第四話 騙される方が悪いんだ、というのは騙した方の言い訳だが一概に間違いとも言えないときもある。
「うう………」
トボトボと歩きながら、ハルトは力無く呻いた。
森は抜けた。ここは、森を迂回するように伸びる街道である。
人里離れているため、決して安全とは言えない。しかし、森の中と比べれば格段に魔獣の数は少なく、また人通りも多少はあるため、ハルトは気を緩めまくっていた。
そして、気が緩んでしまったのがいけないのかもしれない。
「……おなか、すいた………」
口に出した瞬間、腹の虫が盛大に鳴き始めた。
ハルトは、食料の類をまるで持ち出していなかった。
世間知らずの彼は、それが旅においておそらく最も重要なものだということを、知らなかったのだ。
彼にとって食事とは、何も言わなくてもいつの間にか用意されているものである。自分で食料を入手したり食事の準備をしたり…など、到底考え付くはずもない。
しかし、世間知らずだろうがボンボンだろうが、腹は減る。腹が減れば、食べなければならない。その摂理からは逃れることが出来ず、しかし空腹を解消する術も持たず、彼はフラフラと歩き続けるしかなかった。
街道沿いに小川が流れているため、飲み水に困らないことだけは幸いだった。
空腹を誤魔化すために水を口にしてみるのだが、それも焼け石に水。
「にゃ、にゃーにゃ」
猫がハルトの肩から飛び降りて、川の水面をちょいちょいとつついた。
水は透き通っていて、底まではっきりと見える。
「…なに?中に何かあるの?」
覗き込むハルトと猫の目に、数匹の魚が泳いでいるのが映る。
「にゃにゃにゃ、なーお」
「うん、綺麗だね。何の生き物だろう?」
「…………んに、にー………」
駄目だこいつ、というような顔になった猫であるが、ハルトは分かっていない。
彼は泳ぐ魚を見るのが初めてであるし、それが食べられるものであるということも知らない。城で供される食事で皿の上に見事に飾り付けられた切り身が、もとは水の中を泳ぐ魚だということさえも、知らない。
「ああ、おなかすいた……」
再び、溜息と共に吐き出す言葉は虚しく響くだけで、彼に解決策をもたらしてはくれない。が、彼も乏しい知識の中で最善の道を選ぶ程度の賢さは持っていた。
「とりあえず、人の多いところに行こう。そうしたら、食べる物もあるかもしれない」
彼の知識の大半は書物から来るものであるが、その中に食物は売買によって得ることもできる、という記述があった。
無論、買い物などしたこともないハルトには半分くらいしか理解出来ない内容だったが、食べ物があるところに行けばなんとかなるだろうという楽観を働かせたのだ。
「にゃにゃーにゃ。んにゃ」
猫も、それには同意らしい。ハルトの足元に寄り添って、歩調を揃えて歩き出す。
一人と一匹にとって幸いだったのは、そこが街道だったということ。
街道というくらいなので、街に続いている。平原の道なので、迷うこともない。
数時間をかけて歩き続け、彼らはとある街に辿り着いた。
そこは、比較対象を知らないハルトには分からなかったが、規模で言えばそれなりに大きい、賑わいのある街だった。
「……すごい、人が沢山……あ、ごめんなさい」
呆けて立ち竦んでいると、すれ違う人と軽くぶつかってしまい、慌てて謝るハルト。おのぼりさん丸出しだ。
今まで城内だけで生きてきて、彼が目にするのは側近である武王たちや側役のエルネスト、近衛騎士のレオニールと、身の回りの世話をする侍女たちくらいだった。右も左も人、人、人…な光景に、気後れしてしまうのも無理はない。
それでも、突っ立っていても交通の邪魔なので、人の流れに合わせて彼も歩き出す。通りの両側には沢山の建物が立ち並び、様々な格好の人々が無秩序に歩きさざめいている。
それは、気後れすると同時に、彼に不思議な高揚を与える光景でもあった。
「……いい匂い」
空腹のハルトの鼻が、香ばしい匂いをキャッチした。
匂いの元は、串焼きの露店である。
食欲をそそる匂いに、彼の腹の虫はさらに騒ぎ始める。
が、流石のハルトも、店の物を勝手に奪ってはならないという知識は持っていた。
「ええと……確か、外の世界では、欲しい物があるときはお金っていうものと交換するんだよね?」
「にゃーお」
猫に問いかけ、返事を貰い、ハルトはそこでフリーズ。
「お金……持ってないや」
貨幣の概念と、経済の仕組みは知っている。一般教養として本で読んだことがあるからだ。
しかし、知っていても持っていないものは持っていない。貨幣の入手方法として一般的なのが労働だということも知っているが、労働というものがよく分かっていない。
「……どうしよう」
ハルトは、言いようもなく孤独を感じた。
城にいるときは、困ることなんてなかった。困る前に、何かを必要とする前に、それは彼の前に差し出されるのが常だった。
仮に困ることがあったとしても、臣下を呼べば即座にそれは解消された。
常に、誰かに守られていた。
だが、ここには彼を守ってくれる者も助けてくれる者も、いない。
彼を助けることが出来るのは、彼自身とちっぽけな仔猫だけ。
しかし、良くも悪くも純粋培養の彼は、変なところで思い切りが良かった。
分からなければ、誰かに聞けばいいのだ、という結論に達したのだ。
「あの、すみません」
だから彼は、見定めるということもせずに、近くにいた人物を適当に選び、話しかけた。
「あ?なんだ坊主?」
それは、旅慣れた風体の男だった。悪人にも善人にも見えない、世界で最も多く見られるタイプの人間だ。
「えっと、お金ってどうやったら手に入りますか?」
「………はぁ?」
純朴そうな少年が無邪気に訊ねるものだから、男は一瞬呆れかえって、それからなんとなく彼の事情を察したようだ。
すなわち、どっかの金持ちボンボンが家出でもしてきたのか?と想像した。
そしてそれは、あながち間違いでもない。
「おいおい坊主、悪いことは言わねーから、とっとと家に帰んな」
しかしカモにはせずにそう諭すその男は、どちらかと言えば善人寄りと思われる。
「………でも…………」
もしここで魔界へ戻れば、彼は二度と城から外へ出してもらえないだろう。
きっと側近たちが心配して大騒ぎして、四六時中見張りを付けるようになるに違いない。
だから、これが最初で最後のチャンスなのだ。
もうどうしても限界、というところまでは、彼は踏ん張らなければならない。
口ごもるハルトを見て、男はやれやれ、と溜息をついた。
「まあ、テメーくらいの年のガキなら、意味もなく反抗してみたくなるってのも分かるけどよ。親御さんを困らせるのもほどほどにな。……で、金が欲しいなら、稼ぐしかねえんだが……」
そう言ってから、世間知らずオーラを放ちまくるハルトを見て、そりゃ無理な話か…と呟く。
「あと、手っ取り早く金が欲しいんなら、持ち物を売るしかねーな。何か売れるような物は持ってるか?」
言われてハルトは、自分の身体を見回す。
売れるような物は……持っていない。と言うか、彼の持ち物は全て父親の形見であり、簡単には手放せない。
「……あ、そう言えば」
しかしハルトは思い出した。今の自分は、たった一つだけ父とは関係なく持っているものがある。
「これ……売れますか?」
取り出したのは、あの魔獣から抜き取った石である。宝石みたいに綺麗なので、少しは価値のあるものかもしれないと思ったのだ。
それを見た瞬間、男は目を丸くした。
「驚いた、魔晶石じゃねーか。坊主そんなもん、何処で手に入れたよ?そいつなら、魔導具屋に持って行けば結構な値で売れると思うぜ」
「本当ですか?ありがとうございます!」
どうやら飢えて野垂れ死にする危険からは逃れられそうである。
ハルトは喜び勇んで男に礼を言い、魔導具屋とやらの場所も教えてもらい、意気揚々とそこへ向かった。
その店は、裏通りに面していた。裏通りと言ってもそこまでさびれた感じはなく、どちらかと言うと住宅地のような雰囲気だ。
新しくも古くもなく綺麗でも汚くもない、特徴のない店構えだが、おかげで一見さんも抵抗なく入ることができる空気を醸し出している。
店に入るとすぐ目に入ってきたのは、棚に所狭しと並べられている魔導具たち。ハルトにはその用途は分からないが、初めて見る品々に見ているだけで時間が経ちそうだ。
実際、空腹が限界域に達してさえいなければ、時間を忘れて見入っていたことだろう。
店には、ハルトの他に客は一人だけ。若い女性の、身に纏う鎧と腰に吊った剣からして、戦いを生業とする人間のようだ。その女性客は店に入って来たハルトをチラ、と見るが、すぐに興味を失って再び自分の品定めに戻った。
見知らぬ相手に話しかけるという経験もその選択肢もないハルトは、とりあえず店の奥に座る店主らしき人間のところに行く。
正確には、店に入ったもののどうしたらいいのか分からずただボーっと立ち竦むハルトを見かねて、黒猫が彼を店のカウンターに誘導したのだが。
黒猫を追いかけてカウンター前に立ったハルトを、不愛想な店主はジロリ、と睨み付けた。
本来、魔導具屋というのは大抵、排他的なものである。顧客と言えば、地元の魔導学校やら遊撃士やら研究者やらなのだが、扱うモノがモノなだけに、そういった人々は行き慣れた店を選ぶ。
狭いコミュニティーの中に異物が紛れ込むとしたら、新参者か紛れ込んだ部外者か。
そして、ハルトの、その身から滲み出るボンボンオーラを感じ取った年配の店主は、少なくともそう思ったようだ。
そしてそして、それは事実である。
「………………」
「………………」
「………………」
「………………」
「…………用件は?」
無視を決め込もうとした店主だったが、無言で目の前に立ち続けしかも立ち去る気配もないハルトに根負けし、ぶっきらぼうに尋ねた。
「あ、えと、ここで、買い取ってもらえるって聞いたんですけど」
店主の、小便臭いガキは帰りなオーラにはまるで気付かず(もしくは気にせず)、ハルトは手荷物の中から例の魔晶石…ハルトはその呼び名さえさっき知ったばかりだ…を取り出した。
「………!小僧、それは………」
ハルトの手の中を一瞥した途端に、店主の目がギラリ、と光ったのに猫は気付いたのだが、何も知らない風を装ってカウンターの上で大きな欠伸をすると寝そべった。
「…見せてみろ」
店主に言われるままに、ハルトは店主にそれを手渡す。店主は拡大鏡を取り出して、何やら険しい顔でそれを矯めつ眇めつ。
「これ、売れますか?」
ハルトの質問には答えず、店主は木槌でそれをコンコンと叩いたり、照明にかざしてみたり。
しばらくの鑑定の後に、
「…この大きさと硬度なら………30万イェルクってところか」
「それじゃ、それでお願いします」
30万イェルクというのがどのくらいの価値なのか、貨幣という概念にあまり縁がないハルトには分からない。分からないが、どうやら買い取ってもらえそうだということに安心して、即座に頷いた。
疑いもせず即決したハルトに、店主は一瞬だけ沈黙した。その一瞬のうちに、彼の脳内をこ狡い損得勘定が駆け巡ったのに猫は気付いたのだが、やはり何も知らない風を装ってカウンターの上で大きく伸びをした。
「…いや、待て。よく見ると、不純物が混じってるな。透明度も、今一つだ。これじゃ、せいぜい半値の15万イェルクだな」
「えー……」
貨幣価値の分からないハルトではあるが、最初の提示額からいきなり50パーセントも値切られてしまい、流石に面白くなさそうな声を上げた。
「30万って言ったのに……」
割に合わない、と言うよりも値切られた事実の方が面白くなくて不満げにぼやくハルトを見て、店主は少しだけ態度を軟化させると、
「……まぁ、仕方ない。特別に、20万で買い取ってやるよ」
「ほんとですか?ありがとうございます!!」
半値に値切ってからいきなり5万も上乗せするなんておかしな話なのだが、ハルトはその不自然さにはまるで気付かない。
親切にも5万もおまけしてくれた、と純粋に嬉しそうだ。
「ん、ああ。それじゃ、商談成立、だな」
そんなハルトの純真オーラに一瞬だけ躊躇を見せた店主だったが、思い直してそのまま魔晶石を自分の懐に入れようとした……ところで。
「なぁ、オヤジ。それはないんじゃないか?」
突然、剣士風の女性客が割り込んできて、店主の腕を掴んで止めた。
「アンタには色々世話になってるけどよ、こんな世間知らずのガキを騙してぼろ儲けってのは、ちょっと見過ごせないね」
女剣士と店主は顔馴染みのようだ。しかし親しみよりも威圧が強い彼女の眼光に、店主は狼狽える。
「な、何を言い出すんだ、マグノリア。儂は別に…」
「あのな、アタシだって長いこと遊撃士をやってんだ。専門性はなくったって、そいつの価値がどんなものかくらい、想像はつくぜ?」
カウンターの上で、魔晶石を離そうとしない店主と、彼の腕を離そうとしない女剣士の地味な攻防が繰り広げられる。
目の前の光景に、猫はその目に好奇の色を宿らせて様子を見ることにした。
「いや、これは……」
「こんだけのサイズと色だったら、それだけでも50…いや、60万は下らないよな?硬度や純度次第じゃ、80を超えたっておかしくない」
「……………………」
自分を置いてけぼりにして何やら言い争う両者を、ハルトはただ見ていた。どうでもいいからお腹すいたし早くしてくれないかな…と思いつつ。
それでも、女剣士の口から80という数が出て来たときには、少しばかり驚いた。
やっぱり貨幣価値は分からないままだが、それが20の四倍だということくらいは分かる。
自分の持ち物が予想以上に高値で売れそうだということよりも、生まれて初めて自分の力で手に入れた品にそれほどの価値を見い出してもらえたことが、ハルトには嬉しくてならなかった。
「……あーっ、もう!分かった、分かったよ。儂が悪かった。そこの坊主があんまりにもモノを知らなさ過ぎるもんで、少し世の中の厳しさってのを教えてやろうと思っただけじゃないか」
「で、授業料が差額ってわけか?そいつは随分と優秀な教師さまなんだな」
「分かったって言ってるだろう、こいつはちゃんと相場で買い取らせてもらうよ」
女剣士に根負けした店主は、その降伏宣言を聞いて女剣士がようやく手を離してくれたので、そのまま魔晶石を持って店の奥へ消える。
「…………?」
「ああ、心配すんな。奥でもっときちんと鑑定して、あれに見合った値段をつけてくれるってよ」
店主の行動の意味が分からなくて女剣士を見上げたハルトに(なお、彼女の背丈はハルトより頭一つ分は高い)、彼女は野性味のある、しかし人好きのする笑みを返してくれた。
「……待たせたな」
しばらく経った後、店主がカウンターへ戻って来た。その表情は、喜んでいるような困っているような落ち着かないような戸惑っているような、その全てが混じり合ったような複雑なものだった。
「おう、どうよオヤジ。やっぱり結構なシロモノだろ?」
「…………………」
女剣士の問いに、店主は彼女を面白くなさそうな顔で見るが無言だった。
「……おい、無視すんなって。で、どれだけの…」
「100万だ」
「……………………」
ぶっきらぼうに言い放つ店主の言葉に、動きを止める女剣士。
ハルトは、よく分からないままだがさらに値段がUPしたのでもっと嬉しくなった。
「……て、は?100…?マジで?」
「真っ当な商売をしろと言ったのはお前さんだろうが。儂の鑑定に間違いがないことはお前さんも知っておろう。こいつは、純度も硬度も濃度も最高レベルだ。宝飾品としても魔導具としても、これほどの品質のはそうそうお目に掛かれないだろうよ」
店主はそれから、ハルトに視線を移した。
「ところで坊主、お前さん、これを何処で手に入れた?」
「……?」
質問の意味が分からなかったわけではない。ただ、店主の問い詰めるような視線の理由がハルトには分からなかったのだ。
ハルトの沈黙の意味を取り違えた店主は、さらに険しい調子で、
「お前さんみたいな小僧が、こんなものを手に入れるのは容易なことじゃない。儂も品行方正な商人とは言えないが、真っ当な品でなければ真っ当な金額を払うことはできんぞ」
「これ、森の中で怖い化け物の中にあったんです」
言外に、ハルトが何処からか盗んできたのではないか、と仄めかした店主だが、それに気付くことなくハルトは素直に話す。
「前に逢った人が、化け物の中からこういう石を取り出してたことを思い出して、真似してみたんですけど」
「おい、その魔獣…化け物は、一体どうしたんだ?」
ハルトの説明に、女剣士が割り込んできた。何故だかすごい勢いで。
「え?どうしたって…そのままうっちゃってきましたけど…」
「そうじゃなくて、石を取り出す前!死体でも転がってたのか?」
女剣士の勘違いに、ハルトは頬を膨らませた。
「やだなぁ、お姉さん。ボクがやっつけたんです」
言いつつ、ちょっとだけ得意げなハルト。あれは、彼の生まれて初めての大冒険で、大活躍で、大成果だった……少しばかり情けない感じだったのはさておき。
「は……お前が?それ、いくらなんでも流石に嘘だろ。こんだけの魔晶石ってことは、レベル7…いや、8はあんだろーが。それを、お前みたいな小僧が、瞬殺したってのか?」
「え、なんで一撃だったって分かるんですか!?」
見てもいない化け物の強さが分かっていそうな女剣士だったが、ハルトが驚いたのは彼女が「瞬殺」という言葉を迷いもせずに使ったこと。
確かに、やけくそ気味の攻撃が偶然にも敵の急所を貫いていたおかげで、ハルトはそれを一撃で倒すことができた。と言うか、一撃で倒せていなければ今頃彼は化け物の胃の中…もしくは排泄物だったろう。
しかし、女剣士はその場にはいなかった。化け物の死骸を見てすらいない。それなのに、その体内にあった石だけで何故、ハルトが一撃で化け物を倒したと知ることができたのか。
「………そこから?…てか、そんなことも知らねーで、お前………」
「…………?」
キョトンとしたハルトに、女剣士は感心してるんだか呆れているんだか分からない様子で天井を仰いで溜息をついた。
「あーーー、ガキ。アタシはそんなヒマでもお人好しでもないけどな。流石にお前ほど物事を知らなさ過ぎる奴を放置するのは人として気が引ける。ちょっと時間寄越せ。常識ってのを教えてやるから」
首を振り振りそう言った女剣士は、ヒマかどうかは分からないが充分にお人好しに見えた。
カウンターの猫が、興味深そうに彼女を見て、なーお、と一言だけ鳴いた。
はい、サブヒロインの登場です。ヒロインにしてはちょっとゴツめなんですが。
ちなみにメインヒロインよりよっぽど出番多いです。




