終を目撃して舌を巻く。
これが、魔王の後継という存在か。
技術はあまりにも稚拙、しかし肉体の基本的なスペックだけで、いくら地上界の魔獣と言えど、一撃で屠ってしまうとは。
で、あれば。
仮にハルトが、きちんとした教えを受けて武芸を習得すれば、どうなるのか。
そこに自分には想像しきれない可能性を見い出したレオニールは、本来ならば厳守すべき宰相の命令を、無視することを決心した。
自分の選択は、明確な命令違反である。上層部に知られればただでは済まない。ましてや、ハルトの身に万が一のことがあったりしたら…命の危機とかそういう大げさな話ではなく僅かな怪我であっても、その事態を招いた自分は極刑を免れない。
しかし、命令どおりにハルトを魔界に連れ帰れば、ハルトがここで見せた精一杯の勇気も努力も覚悟も、有耶無耶に消されてしまうことだろう。
そして主は再び、怠惰で無欲で無気力な毎日を繰り返すことになる。
それは、嫌だった。
レオニールは、主を誇りに思いたかった。心の底から敬愛する主を、心の底から崇拝したかった。
ハルトには、それに値する主であってほしかった。
諦めかけていた光が、思いもよらないところで彼の目の前に晒された。
これを逃せば、きっと彼の望みは永遠に叶うことはない。
「……お許しください、閣下。私は、今しばらくあの御方の未来に己が運命を賭けてみたいのです」
小声で、この場にいない宰相に謝罪し、レオニールは覚悟を決めた。
自分は、陰から主に付き従おう。王太子の主体性を尊重し、不必要に手は出さず、本当に危険が迫ったときにだけ干渉し、そして主の成長を見守る。
ハルトが何を思って地上界に来たのかは分からないが、そしていつまでいるのかも分からないが、きっとこの冒険は彼を大きく成長させるに違いない。
そして、魔界に戻る頃には自信と自覚を身に着けた立派な姿を見せてくれるのであれば、命令違反の罰は喜んで受けよう。
そのときの彼の心情としては、実のところはつかまり立ちを始めたばかりの赤子を見守る親のそれなのだが、ここにそんな野暮なことを言い出す無粋者はいなかった。
そして彼は今、物陰から主を見守っている。
その自立のためとは言え、もしハルトに対し不届きな真似をする輩が現れれば、即座に排除する気満々で、こっそりと様子を窺っている。
彼は騎士であり、気配を断つだとか察知するだとか、隠密向けの技術は拙かったりする。と言うか、そういったことに関しては無頓着だったりする。
したがって、
「ママー、あのお兄ちゃん、かくれんぼしてるの?」
「しっ、目を合わせちゃいけません!」
不審者丸出しで物陰から顔を覗かせる彼に道行く人々は怪訝な視線を向けるが、そんな視線にもまた無頓着なのであった。
「…しかし、あの女…一体どういうつもりだ?殿下に近付いて、何を企んでいる……?」
現在、彼のもっぱらの関心は、ハルトに声をかけた女剣士にある。まさか廉族ふぜいが、ハルトの正体に勘づくはずはないのだが、それならば何故見ず知らずのハルトに声をかけ、一緒にお茶をしているのだろう。
「そう言えば……性別に関わらず、己よりも年若い者を愛でるという性癖を持った者がいる、とエルネスト様が仰っていたことがあるが……そういうことなのか」
女剣士が、ハルトを害するでも利用するでもなさそうな様子に、一人合点してみたり。
そうこうしているうちに、女剣士はハルトから離れた。
「ふむ、用件は終わったということか………む?」
女剣士は、ちょうどレオニールがいるところに向かって歩いてきた。たまたま進行方向がそうだっただけなのだろうが、このままでは鉢合わせしてしまう。
一瞬、身を隠そうと思ったレオニールだったが、すぐに思い直した。
彼がハルトを見守っているということは、こちらから話さなければまずバレることはあるまい。ならば素知らぬ顔をしてただの通行人を装っても不自然さはない。
レオニールは、女剣士が自分のすぐ脇を通り過ぎるのを、何食わぬ顔で見過ごした。無論、すれ違いざまにこっそりと観察することも忘れない。
…身のこなしと装備からして、戦いを生業としていることは間違いない。が、所詮は廉族、警戒するほどの力量の持ち主ではなさそうだな。
遠ざかっていく女剣士の背中を見ながらそう判断したレオニールだったが、当の女剣士もまた自分のことを値踏みしていたということには、気付かないままだった。




