第四十一話 触らぬ神に祟りなし。
夜に、静寂が戻った。
誰一人声を発することはなく、虫の声と風に揺れる木々のざわめき、遠くの獣の鳴き声が、微かにハーモニーを奏でるばかり。
正体不明の力でげに恐ろしき魔獣を消し去ってしまったハルト…の姿をした何者か…は、少しの間、何かを思案するように佇んでいた。
マグノリアもアデリーンも子爵もレオニールも、そんな彼にどう声をかければいいのか分からず、息を呑んでただ待つしか出来なかった。
心の中に、払っても払っても恐怖が忍び寄ってくる。
それが目の前で繰り広げられた凄惨な光景に対してのものか、目の前に佇む少年に対してのものなのか、彼女らには判別出来ない。
ただレオニールだけは他の三人とは明らかに異なる感情で身を震わせていた。
とてつもなく尊い何かに接した…例えるなら神の顕現を目の当たりにした信徒のような、敬虔な歓喜。
だからこそ、彼には自分から言葉を発することは許されない。
マグノリアは、自分は夢を見ているのだろうか、とぼんやり思った。
こんなの、現実にはありえない。
先日のオロチ遭遇戦においても、確かにハルトは謎の能力で地上界最強の魔獣を一瞬で切り刻んでしまった。
そのときは、何かとんでもない天恵を彼が有しているのだと考えたのだが、今目の前で起こった事象は、それどころの話ではない。
自分の知っている常識では測れない何かが起こったとしか、思えなかった。
アデリーンは、ますますハルトへの興味と疑いを強めていた。
魔導耐性、と一言で表現してしまうには奇妙な性質。静電気に毛が生えた程度の電流を天堕の雷に変えてしまった魔力。術式発動直前にハルトと繋がった、想像を絶する何か。
その全てを暴きたいという欲求と、それに触れるのは危険だという本能が、彼女の中でせめぎ合っていた。
彼が、少しよろめいた。
何かに気付いて溜息をつき、そして背後に声をかけた。
「……エルネスト」
「んなにゃーお」
何故かネコが返事をした。
「悪い、ちょっとまだ早かったみたいだ。後のことは…頼んだ…ぞ……」
そう言うと、そのままぽてり、と倒れ伏す。
ネコはその傍らに寄り添うと、愛おしげに眠る彼の頬に顔を摺り寄せた。
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翌日。時刻は午後三時。
マグノリアはアデリーンを連れて、子爵邸を訪れていた。
全てが終わり(果たして終わったと言えるのか?)、怪我と肉体的精神的疲労とで泥のように眠り続け、目が覚めたのが昼過ぎだったのだ。
そしてハルトは、レーヴェ市の宿でまだ眠っている。
彼の身体に傷は見当たらず、呼吸も心拍も正常。念のため医者にも見せたが、何一つ問題ない健康体だと太鼓判を押された。
「あー……それで、昨夜の…まぁ、最後のアレはひとまず置いておくとして」
マグノリアが最初にそう口火を切ったのは、それについては考えても話し合っても多分無駄だ、と察しているから。あまりに荒唐無稽すぎて、何をどう考えていいかすらも分からない。
だから、まずは地に足の着いた話から。そしてそれも、決して軽視していいものではない。
「アンタは、最初から知ってたのか?その…村長たちの企みってのを」
問われた子爵は、どこから話せばいいのか考えているようだった。執事の持ってきたお茶を一口飲み、軽く溜息をついて、決心したようにマグノリアとアデリーンを真っ直ぐ見据えた。
「僕の祖父は、民俗学を研究していた学者でね」
「ああ、それは聞いた」
彼の祖父はこの近隣のことを研究していて、そのこともあってボルテス家がレーヴェの領主に封ぜられた、という話は最初に聞いている。
「僕も至らないながらにその研究を引き継ぎたいと思って、父の跡を継いでから祖父の著書を読み漁ってみた」
子爵が掲げてみせたのは、マグノリアも図書館で読んだ、トーミオ村近辺の民俗風習・土着信仰について書かれた論文。
そしてそれ以外にも、数冊の文献が傍らに積まれていた。
「祖父は、今のトーミオ村がまだ村ではなく小さな集落だった頃、生贄を是とする土着信仰を守っていた、と記している」
それは、前時代には珍しいことではない。特に、ルーディア聖教の影響が届きにくい辺境の地にあっては、それとは全く別の土着の神が人々の生活に根差していた。
それも時代と共に薄れていき、また聖教会の苛烈な異端審問の影響もあり、今となっては名残程度の地元の風習として祭りなどの際にその痕跡が見られるくらいなのだが。
「恐ろしい魔獣に生活を脅かされていた当時の人々は、それを怖れると共に崇めるようになった。土地神として祀り、生贄を捧げることによりその赦しを得て安寧と繁栄をもたらしてもらおうと考えるようになった、と祖父は考えていた」
「まぁ……連中の様子を見てればさもありなん、だよな」
マグノリアは、狂信的な村長の眼差しを思い出した。
理性もない凶悪な魔獣を神として崇め奉ったからと言って、向こうにそんな道理が通じるハズないのに。
「恐ろしい外敵を神と見なす風習は、トーミオに限ったことではないのだけどね。ただ、不運なことにあの村ではその伝統が引き継がれてしまった。代々の村長と長老たちだけの間で、連綿と、五十年に一度の忌まわしい祭祀が生き続けてしまったのだよ」
「結局、土地神なんてのはいたのか?」
マグノリアの素朴な疑問に、子爵は首を振った。
「それは今となっては分からない。ただ、村人たちは恐ろしい魔獣を勝手に神だと思い込み、それを崇めることによって自分たちの力に変えようとした。実際には、そんなことをしたって魔獣の被害は抑えられなかったとは思うけれど、彼らからすれば、「生贄を捧げたから被害はこの程度で済んだ」という認識だったんじゃないかな」
「…バッカみたい」
言い捨てたのは、アデリーンだ。
「そんなの、少し考えれば分かりそうなものじゃない」
「現代の我々からすれば、そうなのだけどね。けど彼らはそうは考えなかった。非科学的な時代においては、誤解や思い込みから生まれた迷信というのはとても多いものだよ」
話が脱線してきた。それに気付き、子爵は再びお茶を飲んでから軌道修正。
「まぁそんなわけで、あの村の指導部は五十年に一度、若い娘たちを殺害し魔獣へ捧げていた。村の人々へは、その都度言い訳を考えていたんじゃないかな。それこそ領主に連れ去られたとか、事故があったとか。村長と長老会の権限が強いあの村では、なんとでも出来たと思う」
そのときマグノリアが思い出したのは、老婆の言葉。
「……呪い、か」
「そうだね、それが一番手っ取り早かったかもしれない。呪いによる村人の大量失踪。真相は闇の中。村人たちの中で、指導部の結論に異議を唱えて直接中央へ訴え出る者などいないだろう」
あの老婆は、五十年前の生き残りだったのか。
彼女に何があったのかは分からない。けれども何か理由があって、彼女だけが生き残った…取り残されてしまった。姉も従兄妹も親友も突然いなくなって、それを呪いの一言で片づけられてしまった、五十年前の少女の悲哀。
「その事実を知って、僕はもしかして今回も同じことが起こるのではないか、と部下に密かに探らせた。村長と会って、それとなく匂わせてもみた」
「…で、確信を得た……と」
「確信、というほどのものではなかった。けど、とても放置は出来なかった。村長に直接尋ねても肯定するはずもないからそれも出来ないし、村の中では領主である僕よりも彼らの方が強い影響力を持っているものだから、下手に動くことも出来ない。だから、少し強引な方法を取らせてもらったんだ」
そして彼は、生贄に適している若い娘たちを攫った。
それは彼女らを守るため。待遇が良かったのも当然のこと。
「とにかく夏至祭りをやり過ごして、僕の思い過ごしだったならそれはそれで良かったし、そうでなければ何とか村長たちを説得しようと思っていた。生贄を捧げなくてもそれらしい魔獣がいなければ、彼らも目を覚ましてくれるのではないか、とね」
あの魔獣については、完全に想定外だったけど。そう付け足した子爵の顔には、あの見慣れぬ魔獣に対する…その出現に対する懸念が浮かんでいた。
「巻き込まれた君たちには、本当に悪いと思っている。だけど、教皇庁と繋がりがあるらしいマグノリア嬢には、絶対に知られてはいけないと考えた。魔獣よりも、妄信的な村長たちよりも、異端審問が何より怖いからね」
そう言われて、複雑そうなマグノリア。
子爵は、タレイラへの呼び出しが彼女の仕業だと気付いている。だが、教皇と彼女との関係については、何か誤解があるようだ。
繋がりと言っても、決して良い意味のものではない。
「…と、まぁ、後は君たちも知ってのとおり…なんだけど」
説明を終え再びマグノリアを見つめた子爵の表情には、どこか悲壮なものがあった。
「君たちは、どうするつもりだい?」
「どう…とは?」
「この期に及んで、言い逃れをするつもりはない…と言うか、出来るとは思っていない。けど、仮に君たちが口をつぐんでくれるのであれば、これ以上は誰も傷つかずに済む」
子爵は保身のために言っているのではないのだと、マグノリアには分かった。
彼は、領民を守ろうとしている…特に、トーミオ村を。
一連の騒動が聖教会に知られてしまえば、異端審問は免れない。
だから、マグノリアとしても出来れば子爵の望みを叶えてやりたかった。
しかし、彼女にはそうすることが出来ない理由があった。
「…悪いが、流石にそれは出来ない。アンタをタレイラへ呼び出してもらった件もあるから、やっぱり何でもありませんでしたーってわけには、いかないんだよ」
「…………そう、か。無理を言ってすまない」
そう言った子爵の顔には、覚悟が浮かんでいた。もしかしたら、自分の命と引き換えに村の人々の助命を請うつもりなのかもしれない、とマグノリアは思った。
「まぁ、そんな悲観するな。確かに最近の異端審問はけっこう強引だけど、今の教皇本人は話の分からない人物じゃない」
「しかし、異端弾圧を推し進めているのは教皇聖下ご本人だろう?」
「んー…まぁ、そうなんだけど………なんか色々立場があるみたいっつーか……まぁなんだ、この件についてはアタシも他人事じゃないし、出来るだけの口利きはしてみるから」
マグノリアがそう言った途端、子爵の表情が輝いた。
彼はおそらく、マグノリアは教皇と関係が深くて無理が言える人間なのだと思っているのだろう。
そしてそれは、当たらずとも遠からず…なのだが、マグノリアとしては非常に複雑な心境だった。
出来ることなら、これ以上教皇に借りを作りたくない。
しかしそれは自分の個人的な感情であり、大勢の人の命が懸かっているのならばそれを拒むのは我儘というもの。
全てをなかったことには出来ないだろう。子爵の責任は間違いなく問われるし、トーミオ村の指導部も確実に処刑コースだ。
しかし、何も知らなかった村人たちくらいは、なんとか救えるかもしれない……ペナルティは免れないだろうが。
めでたしめでたし、と言うには後味の悪い結果になるだろうことは予想出来たが、マグノリアに出来ることなどたかが知れているので、敢えてそれ以上は何も言わなかった。




