第三話 ボンボン殿下、さっそく世界の洗礼を受ける。
「ここが…宝物殿………」
初めて足を踏み入れた宝物殿に、ハルトは圧倒されていた。
自分の居城であるはずなのに、ハルトは城のことをほとんど知らない。知っているのは、自室と執務室と玉座の間と晩餐室だけ。
それ以外の場所へは行く必要も理由もなく、案内してくれる者もいなかった。
だから城内で迷子になる可能性も非常に大きかったのだが(なにしろ、魔王城は広大である)、何故か自室の机の上に簡単な城内見取り図(手書き)が置いてあったおかげで、迷うことなくここに辿り着くことが出来たのだ。
「えっと…向かって右側の、奥から三列目……」
はたしてそこには、一つにまとめられた旅道具が置いてあった。
父が地上界にしばしば出入りしていたことは、臣下からも聞かされている。だがその内容は、愚かで未熟な廉族を導いただとか天界の手から地上界を守っただとか、魔王が如何に素晴らしかったのかということに終始していて、聞かされるハルトには実感が湧かないものであった。
しかし、こうして実際に使われていたであろう道具たちを見て、ハルトは初めて本当の意味で父の存在を感じることが出来たような気がした。
大きめの背嚢に、ランタン、天幕、簡易コンロ。細々とした道具たち。旅装束。そして一振りの剣。
その多くがハルトには用途の分からないものばかりであったが、どれも使い込まれていて使用者の息吹が感じられる。
「父上が…これを使ってたんだ………」
感慨深げに呟くハルト。父はこれらの道具たちと共に、どのような冒険を繰り広げたのだろう。何をして、何を見て、何と出逢ったのだろう。
「……よし、行くか」
背嚢を背負い、自分を鼓舞するように声に出すと、彼は歩き出す。まだ見ぬ世界へ。広く厳しい世界へ。
その第一歩を踏み出して………
「……どうしよう」
早速、困った。
彼は、城門に夜通し番兵が立つことなんて知らなかった。
さらに、巡回の警備兵がいるなんてことも。
前回城を抜け出したときは、偶然に偶然が重なったのだ。彼自身強く抜け出そうと思っていなかったということもあり、言わば無欲の勝利のようなもので。
たまたまブラついたところが巡回兵の動きとずれていて、たまたま城壁が一部崩れているところに行き当たっただけで。
しかしハルトのお忍びがバレた時点で、城壁は即座に修復されてしまった。だから城門へと回ってみたわけだが、そこには兵がいる。
末端である番兵は、ハルトの顔を知らない。だが、城内から出てくれば当然見咎められるだろう。そのときに使えるような上手い言い訳を、彼は思いつくことが出来ない。
魔王城には、正門の他にも東門と西門がある。しかし、当然のことながらそちらにも番兵の姿が。
どうすることも出来ず、仕切り直すしかないか…と考えかけたハルトの耳に、
「なーお、んなーお」
動物の鳴き声らしきものが届いた。
「………猫?なんでこんなところに……」
声につられて向かった先で、暗闇に金色の瞳を光らせていたのは、夜の闇に溶け込みそうな小さな黒猫だった。
黒猫は、まるでハルトが来ることを予想していたかのように、待ち構えていたかのように、その姿を見止めた途端に歩き出した。
少し進んで、チラリと振り返る。ハルトが後をついて進むと、再び前進してからまたチラリ。
「……ついてこいってこと?」
誘うように導くように先を行く黒猫の後に続き、ハルトは歩く。
不思議なことに、猫は人気のないところを選んで…もしかしたら事前に把握していて…歩いているようだった。
絶妙な死角や、巡回の隙間、照明の届かない暗がり。猫に従って歩くうちに、ハルトは城の裏手に出ていた。
「にゃにゃ、にゃーにゃ」
猫が立ち止まった場所には、城壁が。特に変わったところはないように見えるが…
猫は鳴きながら、壁の一部分を引っ掻く。何かを、示したがっている。
「……ここ?」
そのあたりに触れてみると、僅かに周囲と手触りが違う。
ここには何かある、と感じて適当にペタペタやっていると、鈍い音がして壁の一部が僅かにズレた。
生じた隙間に手を突っ込んで力任せに押してみると、隠されていた出入り口がぽっかりと空いた。
「……こんなところに、隠し通路?」
場所的にも状況的にも、普段使われているものでないことは確かだ。城の裏側に近いので、緊急用の脱出通路の一部かもしれない。
どうして猫がそれを知っているのかという疑問はさておき、ハルトはこれ幸いと壁の外へと出る。前回抜け出した場所からは若干距離はあるが、方角は同じだ。
行きたいところは、分かっている。迷いは一瞬だった。決心を固めると、ハルトは振り返ることなく走り出す。
城の裏に広がる森の中を、脇目も振らずに走る。月明かりも木々に遮られ森の中は暗い。が、不思議なほど視界はクリアで、足元には何の不安もない。
そうして辿り着いたのは、小さな泉のほとりだった。そこには、朽ち果てた巨木の株が残っている。
「んなー」
いつの間にか後をついてきていた黒猫が、ハルトに問いかけるように一声鳴いた。
「うん。この樹の洞の中がね、繋がってたんだ」
言いながらハルトは洞を覗き込む。暗い中に、さらに黒々とした闇がわだかまっているのが見えた。
「……やっぱり」
ごくり、と喉を鳴らすハルト。
本来、天界・地上界・魔界という各時空界は自由に行き来することが出来ない。空間の断絶があるためだ。
それを行き来可能にするためには、隔たっているそれぞれの空間を繋いでやる必要がある。
その繋ぐ技術或いは繋がりそのものを、“門”と呼ぶ。
しかし“門”は、誰でも簡単に、好きなように開くことが出来るものではない。
開くためには大掛かりな儀式と膨大な魔力と超高難度の術式を必要としていて、さらに言うと魔界には“門”の技術は存在しない。
しかし、十五年前の第二次天地大戦…魔王と創世神の争い…において世界そのものに甚大な負荷がかかった結果、各地に空間の亀裂が残ってしまったのだ。
その亀裂の大半は、自然の修復機能によって時間が経つにつれ消えていったが、どういう仕組みか偶然にも絶妙なバランスで安定してしまった亀裂は、消えずにそのまま残ることになった。
無論、その亀裂が全て他時空界に繋がっているとは限らない。同時空界の別の場所に繋がっているかもしれないし…勿論安全な場所とは限らない。深海の底や地中、活火山のマグマの中だってありうるのだ…、或いは行き止まりかつ一方通行で、入ったが最後二度と抜け出せない蟻地獄の如きものさえあるだろう。
が、幸か不幸か、ハルトにはそんな知識はなかった。知識がないまま、城を抜け出した先で道に迷い、突然の雨を避けるためにたまたま目に付いた巨木の洞に入り込み、そこでこの亀裂を見付けてしまった。
見付けてしまい、そして中へ入ってしまった。
知識がないためではあるが、それだけでもない。虚空にぽっかりと空いた穴など、普通は気味悪がって近付かないものである。知識がなければなおさら、正体不明の穴には恐怖を抱くだろう。
結局、警戒心が足りなかったのだと言える。
しかし幸運にも、ハルトは地中に埋められることも空間の隙間に閉じ込められて一生を終えることもなかった。
その穴は地上界へと通じており、それを幸運とも不思議とも思わないまま地上界に降りた彼はそこで魔獣に襲われ、そしてあの少女に助けられた…というわけだ。
「んにゃ、にゃー?」
「これをくぐれば、地上界に行って、あの子に会えるんだよね」
「にゃ……にゃーにゃ?」
短絡的な発想で、ハルトは躊躇もなくその暗闇の中に飛び込んだ。
「にゃにゃにゃ!にゃーにゃ!」
慌てたように黒猫も、その後を追う。
視界が閉ざされていたのは一瞬で、次の瞬間には彼と一匹は別の場所へと跳んでいた。
同じような森の中だが、先ほどまであった泉も巨木もないことから、別の場所だと分かる。
「ここが、地上界だよ」
先輩風を吹かせて、ハルトが猫に教える。猫は興味があるのかないのか、軽く欠伸をするとハルトの肩に飛び乗った。
どうやら、彼と一緒に行くことにしたらしい。
「なんだよ、お前も地上界に興味があるの?」
頼りなくはあるが、同行者は心強い。ハルトは先日よりも強い足取りで進み始めた。
だが、無知で世間知らずの彼は気付いていなかった。
ここが、先日と同じ場所であるというのならば。
先日と同じような危険もまた、存在するということに。
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「うわーっ、うわわーっ」
ハルト、走る。
走れるだけ、前回よりも成長したと言えるのかもしれない。
しかし、腰を抜かしてへたり込むのも、無様に逃げ惑うのも、その後訪れる結果にそれほどの差があるわけではない。
特に、自分よりも相手の方が機動力に勝っている場合は。
地上界の森に降りたハルトは、またもや魔獣に遭遇してしまった。
そう言えば、メルセデスと名乗ったあの少女は「この辺りには危険な魔獣が生息している」と言っていたような。
そんな重要なことを今さらながら思い出し、しかし後悔する余裕もなくハルトは逃げる。
しかし前回の、カバを巨大にして角とか爪とかを付け足したようなのとは違い、今回は馬と獅子を足して二で割ったような魔獣。
とにかく、脚が速い。
森の木々が上手い具合に障害物になってくれているが、これが平原であったならば一瞬で捕らえられていただろう。
しかしその障害物も、僅かな時間稼ぎという役割くらいしか果たしてくれそうにない。
なにしろ、魔獣が走りにくいのと同様、ハルトだって走りにくいのだ。
小回りが利く、ということしか、彼の武器はない。
「どうしよう、どうしよう!」
「にゃー、にゃー」
肩の上で猫が鳴いている。恐怖に駆られて…というよりは、何かを伝えたがっているような。
しかしハルトには猫語は分からない。
「どこか、隠れられるような……うぶ!」
…木の根に躓いて、思いっきりコケた。
「う……いてててて」
幸い頭を打つことはなかったが、起き上がるまでの僅かな時間で、魔獣は目の前まで迫っていた。
「……ネコ、お前は小さいんだし、逃げるんだ。アイツの目を引かないように、そーっと」
自分に寄り添う猫にそう告げると、ハルトはゆっくりと立ち上がった。
この距離で背中を見せれば、間違いなくやられる。
で、あれば……
背嚢の上に、持ってきた剣も縛り付けてある。
だが…縛りを解いている猶予はなさそうだし、何よりハルトには剣の心得がまるでない。
剣どころか、戦うための技術も知識も経験も、皆無。
しかし、ただ黙って食べられるのを待つのは嫌だった。
「ボクだって…魔王の息子だっていうなら…………」
食らいついてきたら口の中に突っ込んでやろうと、手近に転がる棒きれを拾い上げた。震える手で、それを構える。
獲物が臨戦態勢に入ったことに気付いた魔獣が、鼻を鳴らした。まるで、ハルトを嘲笑うかのように。
そして、勢いをつけてハルトに飛び掛かろうとした、刹那。
「ふに、にー!」
猫が、勇ましく鳴いて魔獣の顔に飛びついた。
ハルトの肩に乗れてしまうような小さな身体で、魔獣の巨大な顔に爪を立てて鼻先に齧りつく。
「な、何してんだよお前!駄目だよ、逃げるんだ!」
ちっぽけな猫など、魔獣の遊びのような一撃で終わりだ。一口で食べられてしまうかもしれない。
魔獣は大きく頭を振って猫を振り落とそうとするが、猫はしぶとくしがみついて離れない。
小さな爪と牙では魔獣に何のダメージも負わせられないだろうと思われたのだが、しかしそれは有効な足止めで、ハルトが逃げるのに十分な時間を稼いでくれているようだった。
しかし、ハルトは動けなかった。
腰が抜けたのではない。小さな猫が頑張っているのに自分一人が腰を抜かしていられるほどには、腑抜けてはいない。
ただ、ここで猫を見殺しにして逃げたのでは、自分は一生魔王になんてなれないと思ったのだ。
立場を考えれば、ここで彼が身を捨てるのは愚かな行為である。
臣下たちの言うとおり、自分が本当に魔王の嫡子で唯一無二の存在であるならば、その生存は魔界にとって最も優先されるべき事項。
それでも、我が身可愛さに仲間を見棄てるような者が魔王に相応しいとは思えなかったし、こんなところで潰えるならばそんな魔王などいない方がいいだろう。
だから、彼は生まれて初めて、戦う覚悟を持った。
猫のおかげで出来た時間で、剣を取り出し鞘から抜き放つ。
構えなんて知らない。臣下たちが扱う姿を遠目で見たことがあるだけで、見様見真似で構えてみてもそれが正しいのかどうかさえ分からない。
だが、正誤なんてどうでもいい話だった。
不格好でもいい。無様でも惨めでも情けなくてもいい。今はただ、この剣を敵に突き刺すことだけを考えろ。
自分にそう言い聞かせ、彼は踏み出した。
「うああああああっ!」
自分を鼓舞するために、雄叫びを上げる。麻痺する喉を無理矢理に動かして、張り裂けんばかりに。
恐怖を含めた全ての感情を心の奥に仕舞い込んで、思考を放棄してただ突進する。
ハルトの剣は、魔獣の首の根元に、吸い込まれるように深く潜り込んだ。
「……………!」
返り血が、顔を濡らす。
魔獣が甲高く嘶いて、ひときわ激しく暴れた。
その勢いで剣が抜け、ハルトと共に放り飛ばされる。
「……ぐっ…」
受け身も取れずに(取り方など知らない)地面に激突し、呻くハルト。
魔獣の顔に齧りついていた猫が、すばやくハルトの元へと駆けてきた。
「にゃー、にゃにゃ」
心配そうに鳴く猫の頭を軽く撫でると、ハルトはなんとか起き上がった。
そして、血走った眼でこちらを睨み付ける魔獣を見据える。
「…大丈夫、いける……!」
ほとんど虚勢である。生まれて初めての戦いに、彼の頭の中は麻痺してしまっていて、この後どうすればいいのかも分からない。
怪我はたいしてなさそうだが、手足の動かし方さえ覚束ない。
それでも、自分には出来ると思わなければここでおしまいだ、ということだけは分かっていた。
剣を握りなおし、血濡れた手が滑ることに気付いて服の裾で血を拭い、再び剣を取って立ち上がる。
鼓動の音が、やけに耳に響く。息が上手く出来ない。頭の中を血が物凄いスピードで巡っているようで、その勢いに翻弄されそうになる。
そのまま無我夢中でいられればよかった。
しかし彼は、もう一歩踏み出して、自分の足元で枯れ葉が音を立てるのを聞いてしまった。
些細なことだ。そんな些細なことで、我に返ってしまった。
ただでさえ限界ギリギリだったところで、一気に興奮状態から引き戻されてしまった。
一瞬にして、彼は自分の状況を正しく把握する。
経験のない自分。恐ろしい魔獣。相手は手傷を負っていて怒り狂い、自分は極度の緊張のせいで疲労困憊。
こんなの……こんなの勝てるわけない。
絶望というよりも、納得に近かった。
なるべくしてこうなったのだ…という思いが、彼の心を占める。
無力な者が、身の程を知らずに行動すれば、こうなるのだ。
物語のような英雄譚は、現実にはそうありえない。
魔獣が一歩踏み出して、ハルトは後ずさることも忘れていた。
弱肉強食、という言葉を本で読んだことがある。それが自然の摂理であるならば、ここでいう強者は魔獣で、自分は弱者。
出自だとか資格だとか地位なんて、それに比べれば些末事。
だからせめて、目を瞑ることだけはしないでおこう。
最後の意地としてそう思い、彼は静かにその時を待った。
魔獣はさらに一歩踏み出して……突如、動きを止めた。
左右にゆらゆらと揺れ、口から大量の血を吐きだし……突然糸の切れた人形のように、倒れた。
その荒い息遣いも聞こえなくなって、森に静寂が戻って、ハルトは自分の呼吸音と鼓動だけをしばらく聞いていた。
しばらくそのまま呆けるように立ち竦み、やがて、その場にへなへなと崩れ落ちる。
「………え、何?あいつ、死んだの?ボク……助かった…のかな…」
ハルトの想像以上に、魔獣の傷は深かったようだ。しかし、目の前の魔獣がどの程度のレベルなのかも、どうすれば生物が死に至るのかも分かっていないハルトには、魔獣の死が俄かには信じられない。
それからしばらく様子を見続け、いくらなんでも死んでいるに違いない…と思うくらいの時間が経過してから、ようやくハルトはノロノロと立ち上がった。
「…早く、森を出なくちゃ……」
呟きながら、歩き出そうとするハルトを、猫が呼び止めた。
「にゃにゃ、なーお」
見ると、魔獣の傍で手招きしている。
「……何?死体なんてどうしようも………あ、そうか」
ハルトは、前回出逢ったあの少女がしていたことを思い出した。
「何か、意味のあることなのかな?」
少女の真似をして、魔獣の死骸に刃を立てる。
解剖学なんて知る由もないハルトであるからして、お目当てのものを見付けるのに時間がかかった。
こっちでもないあっちでもない、と適当に肉を切り進め、やがて硬い手応えを感じる。
「……これ、かな?」
その辺りに手を差し入れて、触れたものを引き摺り出す。
彼の手の中には、紫暗に煌めく拳大の石があった。
「…綺麗だ。これ、何なんだろう…?」
それは宝石のように煌めき、まるで内部に光を宿しているかのようにも見えた。そして、とても純粋で強い魔力がそこから感じられる。
ハルトがその石を取り出したことに、大した理由はない。ただ、例の少女がそうしていたので、魔獣を倒したらそうするものなのだと思っただけだ。
もしかしたらこの石が魔獣の力の源で、取り出さなければ何度でも甦ってしまうのかもしれない…と恐れを抱いたことも否定出来ない。
ハルトはその石を腰のポーチにしまい、再び立ち上がろうとしたところで、
「あ……あれ?」
そのままへたりこむ。
安堵した途端に、腰が抜けたのだ。
「あ…あはははは、力入んないや」
自虐的に笑うハルトの傍らに、猫がそっと身を寄せた。




