ラプチャー7
喧噪すらも愛おしい、木枯らしの吹く初冬。軽やかな電子音のあと、冷えた空気を潤すかのような温風が少女の肌を撫でた。絹のようなそれは、コンクリートの外壁に取り付けられた冷暖房機具から流れている。
非の打ちどころのない、冬の香りと幕開け。地上は景色が変わるのが早い。スティルトンにはそれが目まぐるしいとも感じさせた。
彼女の居場所はここではない――地下だ。誰も通らない、通ろうとしない路地裏。錆びた扉を開けると長い階段が続く。その終点には、頑丈な鉄扉がある。合言葉を唱えると、その先には九龍城の如く楼閣が聳え立つのだ。その姿は、恐れであり、畏れ。これらの籠城を創ったのはスティルトン……棚畑喜丞でも、信者でもない。――長い年月がそこにあるのだ。
あの城も、かつては誰かの住処だった。顔も名前も知らないその住民たちに、彼女は共感を覚えた。……あの場所はとかく生きづらい。無造作に取り付けられた換気扇の群れは唸り、日の光は当たらず、そこには目を差すような人工光があるのみ。
――――……それでも、
それでも、彼女たちはあの場所を選んだ。苦痛、憎悪、枯渇……それらの入り混じったあの世界には、確かな“救い”があったからだ。そしてあそこは、どこか懐かしい。
確かな救い……喜丞が、果たすべき役目のことだ。その対象は、信者に限ったことではない。
「――――ジョウ、キジョウ。
……喜丞」
――――……!
水を顔にかけられたかのように、はっと目を見開いた。……そうだった、ここは地上。そして隣には――
「……どうした」
「ごめんごめん、なんでもないよ。……少し、考え事をね」
隣には、指扇捷子の姿があった。「キナバについて、詳しく話をしたい」、彼女のその要望を聞き入れ、人に塗れた地上に足を運んだのだ。
「それにしてもいいのかいショーコ、仕事でもないのにこうして落ち合って。公私混同してない?」「何を今更」「……まあ、確かに」
「他にも妙に仲のいい二人組はいるからな」と付け加え、捷子はジャンクフードの店に入った。
出会った当初、彼女が自ら本名と自身の生い立ちを話したのには驚いた。わざわざ局が個人情報を守るソウルネームを与えたのにも関わらず、それを彼女は自分に対して一気に崩した。どうやら自分以外には明かしていないらしい。……その理由はわからないが、あのときの縋るような瞳は今でも忘れられない。だからこそ、受け入れた。「棚畑喜丞」という存在が、救う立場の人間であるからこそ見逃せない事実だった。
――……それなのに。
「さて……お前は何がいい?」
「何がって……何が?」
「ハンバーガーがいいか、ホットドッグがいいか」
「…………?」
BGMを掻き消すほど、人の声であふれた店。壁や床はカラフルなチョコレートのようにつやつやとしている。いかにも、“カートゥーン調”のような子供っぽい場所だが、そこにいるのは老若男女さまざまだった。その一角で、バルーンのように膨らみを持ったソファが二人を迎えた。
捷子はオレンジ色のキャンディのようなテーブルに取り付けられたメニューパッドを眺めている。時折指でスライドしたり、タップして成分表を見たり。
「まさか……知らないのか?」
「ご、ごめん……カレーなら、食べたことあるんだけど」
「謝る必要ないだろう。カレーか……」
二回ほどスライドし、メニューを喜丞の方へ向けた。「チーズカレーバーガー」という文字の下に、野菜や肉が挟まれた料理の写真が載っている。
「これならどうだ」「おお、カレー……それにする」
注文画面を開き、捷子は「チーズカレーバーガーセット」を二つ入力した。画面がすらすらと動き、金額が表示されていく。
「ドリンクはミルクティーでいいか?」「あるのか!」「ある。そして喜丞が好きなのも知ってる」
軽やかにタップし、ミルクティーとホットコーヒーがセット内容に追加された。あとはたぶん、待つだけだろう。
「今日は私が奢る。呼び出したのはこっちだからな」
「いや、悪いよ……私だって金くらいある」「情報提供料だ」「……」
「これでも安いくらいだ。……ありがとう」と、捷子は深々と頭を下げた。それを見て喜丞がたじろいでいる間に、注文の品が来た。
捷子の見よう見まねで、ラッピングを剥がした。パンのような生地が肉と野菜、キーマカレーを挟んでいる。メニュー通りだ。
喜丞は両手でそれを持ち、口を小さく開け齧る。そしてその後、大きな口で頬張った。
「そういえば、この前とんでもない虚に鉢合わせた」ハンバーガーを片手に捷子が呟いた。
「二体なんだが……どうも手こずってな、応援を頼んだほどだった。私ともう一人じゃどうも……ん? あれ……」
「……? どうした?」
「いや……当番、誰とだったかな……」
数秒唸ったが、「……まあいいか」香ばしく焼かれた肉にかぶりついた。
「じゃあ……本題に移ってもいいか」
「ああ、もちろん」
捷子は少しぬるくなったコーヒーで喉を潤し、喜丞をじっと見つめた。