第一話 その王太子、無能。
投稿二作品目です。前作「世話焼き魔王の勇者育成日誌」の続編にあたりますが、前作をご存じない方にも読んでいただけるように、そして前作を読んでくださっていた方々には前作との比較も楽しんでいただけるように心がけたいです。
お気に召していただければ、ぜひぜひブクマお願いいたします。
広い世界に出て、初めて自分の無力を知る。
無知を知る。
閉ざされた小さな世界で、大切に慈しまれ守られて、それが世界の全てだと疑うこともなかったつい先ほどまでの自分を、今は哀れにさえ思う。
彼は、やや現実逃避気味にそう思ったのだが、現実逃避したくなるのにも理由がある。
その理由とは、今まさに彼の目の前で巨大な顎を惜しみなく披露している謎の危険生物である。
その生物の名称も、珍しいのかありふれているのかということも、乏しい彼の知識では判別出来ない。判別出来ないが…それが彼のことを本日のランチにしようとしていることだけは、どうも確実らしかった。
要するに、彼は今、危険生物に捕食されそうになっているのである。
「……………ァ…」
悲鳴を上げようにも、喉が貼り付くようで声が出ない。逃げ出そうにも、脚が動かない。他の対策を考えようにも、脳ミソがフリーズを起こしている。
もう、自分に出来ることは最期の祈りを捧げること、或いは祈りなんて知らない危険生物の代わりに食前の祈りを捧げてやること…くらいのように思われた。
けれども、祈りの概念も習慣も持っていない危険生物は、彼にその暇を与えてくれることもなく。
その巨大で凶悪で獰猛な顎で、彼の上半身をぱくりとやろうとした、瞬間。
彼の目前…数値にすれば僅か三十センチもないかと思われる…で、突如危険生物は動きを止めた。
食欲に燃えていた瞳は、一瞬強い感情を閃かせて、すぐに沈黙した。そこから光がすぅっと失われ、虚ろなガラス玉に変わる。
それから、突如動かなくなったその危険生物は、ゆっくりと横に倒れていった。
地響きと土ぼこりを上げて、地面に倒れ伏す。
「………?…………???」
茫然とする彼の目に映ったのは、危険生物の太い胴体に刻まれた深い斬線と、そこから流れ出る大量の血液、その背後に佇む、一つの人影。
「……あの、大丈夫…ですか?」
場にそぐわないほんわかした声と口調で、人影は彼を気遣った。
その手に握られているのは、血濡れた抜き身のバスタードソード。
「え、あ…………はい」
何も考えられないまま、彼はその人影を……彼を危険生物から救ってくれた人物を見る。
それは、少女だった。
年齢は、おそらく彼と同程度、十代半ば。やや朱の混じる亜麻色のふんわりとした髪に、翡翠色の瞳。バスタードソードが両手大剣に見えるくらい、小柄な体躯。
春に咲く花のような、可憐な少女だった。
「このあたりは、危険な魔獣がたくさん生息してますので…気を付けてくださいね」
少女の口調には、恩着せがましさなど皆無だった。淡々と、そう言いながら倒れた魔獣の胴体をナイフで切り裂いていく。
そのグロテスクでスプラッタな光景を見ているうちに、ようやく彼の脳ミソがフリーズ状態から回復した。
「あ……あの!えと……その、あ…ありがとうございます!」
自分が絶体絶命のピンチだったことと、少女が鮮やかにそれを救ってくれたことに遅ればせながら気が付き、彼は慌てて頭を下げる。
しかし少女は、彼の謝意にまるで頓着せず、作業を続けるばかり。
「気にしないでください~、お仕事ですから」
そう言ったときの彼女の手には、魔獣の胴体から取り出された拳大の石が握られていた。
それが一体何なのか分からない彼だったが、彼女の目的はそれだったようだ。少女は、身体を大きく裂かれた魔獣を放り出して立ち上がる。
「それじゃ、失礼しました」
石を握りしめたまま、少女は踵を返す。
彼は、思わず呼び止めていた。
「あ、あの!」
振り返った少女に、これが最後のチャンスとばかりに叫ぶ。
「その、ボク…ハルトっていいます。あの、その、名前…………」
顔を真っ赤にしてしどろもどろなハルトの自己紹介に、少女はふわりと笑った。
彼の方へ向き直ると、一礼して
「私は、メルセデス。メルセデス=ラファティといいます」
そう名乗ると再び踵を返し、今度こそ歩き去って行った。
残されたのは、熱に浮かされたような一人の少年だけだった。
◆◆◆◆◆
ここは、魔界。世界の掃き溜め。創世主に見放された地。そして、魔王と呼ばれる神が治めていた地。
レオニール=アルバは、そんな魔界で魔王の後継者たる王太子に仕える、近衛騎士である。
「殿下……殿下?聞いておいでですか!?」
ポーっと浮ついた表情で呆けている王太子ハルトに、レオニールは何度目だか分からない問いかけ。
先ほどからずっとこうなのだ。と言うか、先日からずっとこうなのだ。
大方、地上界に迷い込んだときに何か衝撃的な出来事でもあったのだろう、とレオニールは推測する。判で押したようにぬるま湯な毎日を送るハルト王子の心を奪うのだから、そうとしか考えられない。
「…え、あ、うん、ごめん。何だったっけ?」
うんと言いつつ聞いていなかったことを馬鹿正直に白状する王子の素直さが、微笑ましくもあり悩ましくもあり。
「ですから、この後予定されていたトエル卿との謁見は、中止となりました。代わりに追加の陳情案件に目を……殿下!?」
「…え、あ、うん、ごめん。…で、何だっけ?」
レオニールは、特大の溜息をつきたい思いを必死に耐えた。いくら腑抜けた王子であろうと、主の前でそのような振舞いは決して許されることではない。
溜息をガマンした胸の奥が、少し震えた。
彼の仕える主、魔界の王太子ハルト=サクラーヴァ=ヴェルギリウス二世は、かつて魔界を治めていた魔王の唯一の嫡子であり、忘れ形見である。
そして、魔王の座を受け継ぐ存在である。
……のだが、王太子ハルトには、大きな…大きすぎる欠点があった。それはハルトのせいというよりは、周囲の臣下たちの責任であると思われるのだが、無視するには重大過ぎる欠点。
一言で言えば、ハルトはお飾りの王太子なのだ。
魔王を敬愛する魔族たちは、その忘れ形見であるハルトを溺愛した。蝶よ花よと、超々過保護に育てた(男子なのに)。
ハルトが何にも煩わされることがないように、障害は全て取り除かれた。全てがお膳立てされ、誘導された。
ハルトは、絶対安全な魔王城の奥深くで大切に大切に慈しまれ守られ、何一つ苦労も努力もする必要がなくぬるま湯の中で今までを生きてきてしまったのだ。
ハルトに与えられたのは、溢れんばかりの愛情と、崇敬。それはただ、ハルトが魔王の後継者であるがゆえ。
形ばかりの執務は行っている。だが、ハルトの裁可が必要な書類は事前に全て臣下によって内容が精査され、彼はそれを読む必要すらなく署名をすればいいだけ。
臣民との謁見も、陳情も、事前にお膳立ては済まされる。ハルトは、ただ鷹揚に頷くだけでいい。
魔王と言えば強大な力を持つ…というのがテンプレだが、武芸など危険極まる、という理由でハルトは剣を握ったことすらない。彼を甘やかす臣下たちは、敵は自分たちが全て排除する心づもりでいる。
…結果、ハルトは知識も常識も戦闘力も持ち合わせない、名ばかりの王太子となってしまった。
そのことについて、陰口を叩く者はいない。…否、今はいない、と言うべきか。
そしてかつては、いた。しかし、そういった輩は特に王太子を偏愛する一部の臣下によって、一人残らず粛清された。そして今に至る。
ハルトの近衛騎士であるレオニール自身は、主のそんな姿を苦渋の思いで見ていた。主の側近とは言え、現在魔界を動かしているのは、魔王の最高幹部であった武王と呼ばれる将軍たちだ。新参の若造であるレオニールが、彼らの方針に異を唱えることはできない。
できないのだが、このまま自分の仕える王太子がゆるゆると腐っていくのを黙って見ているのも、受け容れ難い。
だから折に触れ、武王にはハルトをもう少し鍛えた方がいいとやんわりと、遠回しに進言した。ハルト自身にも、もう少し魔王の責務について考えた方がいいとやんわりと、しかしかなり直接的に上奏した。
しかし上司も主君も彼の言葉に耳を傾けず、彼一人がただやきもきとするだけの時間が過ぎていった。
そして、彼が危惧していた事件が起こった。
つい数日前のことである。何の気まぐれか、魔王城の一角から出たことのないハルトがふらりと外出してしまったのだ。供もつけず、一人で。
そして不運な偶然が重なり、地上界…魔界とは異なる、人間や獣が住まう世界…に迷い込んでしまった。
無事に保護された後にハルトが語ったところによると、絶体絶命だった、らしい。謎の凶悪生物に食べられそうになり、もう駄目だと思った…と。
そして、間一髪のところで、一人の少女に救われたのだ…と。
その話を聞いたときレオニールは、それ見たことか、と思った。不敬かもしれないが、思った。口には出さなかったのだから許してほしい。
が、まがりなりにも次期魔王であるハルトが、地上界の魔獣ふぜいに襲われて窮地に陥ったということも、よりによって脆弱な廉族(人間種の総称である)に救われるということも、非常に情けない話である。魔界の恥と言ってもいい。
レオニールが口をすっぱくして言っていたように、少しでも武芸の鍛錬を積んでいれば、地上界の知識を学んでいれば、そんな恥を晒すこともなかったのだ。
それなのに、他の連中ときたら。
臣下たちは、殿下がご無事でなによりです良かった良かったと胸を撫でおろすばかりで、無謀なことをした王太子を叱ることも王太子にあるまじき恥を晒した彼を責めることもなく、ハルトはハルトで、命の危機に晒された感想が「ほんとビックリしたよー」だけ。
可憐な少女(ハルト談)に助けられたことを恥ずかしく思うこともなく、次はこんなことがないように鍛錬に励もうと決意することもなく。
ハルトが城を抜け出した、と知ったとき。無事に保護されたとき。
レオニールは、僅かばかり希望を抱いたのだ。
生まれて初めての大冒険(というには大げさだが)で、ハルトは何かを学んでくれるのではないか。自分のあるべき姿を、模索してくれるのではないか。
…そんな彼の希望…ほとんど願望…は、あっさりと消え去った。
他者がどれだけ言ったところで、本人に変わる気がなければ無駄だ。もしハルトがこれからも腑抜けたお飾りの王子であり続けるのならば、それはそれで仕方のないこと。
自分の呼びかけに答えたのも一瞬のことでまたもや心ここにあらずになったハルトを見遣り、レオニールは諦めに近い落胆を持て余していた。
「…追加の陳情案件の書類は、宰相閣下が既に準備しておいでです。後ほど、目を通していた」
「ねぇ、レオ」
それでも彼は、最低限の仕事だけでも片付けようと事務的に告げる…のだが、多分まったく聞いていなかったであろうハルトに、遮られてしまった。
「……なんでしょう?」
またぞろ腑抜けたことを言い出すのだろう、とレオニールは思ったが、主君にそんなこと言えるはずもなく。
「ボク、地上界に行こうと思うんだけどさ」
しかしそんな主君のぶっ飛んだ台詞に、一瞬言葉を失った。
「…………は……え…?地上界に……??」
そもそも、地上界で死にかけたのはつい先日のことではなかったか。酷い目に遭っておいて、何事もなかったかのように言える神経が信じられない。
「あの子……メルセデスって言ってたっけ。ボク、運命の出逢いだと思うんだよね」
「…………は、あ?」
なんだかんだ言いつつも忠義心の塊であるレオニールが、ハルトに対しこんな不躾な反応を見せることは、普段であれば絶対にない。
が、彼は今、取り繕うことすら忘れ去っていた。
「あの…殿下?畏れながら、それは殿下の勘違いだと思います」
「彼女のことが、忘れられないんだ」
ハルトは、レオニールの言葉を聞いていない。
「だから、地上界に行って彼女に会おうと思う」
「いえいえいえいえ、その、殿下、ご自分が何を仰っているのかお分かりですか!?」
ハルトは、魔界の王太子。いずれ魔王となる身。敵対とまではいかなくても魔界と魔族に良い印象を抱いていない地上界に、そんな理由で赴くなど許されることではない。
いくらお飾りとは言え、王太子としての仕事は山積みなのだ、
「やだなぁ、レオ。自分の言ってることが分からないはずないでしょ。ボクは、メルセデスに会いに地上界に行くって言ってるんだよ」
自分の言葉の持つ意味をまるで考えず、無邪気に言うハルト。いよいよもって面倒なことになりそうだと、レオニールは頭を抱えた。
「……殿下、もし殿下がお望みであれば、その娘を魔界へと招聘いたしましょう。正式な伴侶として認めることは出来ないでしょうが、寵姫としてであれば」
「駄目だよ、そんなの」
魔界の王族であるハルトの立場としては至極当然な提案をしたレオニールだったが、ハルトは即却下。
「そんなの、こっちの勝手な都合じゃないか。彼女にも失礼だよ」
何故こんなときにだけ常識を持ち出すのだこの王子は、とレオニールは心の中だけで力いっぱいツッコんだ。
「…しかし、尊き御身が地上界のような下賤な場所へ赴かれるなど、容認するわけにもいきません。ましてや、たかが廉族の娘ごときに殿下がご行幸なさるなど……」
「ボクにとっては、たかがなんかじゃないんだよ」
ハルトは、少しだけ気分を害したようだった。
しかしそれをレオニールにぶつけることはせずに、すぐに夢見がちな表情になって、
「彼女を見たときにね、なんて言うか……全身に震えが走ったんだ」
それは、魔獣に襲われた恐怖…或いは助かったという安堵のせいではないか、とレオニールは思った。
「あの化け物を倒した彼女は、とても神々しくて綺麗だった」
それは、助けてもらったせいで美化しているだけではないか、とレオニールは思った。
「それに、彼女はボクに微笑みかけてくれたんだ。すっごい優しい目をしてた」
それは、非力な少年を安心させようと思った気配りにすぎないのではないか、とレオニールは思った。
「彼女はきっと、ボクを導いてくれる…そんな気がする」
「次期魔王ともあろう御方が導かれてたらダメでしょう!!」
我慢の限界が訪れ、レオニールは声に出してツッコんだ。
「でもレオ、これは王子だとかそういうことじゃなくてさ」
「殿下、どうしても地上界へ向かわれると仰るのならば、然るべき手続きを踏んでからにしてください!」
この後は、愛に身分や種族の差など関係ないとでも言い出すに決まってる、と確信し、レオニールは妥協しつつも現実的な提言をすることにした。
「宰相閣下にもご相談しまして、王太子殿下の行幸の日程を組みましょう。ルーディア聖教とかいう地上界の指導者にも通達しまして、殿下への謁見準備を…」
「えー、そんな大げさなのは嫌だよ」
ハルトは、自分の立場を今一つ理解していない…どころか、軽視しているように思われる。
お忍びで一時の火遊びを…というのは、物語の中だけで許されるのだ。
「大げさでもなんでも、殿下が地上界へ行くことをお望みであれば、このような形を取るしかありません。それがお嫌なら、廉族の娘のことなどお忘れください」
「……レオ、頭固いね…」
何故かそう言うハルトの表情と口調が憐憫まじりだったことに若干苛つきを感じなくもないレオニールだが、なんとか舌打ちは我慢してみせた。
世間知らずの王子様って実際どんな感じなのかよく分かりませんが、しばらくの間は主人公のヘタレっぷりが続きます。




