転移、そして放浪
よろしくお願いします。
人の姿が疎らな駅のホームで、ひときわ多くの荷物を持ちながら立っている黒髪の男。
彼────黒羽俐陽は電車の到着を待っていた。
手に持っているスマートフォンでツイッターを開き、『もうすぐ家に着きます! 帰ったら戦利品の写真あげる!』とツイート。
スマートフォンをジーンズのポケットにしまう。
同人誌即売会帰りの彼は、戦利品やあらかじめ準備した携行品の残りが入ったリュックサックに、コスプレ衣装が入ったキャリーケースと黒いビニール袋を携えている。
リュックサックには大量のアニメキャラのキーホルダーや缶バッジ。キャリーケースには大量のシール。Tシャツの前面にもまた、隙間もないほど大きくプリントされたアニメキャラ────役満である。
(楽しかったなぁ。早く帰って、家でゆっくり戦利品のチェックしたい)
アニメやゲーム、それに漫画や映画を分け隔てなく愛する、いわゆる「オタク」である俐陽。
今日は至福の一日だった。
お目当てのサークルの作品も手に入れられて、自作の衣装で臨んだコスプレの評判も上々だった俐陽は自ずとその頰が緩む。
そして何より────。
(まさかコスプレしてるところに、〈黒パラ〉の作者さんが直々にいらっしゃるとは……しかも、まさかの金髪碧眼美人!)
〈黒の騎士 -冒険者やってたら、いつのまにか最強の騎士になってました-〉、通称〈黒パラ〉。
白井黒太郎先生が描くこのライトノベルの大ファンである俐陽は、寝る時間は勿論、アニメを観る時間をも惜しまずに主人公[ライティ]とヒロイン[ヴァルエラ]の衣装を作り、今日の同人誌即売会に参加した。
主人公のコスプレ────黒い甲冑姿でいた俐陽に声をかけた女性がいたのだが、その女性がまさかの白井先生自身だったのだ。
もはや人間離れしていると言ってもいいほどの美人だった白井先生の前で浮き足立った俐陽は閉会までつらつらと〈黒パラ〉の魅力を語り尽くすというオタクぶりを発揮した。
その結果、せっかく用意したヴァルエラの衣装に着替え損ねたのだが、そんなことはテンションの上がっている彼にとって些事であった。
(二次元もいいけど、三次元もいい……。それに気づかせてくれた白井先生、ありがとう……!)
そんな益体の無いことを考える俐陽、その耳に構内アナウンスが流れ込む。
『まもなく一番線に電車が参ります。黄色い線の内側までお下がり下さい』
ふと視線を落とし、自身の立ち位置を確認する。問題はない。
警笛が耳を突く。次第に電車の灯すライトが見え、規則的な走行音が響いてくる。
家、もといお楽しみタイムが少しずつ近づく実感に笑みを浮かべる俐陽────その時だった。
ドン、と背中に強い衝撃。
声を出す間もなく、俐陽の身体は線路上。
左から電車がゆっくりと迫ってくる。
あぁ、俺はここで終わるんだ。
そう悟る。
思い返してみればなんてことはない普通の人生だった。
生まれて遊んで勉強して働いて────走馬灯のように今までの人生が流れていく。
そして、今を通り過ぎたその先に見えたのは死。
あぁ、叶うことなら────。
(買った同人誌読んでから死にたかったなぁ)
俐陽の意識は、途切れた。
◇◇◇
何も見えない。
何も聞こえない。
それを知覚する自分だけがいる。
闇の世界。
自分の肉体と空間との境がない。
肉体が、精神が、闇に溶け出す。
魂に闇が混じる。
魂が黒に染まる。
魂が少しずつ朽ちていく。
一筋の光。
闇が闇へと変わる。
黒が黒へと変わる。
ああ、自分はこれを知っている。
この温かさを知っている。
これは肉体でもなく、精神でもなく、魂に刻みつけられている。
闇が魂を形作っていく。
黒が魂を彩っていく。
魂が黒い光に満ちていく。
◇◇◇
冷たい風が頰を撫でる感覚で俐陽は目を覚ます。
朧気な意識のまま、仰向けになった状態から少し身体を起こし、周囲を見回した。
そこは鬱蒼とした薄暗い森だった。
前後左右、何度見回しても一面の森林。人間の胴体より一回りも二回りも太い樹木が、いくつも地に根を下ろして鎮座している。
オレンジ色の陽光が風に揺られる枝葉の隙間から差し込んでいるのを見るに、おそらく今は夕方のようだ。
「ど、どこ、ここ……?」
俐陽は突然の変化に内心の整理をつけられず、思わず言葉を漏らす。
(俺は何をしてた……? そうだ、イベントに行って、帰りの電車待ってて、それで線路に……!!)
思い出すと同時に嫌な汗が全身から噴き出す。
慌てて身体全体をペタペタと触って、隈なく調べてみるが、特に怪我などの異常は見当たらなかった。
肉体的には無事であることにひとまず安堵し、一息をつく。
「間違いなく電車に撥ねられたはず……なんだけど。なんで生きてるんだ……? ……あれか、GANTZか」
冗談を言えるくらいには精神的な余裕が出来た俐陽は改めて周囲を観察し始めた。
すると、黒い球体────は見つからなかったが、背の高い草に隠れた自分の所持品を見つけた。
リュックサックにキャリーケース、黒いビニール袋。
重さもあの時と変わらないことから、中身もそのまま入っていそうだ。
(中身の確認はしたいけど、ここで荷物広げてたら森のクマさんに出会いましたってなるとシャレにならないからな……)
俐陽はそのまま荷物を持つ。
そういえばあの時持っていたものと言えば、と、ポケットに入っていたスマートフォンのことを思い出す。
日付は変わっておらず、時刻は先ほどの電車の到着時刻から少し過ぎた一八時半ごろを表示している。つまりはそれほど時間は経っていない。
GPS機能でここが何処かわかるのではないかと期待したが、電源はつくものの、圏外を示している。電波は届いていないようだ。
俐陽はガックリと肩を落とし、スマートフォンをポケットに入れる。
気を取り直し、この場から離れて何処か向かえる場所はないか、周囲を見渡す。
三六〇度、木、木、木……だが、ある方向に木や葉に隠れてうっすらと岩肌が見える。
どれほど続いているかも、何が出てくるかもわからない森林を歩くよりは何かありそうな所へ歩くべきだと判断した俐陽は、その方向へと歩みを進め始めた。
風に戦ぐ若芽がサラサラと音を立て、彼を見送る。
◇◇◇
草木をかき分け、道無き道に苦闘しながら歩くこと一〇分。
ようやく、遠くから見えていた岩肌の下に辿り着く。
とてつもなく高い岸壁。
真下からだと一番上が見えず、湾曲しているからか左右もどこまで続いているのかわからない。
「せっかく来ても登れるわけでもないし、無駄足だったかな…………ん?」
崖であったことに落胆した俐陽だったが、ふと気づく。
少し左に行った場所の壁、そこに大人二人が並んで入れるくらいの大きさの洞穴が空いている。
近づいて中を覗いてみると、奥深くまで続いていることがわかる。
(熊とかが入れるサイズでもないし、入ってみるか。何もなかったら戻ればいいか)
そう考えた俐陽は、真後ろにキャリーケースを引きずりながら洞穴の中へ入る。
中は暗く、足元を見るのも覚束おぼつかない。
俐陽はポケットからスマートフォンを取り出し、ライトを点ける。
それをビニール袋で塞がった左手で無理やり持ちながら、洞穴内を照らす。
普段は何が通ることもなく空気の流れがないのか、息をすると淀んだ空気が肺に入り込む。
歩くと土埃が舞い、さらに空気を汚していく。
洞穴の中であるから、当然日光も差さず、土石のみが存在する殺風景な光景。
途中からは土埃と土汚れでもう戻りたい気分でいっぱいの俐陽だったが、そんなことを考えた時にはもう戻るのも億劫になるほど進んでしまっていたらしい。
振り返れば、先ほどの入口から差し込む光が微かなものになっている。
右に左に曲がりくねる洞穴を一〇分ほど歩いただろうか。
先の方に光が見える。何かしら明るいところに抜けられそうだ。
黙々と歩みを進め、光差す場所へと辿り着く。
そこは外ではなく、相も変わらず洞穴の中。
しかし、先ほどまで俐陽が通ってきた狭い道とは比べ物にならない、大きなドーム状に開けた場所だった。
高さは五〇メートルを超えそうなほど高く、それ以上に水平方向の広さが二〇〇メートル四方はあるだろう。
天井には穴が空いており、そこから陽の光が差し込んでいる。光源はそれしかないようだが、天井の穴が
大きいため、不便しないほどには明るい。
背丈の短い草や苔などが多く生えており、俐陽の腰ほどの直径を持つ岩が多数転がっている。
だが、俐陽の黒い瞳にそれらは一切映っていない。
彼の視線が釘付けになる先、そこには。
(ド、ドラゴン────!?)