第二話 ボンボン殿下、広い世界へ一歩踏み出すことを決心する。
かつて、世界の全てを巻き込んだ大きな戦があった。
争ったのは、世界の理を構築し管理し支配した創世神と、その同格にして対極にある魔王。
天界と地上界は創世神に、魔界は魔王に付き従い、両陣営は死力を尽くして殺し合った。
一度は終結したかのように思われた争いも、長い空白期間を置いて再び勃発し、様々な思惑が絡み合う中、創世神・魔王双方の消滅という結果で終戦を迎えたのは、つい十五年前のことである。
互いに主と仰ぐ存在を失った天界と魔界は、地上界の仲裁もあり和睦を迎えた。
それぞれにわだかまりがなかったわけではないが、締結されたのは相互不可侵条約。
そうして訪れた平穏。
それは様々な火種を隠してもいたのだが、少なくとも十五年間は、目立った争いは起こっていない。
ハルトは、魔界の王太子である。
魔王亡き今、魔界の頂点に君臨する存在であり、いずれは魔王を名乗り魔族を率いていかねばならない彼は、同時に世界に唯一人の神属としての責務も持つ。
しかし現在、彼の心を占めるのはそんな崇高で壮大な使命でもなければ、崇高で壮大な使命を前にした不安でも覚悟でもなかった。
「それでね、ボクは思ったんだ。ボクが地上界へ行ったのは、きっと彼女に逢うためなんだ…ううん、世界がボクを彼女に逢わせるために、地上界へ誘ったんだ…って」
かれこれ、四時間である。
かれこれ四時間、ハルトは「ボクとメルセデスの出逢い~運命についての考察~」を力強くそしてダラダラと語っている。聞かされている相手は、ハルトの側役であるエルネストという青年。
穏やかな物腰のその側役は、特徴のない顔に正体不明の微笑みを貼り付けて、ハルトの一方的な演説を大人しく一言も挟むことなく、聞いていた。
ひとしきり話して満足したハルトは、すっかり冷めたお茶で喉を潤した。
地上界の森でメルセデスという少女に助けられてから、彼女のことを思い返さない日はない。そして、彼女のことを語らない日はない。
思い返せば思い返すほど、語れば語るほど、彼女への思いは募っていくばかり。
もう一度あの笑顔を見るためならば、どんな障害も乗り越えてみせる。いやいやできることなら、名前くらい呼んでほしい。いやいやいやいやさらにできることなら、ゆっくりと語り合いたい。
さらにさらにできることなら、腕を組んで一緒に歩きたい。
別れ際のメルセデスの笑顔を思い出す。
あんなに魅力的で純粋で、そして相手…この場合ハルトのこと…を深く思っている笑顔は他に見たこともない。
間違いなく、メルセデスも自分のことを好ましく思っている。
碌に話もできないまま別れてしまったので、ハルトが会いに行けばきっと喜んでくれるはず。
…それなのに。
「ねぇ、エル。レオったら、ボクが彼女に会いに行くのを止めようとするんだ」
頭が固くて口煩い近衛騎士のせいで、ハルトの望みは前途多難である。
「…左様ですか。彼の立場上、仕方ないことだと思いますよ」
ハルトのカップにお茶のおかわりを注ぎながら言うエルネストの口調は、ハルトを思いやっているようにも冷やかしているようにも聞こえた。
「ね、ね、エルはどう思う?どうすれば、彼女に会いに行けると思う?」
ハルトが尋ねているのは、自分の立場や責任を放棄して一目惚れした相手に会いに行くことの是非ではない。それは彼の中で、既に尋ねる必要もないことになっている。
「どう…と仰せられましても……ねぇ」
と、エルネストは嘯いた。
彼はレオニールとは違い、魔王に直接仕えていた重臣である。したがって、ハルトに対する思い入れも人一倍であるはずなのだが、他の臣下には見られない独特の距離感でハルトに接していた。
「どうすればよいか…など、殿下ご自身が一番よく分かっていらっしゃるのでは?」
そんな、どこか突き放したような物言いに、ハルトは長椅子にごろりと寝そべって天井を仰ぐ。
「でもさ、みんなダメだって言うし。……なんでだろう?」
なんでだろう、などという言葉が出てくるあたり、ハルトの自覚の無さが浮き彫りである。
「殿下は尊き御身ですからね、万が一の可能性を皆は怖れているのでしょう。……私自身は、殿下が外の世界に出られるのも悪いことではないと思いますが」
どこか本心を見せようとしない側役が自分の望みを応援してくれるのかどうか心配だったハルトは、意外な肯定意見に気を良くした。
「だよね、そうだよね!運命の相手に逢いに行くっていうのは…」
「外の世界に出て多くを学べば、少しは次期魔王に相応しい風格や自覚や見識や実力が身につくかもしれませんしね」
暗にハルトにはそれらが欠けていると示すエルネストだが、ハルトはその皮肉に気付いているのかいないのか、数少ない…もしかしたら唯一の、かもしれない…賛同者の出現に力づけられたようだ。
「うん、ボクもそう思う。彼女に逢えば、ボクはきっと新しい自分を見つけられるんじゃないかな!」
「…………左様で、ございますね…」
自分の話を聞いていないどころかまるで関係のない解釈をする主君に、エルネストは何を言っても無駄だと悟ったのか、彼の思い違いを正すことなくただ頷いた。
しかし、エルネストがハルトを見限ることはない。彼にとってこの幼い王太子は、自分が守って導いて支えてあげなければならない、愛すべき主君なのだ。
「……そう言えば、かつて陛下…御父君もよく地上界を訪れてらっしゃいましたよ」
「父上が!?」
父である魔王は、ハルトが生まれるより前に死んだ。だからハルトは、父のことを直接には知らない。
彼の知る父は、臣下たちから聞かされる話の中にしかいない。
強大な力を持ち、厳格でありながら慈悲深く、聡明で先見の明を持ち、圧倒的なカリスマで魔界を支配し導いた偉大な君主。
臣下たちは、異口同音にそうハルトに語る。だからハルトは、まるで御伽噺の主人公を見ているような気分で、父の姿を思い浮かべるしかなかった。
しかし、エルネストの口から今まで聞いたことのない父のエピソードが聞けそうだと、ハルトは寝転がっていたところから起き上がって居住まいを正した。
父王に興味津々な王太子の姿を微笑ましく思い、エルネストは続ける。
「はい。お忍びで地上界へ赴き、遊撃士という自由業に就いたり聖教会に潜入したり、勇者と呼ばれる者たちを陰ながら導いたり、なさっておいででした」
「…………父上が、そんなことしてたなんて…」
現実味のない英雄譚ばかり聞かされてきたハルトにとって、それは父親を身近に感じた初めての経験だった。
そして、父がお忍びで地上界に行ったことがあるなら、自分だって…と思っていることは、想像に難くなかった。
「そう言えば、その折に陛下が使ってらした装備品が、確か宝物殿の向かって右側、一番奥から数えて三列目の下から三段目に置きっぱなしになっていたような……」
明後日の方向を見ながら独り言のように、しかしそれにしてはやけに大きな声でエルネストは言った。
言ってから、ちらり、とハルトを見遣る。
「…………………」
ハルトは、無言だった。無言で、何かを考え込んでいた。
一人で何かを決意した様子のハルトを、エルネストは優しげに見つめていた。




