第三十八話 今度こそ、ラスボス戦。
レオニール=アルバは、高位魔族である。
魔界の中でも屈指の実力者であり、若くして魔界の王太子の護衛騎士に任じられるその力量は、伊達ではない。
この場にいる誰一人、そのことを知らない。しかし、レオニールがこの場の生殺与奪を握っていると、本能で理解していた。
彼がその気になれば、一瞬でここにいる全員が息絶えることになる。
彼は、それだけの力を持っている規格外の存在なのだ…と。
そんな彼を阻む、小さな影。
片手に乗ってしまいそうなくらいの、ちっぽけな黒猫。
レオニールは、自分の前に立ち塞がるネコを侮蔑の視線で見下ろした。
彼にとっては、こんな小さな獣は障害にもならない。
「……どけ、小さきモノよ。貴様では話にならん」
それでも、問答無用で排除しようとしないのは、ハルトが常に傍らに置き可愛がっていた獣だから、だろうか。
それを傷つければ、ハルトもきっと傷付くと。だからこそ、生命体の中でも特に弱く小さな存在が自分を阻もうとする身の程知らずな行為も、見逃してやろうという気持ちになっているのか。
だが、寛容にも限度というものがある。
ハルトを失い、彼を殺めた村人と守れなかったマグノリアと、何より傍にいることさえしなかった自分への怒りのせいで、彼の沸点は非常に低くなっている。いつまでも、ネコの気まぐれに付き合うだけの精神的余裕はなかった。
それに、
「何故貴様があの虫ケラ共を庇う?あれはハルト様の御身を害した、大罪人。それを庇うならば、貴様も同罪と…」
「んにゃ、にゃにゃーにあ!にゃ!」
「………………」
レオニールには、猫語は分からない。そもそも、獣が確立された言語理論に基づいて自分の意志を音声記号として表出するという現象も、ありえないと思っている。
だが、まるで目の前のネコは人が言葉を話すように鳴いている…ような気がした。
気がしたが、理解出来なければ言葉も鳴き声もただの「音」に過ぎない。
「…まぁいい。貴様になど構ってはいられない」
だからレオニールは、ネコを無視することにした。
立ち塞がる、と言っても小さな獣。壁になどなりようがない。ネコの後ろでひたすら怯えたように震える矮小な存在に裁きを与えんと、レオニールは魔力を練り上げ、術式を構築する。
彼が選んだのは、炎熱系特位術式【炎華鳳皇】。廉族には行使不可能な高レベルの術式であり、下手をすると彼が魔族であると知られてしまう恐れもあったのだが、もうどうでもいいことだった。煮えたぎる頭ではそこまで考えが及ばなかった、ということもある。
特位術式で燃やし尽くしてしまうと、彼が先に言った「死が恋しく思えるほどの苦痛」を与えることなど出来ない。一瞬で灰になって終わりであり、苦しむ間さえないだろう。
けれども怒りで盲目になっているためか彼の性格ゆえか、じわじわと苦しめて悔恨と許しを請う叫びをBGMに拷問じみた処刑をするような術式選択は、彼の中にはなかった。
「消え失せろ。【炎華鳳………」
「にに゛ゃっ!」
「な……何をする獣ふぜいが!!」
今まさに術式を発動させようとしたレオニールに、ネコが飛びついた。小さな爪で纏わりつき、彼の集中を削ぐ。
反射的にネコを払い除けようとするレオニールだが、ネコはその腕を巧みに躱して翻弄し続ける。
傍から見ると、それはどこか滑稽で牧歌的にすら見える光景だった。だが、マグノリアも子爵も、そして怯える村長たちも娘たちも、それどころではないと分かっている。分かっているので、ハラハラしながらそれを見届けることしか出来ない。
「ええい、小癪な!ふざけるのもいい加減にしてもらおうか!!」
レオニールが切れた。小さな猫一匹に本気になって、剣を抜き放つ。魔導が邪魔されてしまうのなら、切り捨ててしまおうというわけだ。
「にゃ……んにゃー?」
「……………貴様……」
ネコが、嘲笑った…かのように見えた。
レオニールはもう一切の容赦はしないことを決め、目障りな獣を排除しようと構える。
小さな猫一匹に大人げないレオニールの行動はしかし、そこで止まった。
どこからか、空気を震わす低い唸り声が聞こえてきたのだ。
「………魔獣、か?」
それを聞いてレオニールは呟く。そこには、それほどの関心はない。彼にとって重要なのは、主を殺めた大罪人と自分の邪魔をするネコを裁くことであり、地上界に出没する低レベルの魔獣など放置しても差し支えない些末事。
しかし、村長たちは違った。
それまでの、処刑を待つ怯え切った罪人の表情は消え去り、代わりに浮かんだのは歓喜と安堵。
まるで、待ち望んだ瞬間がやって来た…と言わんばかりの。
「おお、この声は………」
「やはり、お目覚めになったのだ、我らのヌシ様が……」
「さぁ、儀式を始めましょうぞ。ヌシ様はきっと待ちくたびれていらっしゃるに違いない」
ざわめく村長と長老たち。
一方でマグノリアと子爵は、警戒を最大限に引き上げて周囲を見回した。
声の感じからすると、この近隣でよく見られる魔獣ではなさそうだ。さらに、最近の異常…本来は生息していないはずの高レベル魔獣の出没…を思うと、二人が何を怖れているかは明白だ。
「……上だ!」
気付いたマグノリアが、岸壁の上を指差した。かなりの高さがある断崖の上から、巨大な影がこちらを見下ろしている。
「あれは……?」
「……デカいな」
マグノリアと子爵がその正体を言い当てる前に、魔獣は断崖から飛び降りた。
高さにして、二十メートルはあろうか。
そこから一気に降りた巨大な魔獣の重量に、地面が轟いた。
それは、一言で表すならば、異形。
頭は三つ、獅子と鷲と熊。脚は四本で、前足が四足獣、後ろ脚が猛禽。背中から生える翼も四つ…ただしそのうちの二枚は異様に小さくて翼の役割を果たしていないように見える。尾は鱗が生えた蛇。グリフォンの倍以上はあるかと思われる巨体。
人から見れば魔獣なんて皆異形のようなものだが、それは度を越えていた。
長く遊撃士をしているマグノリアでさえも、こんな魔獣は見たことも聞いたこともない。
「な……なんだ、これ……」
「なんて異様な……」
絶句してそれを見上げるマグノリアと子爵を尻目に、嬌声を上げたのは村長たち。
「おお、これがヌシ様……なんと雄々しいお姿か……!」
「ヌシ様、我らの声にお応え下さりありがとうございます」
「さぁ、ヌシ様のために生贄をたんと用意いたしました!どうぞお納めください!そして今後も我らをお守りくださいますよう」
感激に声を震わせる村長たちに向けて、子爵が叫んだ。
「何を馬鹿なことを!ヌシなんて最初から存在しない、それは只の危険な魔獣だ!」
しかし、長老たちは子爵をまるで相手にしない。
「ほっほっほ。馬鹿なことを言っているのはそちらではありませんかな?現に、ヌシ様はこうして顕現なされた。偉大なるヌシ様は、その強大なお力でもって、我らに繁栄を…」
村長は、「偉大なヌシ様」について全てを語り終えることが出来なかった。
と言うのも、魔獣が村長の頭を咥えたからである。
そう、それは、軽く咥えただけのように見えた。襲い掛かったわけでもなく、力いっぱい噛みついたわけでもなく。
しかし、軽く咥えられただけで、村長の頭は魔獣の口内で破裂した。
頭を失った村長の体は力無くぶら下がり、魔獣はそれも一気に頬張ると、ばりぼりと軽快な音を立てて噛み砕き、呑み込んだ。
「…え………村長?」
「そ……そんな………」
瞬く間に村長を食われた長老たちは、茫然と魔獣を見上げ、呆けた声を漏らした。
魔獣は、まだまだ食べ足りないようで、そんな長老たちを食欲旺盛な目で見下ろした。
「お、お待ちくださいヌシ様!我らは違います、生贄はそこに、若い娘たちをご用意…」
長老の一人が、慌てて少女らを指差した。
しかし魔獣には、年齢や性別などどうでもいいのだろう。腹が満たせれば、何でもいい。
…ということで、手近なその男に無造作に腕を振り上げた。
ばきゃ。
爪を使うまでもなく、膂力だけで男は押し潰され肉塊に変わった。
「ひ…ひぃっ……」
「お、お助けを……」
「ヌシ様、何故ですか、何故儂らを……」
自分たちを食料としか認識していない魔獣に、必死で呼びかける長老たち。この期に及んで、彼らはそれに理性があると思っている。それを崇める自分たちは特別扱いしてもらえると、思っている。
だが、そんな彼らの希望…か願望かは分からないが勝手な思い込みなど意に介さず、魔獣は次の獲物へと目を向けた。
「……どうするつもりだ、子爵?」
魔獣の方へ足を向けた子爵に、マグノリアは尋ねた。いや、尋ねるまでもない。彼を見れば、村人たちを救うために魔獣に立ち向かおうとしていることは確かだった。
それは分かっていながら、マグノリアは子爵に賛同することが出来なかった。ハルトを殺した連中を助けるために、あんな訳の分からない化け物と戦うなんて真似はしたくなかった。
ふとレオニールを見たら、彼も同じことを考えているようだった。ネコに邪魔をされて激昂していた彼は、今は魔獣の餌になっている長老たちをただ見ているばかり。いい気味だ、と思っているのかもしれない。
しかし、子爵は違った。
「たとえ罪を犯したとは言え、彼らは僕の領民、そして僕は彼らの領主だ。ここで見殺しになど、出来るわけがない」
それは、領主としては理想的で模範的な回答。そして、それを実行出来る貴族の何と少ないことか。
その点では、ボルテス子爵という男は領主の鑑だと言えた。
「これ以上、貴女たちに迷惑はかけられない。僕が出来るだけ時間を稼ぐから、ここから逃げるといい。それでこれは勝手なお願いなのだけど……」
子爵は申し訳なさそうに一瞬言い淀んでから続ける。
「村人たちの避難と、レーヴェ市への報告を頼めないだろうか。大きな被害が出る前に、対策を取らなければならない」
「…………………」
そこまで言われて、はいそうですか、と従うわけにはいかなかった。それはトップレベルの遊撃士として、戦士として、そして人としての意地とか沽券とか、くだらない感情だ。
くだらない感情だからこそ、無視することは出来なかった。
マグノリアは、ハルトの頭を優しく撫でた。頬を汚す土を拭い、穏やかに眠っているかのような顔を見つめる。
ここで格好良く魔獣に立ち向かって見せれば、きっとこのバカ弟子は瞳を輝かせてこう言ってくれることだろう。
――――「スゴイです!カッコいいです師匠!!」……と。
魔獣が、自分に剣を向ける子爵に気付いた。
大人しく自分の餌になるつもりがなさそうな矮小な存在を見て、その双眸に闘争の炎が宿る。
腰を抜かして最期を待つ獲物たちよりも、これを排除する方が先決だ。そう判断し、子爵に向かって身構える。
獲物に飛び掛かる寸前の跳躍体勢を取った魔獣に、何かが放り投げられた。
それは空中で弾け、蜘蛛の巣のような粘性の糸が、魔獣に降り注いだ。糸は魔獣に絡みつき、その動きを封じる。
「……マグノリア嬢…」
振り返ってマグノリアを見る子爵は、とても意外そうな顔をしていた。
「ほら、動きを止めたんだからぼさっとしてんなよ、子爵サマ」
マグノリアは無理に笑顔を作ると、子爵の横に並んで剣を抜く。
レオニールの助太刀は期待出来ない…してはいけない。ここは、自分と子爵の二人でなんとかするしかないだろう(アデリーンは何をしているのだろうか?)。
マグノリアは、怯え切っている少女たちと長老たちに声を張り上げる。
「アンタらはさっさと逃げろ!村の連中を連れて、レーヴェ市にこのことを伝えて保護してもらえ!」
マグノリアの言葉に、少女らは村の方向へ走り出す。長老たちの幾人かは、完全に腰が抜けているようでそれすらもままならなかった。
「あの糸は、魔導具?」
「ああ、巨大魔獣の捕獲用のやつな。それなりに持つとは思うけど、あれっきりだからさっさとケリをつけよう」
こんなことなら、もっと捕獲用魔導具を…捕獲用のみならず他の魔導具も…準備しておくのだった、と後悔するマグノリアだが、今さらそれを言っても仕方ない。
手持ちの魔導具と子爵と自分の剣術だけで、この正体不明の魔獣を倒さなくては。
オロチのときのような、絶望に近い無力感はない。
それは目の前の魔獣のレベルというよりは、自分一人ではないからだろう。
銘々に剣を構える二人を前に、魔獣は一際大きく身体を震わせた。




