第四十話 片鱗
炎が渦巻き、雷が絡みつく。
地獄を思わせる責め苦の中で、魔獣は苦悶の雄叫びを上げた。
あれほど強靭だった針金の体毛が、熱で溶けていく。身をよじって炎を消そうにも、炎と雷に翻弄されてそれすらもままならない。
「何度見ても、スゴイなこれは……」
「な、なんという魔導だ……」
マグノリアと子爵が、同時に感嘆の声を漏らした。
上位術式など、そうそうお目に掛かれるものではない。アデリーンとパーティーを組んだこともあるマグノリアでさえ、一度か二度目にしたくらいだ。
術式は、レベルが上がるほどに詠唱も長く複雑になっていく。
発動に時間がかかる分それが有効活用されることは少ないが、実際にその威力を目の当たりにしては有用性を再確認せざるを得ない。
低レベルな敵ならば活躍の場の少ない魔導士も、強敵と戦う際には寧ろ主力たりえる…前衛がいてこその話だが。
「ふふん、どう?私だって、その気になればこのくらい、朝飯前の楽勝よ」
「んなこと言って、バテバテじゃねーか」
「…うるっさいわねそういうことは言わないで!」
アデリーンは、肩で息をしていた。その表情も口調ほどには威勢がなく、精彩を欠いている。
上位術式に、体内の魔力をごっそりと持っていかれてしまったのだ。
やがて炎が消え、焼け爛れた魔獣の姿が露わになった。まだ息はありそうだが、ほとんど瀕死の状態。とどめを刺すのは、容易だった。
「……それじゃ、終わりにするか」
ドーピング剤の効果が消える前に全てを終わらせたいマグノリアが、一歩魔獣に近付いた。
そのとき、うずくまっていた魔獣が再び顔を上げる。
すわ、先ほどの風攻撃か!と身構えた三人だったが、今にも息絶えそうな魔獣にそれほどの力が残されているようには見えない。
しかも、先ほど風を放った鷲頭は、ぐったりと目を閉じている。
次に動いたのは、熊の頭だった。
るるぉおーん。
不思議な響きで、熊が鳴いた。
魔獣の全身が淡く輝き、焼け爛れた皮膚が見る間に癒えていく。火傷は消え、マグノリアと子爵によって付けられた裂傷も、塞がっていった。
「えええ!?」
「ちょ……回復能力?そんなんあり!?」
驚愕する三人の目の前で、魔獣は立ち上がった。
体毛は溶けたままで、完全回復には至らなかったらしい。鷲頭はいまだぐったりしているし、おそらく回復も回数制限があるのか、熊頭も今は目を閉じている。
残りは獅子頭だけなのだが………これまた鷲と熊に輪をかけて、凶悪そうな面構えをしていた。
「う…ウソでしょ……今までのは何だったのよ…」
「おいおいおいおい、これヤバいんじゃねーか?」
後ずさりする二人に、子爵が声を掛けた。
「いや、魔獣はまだダメージを引きずっている!先ほどと同じようにすれば、今度こそとどめを…」
「いや、無理」
「ゴメン、無理」
「………………………?」
即答した二人に、子爵は首を傾げる。
「悪い……そろそろ時間切れだわ」
マグノリアは、がっくりと膝をついた。強化剤の効果が消え、それまで抑え込んでいた痛みと痛みを抑え込んでいた反動が彼女を襲う。
「あのね…上位術式なんてそんな連発出来るはずないでしょ……」
アデリーンも力なくそう言うと、体重を預けていた魔導杖をとりあえず掲げた。掲げて、支えを失った身体がよろめいた。
「こりゃ、いよいよもって何とかの納め時ってやつか?」
「冗談じゃない、死に際まで取り立てられるなんて御免よ」
軽口こそ健在だが、気力も魔力も体力も底をついた。
まさか魔獣が超回復だなんて反則技を持っているとは思わず、非常に業腹だが負けを認めざるを得ない。
――――ゴメンな、ハルト。もう少し格好いいところを見せてやりたかったんだけどさ。
マグノリアは、馬鹿で可愛い弟子の方を見た。
「………は、あ!?」
口から出たのは、素っ頓狂な声だった。
「え………何、え、だってハルトお前、死んで……え、何?え?」
馬鹿みたいに狼狽えるマグノリアの目に映った馬鹿弟子は、ポカンとした顔で突っ立っていた。
心臓を刺され、息絶えていたはずのハルトが、である。
状況を理解出来ていないのか、ハルトは辺りをキョロキョロと見回した。理解出来ないのはマグノリアも同じなのだが、混乱が制御範囲を超えてしまってどうすればいいのか分からない。
ふと、ハルトと目が合った。蒼銀の瞳が、彼女を射竦める。
「……ハルト………?」
いや、違う。
マグノリアは、直感した。
あれは、違う。
あれはハルトではない。何か、違うモノ。
ハルトではない……得体の知れないモノ。
あれに触れてはいけない。
あれに近付いてはいけない。
あれに関わってはいけない。
頭の中で、本能がガンガンと警鐘を鳴らす。
オロチや目の前の魔獣と相対したときとは明らかに異なる、もっと切迫した警告。
いつの間にか、へたり込んでいた。疲れや痛みのせいではない。
魔獣が、残った獅子頭が、咆哮を上げた。
その視線の先には、ハルト。何故か魔獣は、散々自分を苦しめたマグノリアたちになど見向きもせず、ハルトを排除すべき敵と認識した。
その声が、その眼が、恐怖に震えているように見えたのは彼女の気のせいだったろうか。
魔獣から、雷が迸る。
明らかに、風攻撃を遥かに超える威力で、ハルトに襲い掛かった。
だが、雷は魔獣の願いを果たすことなく、ハルトの目の前で霧散した。
弾かれたのでもなく、防がれたのでもなく、文字どおり消滅した。
自分を攻撃した魔獣を見て、ハルトは微笑んだ。
自分に向けられたものではないと分かっていながら、マグノリアは恐怖した。
これほど美しく、そして恐ろしい笑みがあるだろうか。
震えるマグノリアなど気にも留めず、ハルトは…ハルトの姿をしたそれは、右手を魔獣に向かって掲げた。
「‘顕現せよ、其は裂き喰らうもの也’」
詩歌のような言の葉に誘われ、魔獣の足元の影が突然変貌した。
それは、巨大で凶悪で醜悪な牙が並んだ顎。
変わり果てた自分の影に喰いつかれ、魔獣の残った獅子頭が叫び声を上げた。
それから逃れようと自分の周囲に雷撃を這わせるが、顎は止まることなく咀嚼を続ける。
肉と骨が噛み砕かれる惨たらしい音と光景に、マグノリアもアデリーンも子爵も、そしてレオニールも言葉を失っていた。
幾度目かの咆哮は無駄な足搔きに終わり、断末魔の声に変わった。
魔獣を肉片一つ残さず平らげた顎は、その消滅と共に消えた。
四人は、茫然とするしかなかった。
ネコは、嬉しそうに尻尾を揺らめかせていた。




