第十四話 RPGとかでうっかりレベルが低いまま次のフィールドに行っちゃったりするとめっちゃドキドキする。
魔獣オロチ。ギガサーペントやヒュドラなど蛇型魔獣の最上位個体である。
脅威レベルは10。討伐する際には少なくとも第二等級以上の遊撃士三十名のパーティーを組むことが推奨される、変異体を除けば地上界最強の種の一つだ。長く生きた個体には、竜族に匹敵する力を有するものもいるという。
通常攻撃として、その巨大な顎に並ぶ鋭い牙によるものと、太い尾を使った打撃、特殊攻撃としては猛毒と口から吐き出す炎がある。
さらに八つの頭と尾はそれぞれ連結していながらも独立していて、手数が多い。そのため、単発の攻撃ではグリフォンなどには劣るが厄介さは際立っている。
本来は、人間が足を踏み入れることのないような秘境の最奥地に生息していて、まず目撃されることのない魔獣であるのだが……
そんな最強の魔獣が今、人里近くの森でマグノリアと対峙していた。
「おいおい、マジかよ……これ、勇者案件じゃねーの…?」
茫然と呟きながらも、マグノリアはなんとか平静を保って剣を構える。
構えるのだが……勝ち目があるとは思えない。ただ、取り乱すことは事態を悪化しかさせないと理解しているだけだ。
今までこの近隣でオロチが目撃された例はない。ここに現れたのにも何か原因があるはずだし、リエルタ程度の都市にこんな化け物が出現したら、尋常ではない被害が出る。
しかし、今マグノリアが案ずるべきは、捻じ曲がった自然の法則だとか何者かの暗躍だとか軍や市警を中心とした夥しい数の死者だとか半壊した都市の復興計画だとかではない。
勝ち目がない相手だからと言って、諦める理由にはならない…したくない。
彼女は、なんとしてでも生き延びるための糸口を掴まなければならなかった。
オロチは、八つの首を蠢かせてマグノリアの様子を窺っている。彼女が剣を構えているので警戒しているのか、或いはどの口で食べようか迷っているのか、はたまた旨いか不味いか考えているのか。
しかし計16の赤眼はマグノリアを捉えており、彼女を自分の食事だと考えていることには違いなかった。
「…ったくとんだ貧乏クジだ。アタシだって、オロチの相手なんかしたことねーっつの」
自分の不運を呪いながら、マグノリアは剣に嵌めた魔導石を外し、別のものと取り換える。
炎を吐くオロチ相手に、炎熱系の攻撃は効率が悪かろう。彼女が新たに選んだのは、風属性の石だ。
「中位術式程度の石で、どうにか出来るとも思えないけどな……」
この際、目的は勝つことではない。なんとかオロチの虚をついて逃げ出す、或いは戦意を失わせることが出来れば上々だ。
それが出来なければ、彼女は死ぬしかない。
となれば、重視すべきは攻撃力ではない。どのみち自分の攻撃が通るとは思えないので、そこに力を注ぎ込んでも全くの無駄である。
だから彼女は、もう一つの魔導石をポーチから取り出し左手に握りしめた。
オロチが、マグノリアの品評を終えたようだ。八つの首をそれぞれもたげて、攻撃態勢を取る。
マグノリアは、先手必勝とばかりに先んじて動いた。
蛇型魔獣は総じて、見た目にそぐわず敏捷だ。しかしその巨体は小回りが利かず、流石に全速力の上位遊撃士よりは劣る。
マグノリアが地を蹴るのと同時に、八つの首のうち三つが彼女に迫った。それをかいくぐり、すれ違いざまに無防備な背中に剣を一閃させる。
中位術式相当の威力を持った風を纏う白刃が、幾つもの斬撃を生み出しオロチの身体に吸い込まれた。
しかし、予想はしていたが分厚い鱗に阻まれて、刃はその表面に浅い引っ掻き傷を残しただけだった。
おそらく、痛みはないだろう。しかし自分の攻撃を掻い潜って反撃してきた小さな存在に自尊心を傷つけられたのか、静観していた残りの五つも加わって八つ全ての首がマグノリアへ敵意を向けた。
この手の魔獣を相手にするセオリーとして、一つずつ確実に首を潰していく…ということが挙げられる。しかし、マグノリアは敢えて八つ全てを一度に引き付ける選択をした。
倒せないことは分かっている。倒すことは目的ではない。
彼女の目的は、時間稼ぎ。自分が逃げるのに必要なだけの時間、オロチを足止めすること。
全ての首が、その視線が自分を捉えたことを認識し、彼女は左手に握りしめた魔導石を、思い切り地面に叩きつけた。
瞬間、生まれたのは閃光。膨大な光量が、周囲を真っ白に染める。目を閉じていても瞼越しに感じられる、光の奔流。
オロチが、怒りか苦悶か雄叫びを上げた。突然の光に視力を奪われ、首を激しく振っている。
目眩ましが通用したことを確認すると、マグノリアは即座にその場を離脱することにした。
相手が視界を奪われている間にとどめを…などとは考えない。それはただの死亡フラグだ。オロチに対する有効な攻撃手段を持たない彼女がそんなことをしても、倒す前にオロチが視力を回復させることだろう。
だから、潔くここは撤退だ。オロチの魔晶石は非常に非常に名残惜しかったりするが、目眩ましが通用しただけでも幸運なのだ。ここは欲張らずに、作戦名「いのちだいじに」である。
とりあえず森を出て、リエルタの市警か駐屯軍に駆け込むしかない。街中の戦力を搔き集めれば、なんとかオロチにも対抗出来るだろう。
討伐が難しくても、中央から援軍が来るまでの時間稼ぎくらいなら、何とかなる。
そして駆け出したマグノリアだったが、次の瞬間何か固いものに叩きつけられたような衝撃を感じた。それが何なのか理解するより先に、彼女の身体は軽々と宙を舞い、地面に落ちた。
「あ……ぐっ……!」
一瞬息が止まり、意識が暗転しそうになる。霞む視界に、オロチが近付いてきているのが映った。
その眼のほとんどは白濁しているが、一対だけ、爛々と赤く輝いていることに彼女は気付く。
おそらく、たまたま一つの首だけ他の首の陰になっていたのだろう。光を免れていたのだ。
体を動かそうとしても、力が入らない。まるで自分の肉体ではないかのように、手足の感覚が失われている。
ただ、どこからかは分からない激痛だけが、彼女の意識を引き留めていた。
―――ああ、本当についてない。それもこれも、奇妙なガキに関わって余計な世話を焼いてしまったせいだ。だけどハルトは無事に逃げられるだろうか。オロチが自分を食べ終えるのなんて、数分もかからないはず。せめてその間に、少しでも遠くへ逃げていてくれれば……
ぼんやりとそんなことを考えるマグノリアに、オロチはどんどんと近付いてくる。獲物がもう動けなくなっていると分かっているのか、どこか余裕のあるゆったりとした動きで。
諦めるのは癪なので、マグノリアは最後まで足搔く手段を模索した。思うように動かない手を無理矢理動かし、何とかポーチの中へ突っ込む。そして手に触れた魔導石の安全弁を、全て解除した。
これで、僅かな衝撃でも魔導石は解放される。爆発やら氷雪やら雷撃やらを内包した石が体内で弾ければ、いくらオロチでも無事では済まないだろう。
「…食えるもんなら、食ってみやがれ。腹ぁ壊しても知らねーからな」
自分を犠牲にしてでもオロチを止めなくてはならない…というような正義感ではない。どちらかと言えば、大人しくやられてたまるか、少しくらいは痛い目見せてやる…という、死なばもろとも的な思いが、今の彼女の全てだった。
半分くらい感情は麻痺していて、恐怖や絶望は感じなかった。ただぼんやりと、自分が死んだらそれなりに騒がれるんだろうなーだとか、自分無しでハルトは遊撃士試験に合格できるのかだとか、そんなとりとめのないことを考えていた。
そんな彼女の耳に、勢いよく草を踏み分ける音が届いた。
オロチには足なんてないのに、どうして足音なんかがするんだろう。そんな疑問が浮かんで、すぐに解消した。
彼女の視界に、二本の脚が映った。彼女を庇うように、オロチに立ち塞がっている。
それが、いつの間にか戻ってきてしまっていたハルトのものだと気付くのに、そう時間はかからなかった。
「ば…かやろう…!何しに来やがった、逃げろっつったろ!」
半分くらい混濁していた意識が、瞬時に明瞭になる。だが、身体はやはり動かない。
こんな状態では、ハルトを逃がすことすら出来そうにない。
「で…でも、そしたら、師匠がやられちゃうじゃないですか…」
ハルトの声は、震えていた。その足も、手も、震えていた。顔をマグノリアに向けて彼女を見つめる眼差しも、震えていた。
一角兎程度に怖気づいていたハルトが、オロチを前にして平静でいられるわけがない。彼の様子を見ればそれは瞭然だ。
しかし、それならば何故、彼は戻って来たのか。
ハルトの選択は、実に非合理的だ。
彼がしなくてはならないのは、一刻も早くリエルタ市へ戻り高位魔獣の存在を知らせること。間違っても、勝ち目のない戦いのためにのこのこと戻ってくることではない。
このままでは、ハルトもマグノリアもオロチの胃袋に収められ、何も知らないリエルタの人々はまだまだ食べ足りないオロチのデザートとして食い荒らされる。いくらリエルタに国軍が駐屯しているとは言っても、前情報もなしに急襲されて対応できるほどの規模ではない。
だから、ハルトは間違っている。彼の選択は、マグノリアの行為を無駄にし減らせるはずだった犠牲者の数を徒に増やすだけの、非合理かつ無意味かつ罪深いものだ。
それなのに。
それなのに、マグノリアは心の何処かで安堵している自分に気付いた。
彼が自分を見棄てようとしなかったことが嬉しかった。彼が、強大な敵に震えながらも立ち向かう姿を見せてくれたことが嬉しかった。
そして何より、何の根拠もないのに、これでもう大丈夫だ…と思ってしまったのだ。
何故だろう。ハルトは確かに規格外の攻撃力を持っている。しかし、それは強さとは全く結び付いていない力だ。
標的を破壊しまくったからと言って、今のハルトの震える剣でオロチに傷を負わせられるはずがない。
分かっているのに、何故かマグノリアは、ハルトならきっと大丈夫だ…と感じたのだ。
期待したくなるような何かが、ハルトにはあった。普通であれば絶体絶命のこの状況も、彼ならば覆してくれるのではないか、奇蹟を起こしてくれるのではないか。
何故彼女がそう感じたのかは不明だ。ただ、ハルトを見ていたら、無性にそんな気がしてならなかったのだ。
「ネコ、お前は師匠についていて。あいつは、ボクが何とかするから」
ハルトが、驚くほど平静に黒猫に命じた。きっと彼は何か、マグノリアが知らない切り札のようなとんでもない力を、隠し持っているに違いない。
命じられたネコだって、心得たと言わんばかりにマグノリアの傍らに寄り添ったではないか。その瞳は、確信めいている。
ここでマグノリアの名誉のために付け加えるが、彼女は別に英雄譚のお姫様に憧れるような脳内お花畑の持ち主ではない。
しかし、最強と呼ばれる魔獣に喰われる寸前、自分を守るために敵に勇ましく立ち向かう者が現れれば、それが勇者のように見えても致し方あるまい。
だから、彼女を責めたり馬鹿にしたりすることは、誰にも出来ない……のだが。
「来い、化け物!ボクが相手だ!!」
守らなければならない存在に、アドレナリンが妙な過剰分泌でも起こしたのか。ハルトの声から恐怖が消えた。手足の震えも収まっている。
そして彼はそのまま、構えた剣と共にオロチへと突進した。
「たあぁああっ!」
……突進して、尻尾にべちんと弾かれて飛んでいった。
……………………。
「………………へ?」
「んなおーん」
おいこら待て今のは一体何だったんだ。格好つけて颯爽と現れて、一撃であっさり撃沈とはどういうことか。
ネコも、その「やっぱダメかー」的なニュアンスの鳴き声は何なんだ。
確かに、ハルトの踏み込みは鋭かった。しかし、敵の真正面から馬鹿正直に突っ込んでいって、完全に動きを読み切られていた。
流石に、そこまで単純な攻撃で倒せるオロチではなかった……というわけか。
……否、一角兎に苦戦する素人に期待するのが、愚かだっただけだ。
「…っておいハルト!?てめー、さんざ期待させといてなんつーザマだ!!」
現実を目の前に突きつけられて、ようやくマグノリアも叶わぬ夢から覚めた。変てこな妄想をしてしまった自分が恥ずかしい。
恥ずかしいのだが、絶体絶命の状況は何も変わっていない。
「……おい、ネコ。まさかとは思うが、お前が切り札だったりするわけじゃないよな?」
「んにゃお?」
「………だよな……」
いよいよ本当に、観念するときが来たようだ。一度夢を見させられたせいで悔しさもひとしおだが、これも弱肉強食の世の理というもの。
もうこうなったら、大人しく食われて大人しくオロチの中で自爆でもしてやろう。
マグノリアは何だか馬鹿らしくなって投げやり気味にそう考えた。オロチはマグノリアとハルトとどちらを先に食べようかと迷った後にマグノリアを先にしようと決め(ハルトよりも美味しそうだと思ってもらえたのなら少しは気も晴れる)、今度こそ食事にありつこうと鎌首をもたげた、そのとき。
マグノリアは、周囲の空気が変わったことに気付いた。
オロチも、同じタイミングで同じことに気付いた。
そして両者は、同時に同じ方向に視線を向ける。
ハルトが、立ち上がっていた。
オロチの攻撃をまともに食らったはずなのに、何事もなかったかのように立っている。見たところ、怪我もなさそうだ。
しかしマグノリアは、無事で良かった…と声をかけることが出来なかった。
そこにいるのは、ハルトだ。しかし、どうしてもそうとは思えなかった。
何て形容すればいいのか、彼女の中に適切な語彙がない。ただ、得体の知れない何かに遭遇してしまった、という本能的な恐怖が、彼女の全身を駆け巡った。
ハルトの蒼銀の瞳が自分に向けられたとき、彼女は自分が路傍の石ころにでもなったかのような錯覚を覚えた。
そしてそれは、オロチも同様だったようだ。
しかし理性を持たない魔獣は、恐怖に対する手段を一つしか持っていない。
則ちそれを排除しようと、オロチはマグノリアを捨て置いてハルトに襲い掛かった。
オロチの口から、炎の塊が吐き出される。それは躱そうともしないハルトに直撃し、彼の身体を焼き尽くす…はずだった。
しかし炎が消えた後には、わずかな焦げすらもなく佇むハルトの姿が。
炎攻撃が効かないと悟ったオロチは次に、鋭い牙をハルトに突き立てようとした。
その牙には、猛毒が仕込まれている。たとえ致命傷でなくても、獲物の神経を麻痺させ数分で命を奪う恐ろしい毒が。
八つの首が同時に襲い掛かる。躱すことも、防ぐことも不可能なほど凶悪な力を持った攻撃はしかし、ハルトには届いていなかった。
「…………え?」
「んななーお」
茫然と…否、愕然と見入るマグノリアに、ネコが得意げに鳴いた。
オロチの八つの首は、ハルトに届く寸前で動きを止めて…止められていた。
それらを止めているのは、ハルトの足元から伸びる影のような刃、或いは、刃のような影。
最高位魔獣の渾身の一撃×8を受け止めてビクともしないその黒刃は、次の瞬間にはオロチの頭を全て残らず切り飛ばしていた。
「……は?」
マグノリアの喉から、自分でも呆れるくらい間抜けな声が漏れた。
人間、信じられないようなトンデモ出来事に遭遇したときは、慌てることすら忘れてしまうものらしい。
脅威レベル10の、最高位魔獣。
勇者でもなければ単独撃破は不可能だと言われる、攻撃力防御力敏捷性全てにおいて最強の化け物。
その攻撃はグリフォンをも凌ぎ、その鱗はギガサーペントの革よりも強靭。
そんなオロチの攻撃は仔猫の肉球パンチが如く軽やかに受け止められ、そんなオロチの鱗は紙切れのように容易く切り裂かれ。
目の前の光景に唖然とするマグノリアは、世界って広いんだなー…と、現実逃避気味にそう思った。
魔王子チートがようやくチラ見えです。ほんとにちょっとだけですが。




