食材と贖罪4
〈育児日記11〉
ようやく三年生に上がり、中学年になった。
二年生でバラバラだった乙ちゃんとまた同じクラスになれたらしい。
今日は算数がなかなかの強敵だったらしく、乙ちゃんと二人で覚えたそう。
確かに今日は帰ってからも何かぶつぶつ言っていた。「3.1415……」、ああ、お馴染みのあれね。まだやってるんだ、懐かしい。
さて、私も研究を続けないと。大人になっても学ぶことは尽きない。
・ ・ ・
ギアーズの集会が終わった後、ロックフォールは思案に耽っていた。隣にはスティルトン、柔らかい色のベンチに並んで座る。
彼女は狼狽していた。
ロックフォール――指扇捷子の片脚は、無機質な義足。ギアーズ加入前最後の戦争で、その勝利と引き換えに足と仲間を失った。
本来自分のもの一つだけでいいはずのドッグタグは三つ、彼女の首から下げられており詰襟の下に隠れている。
今まで幾度となく仲間は消えていった。すべて殉死。ゆえに、指扇家の人間は非常に数が多い。分家を認めない、養子を取らない。そんな一家であるにもかかわらず、捷子と面識のない者は少なくない。
そのうちのたった一人。数多の弾丸のうちの、たった一発。父親ではなく母親が指扇の血を引いてるため、命令はすべて母親から下された。
おそらく……いやきっと、母親は捷子自身が死んでもその頬を濡らすことなど一瞬たりともないだろう。駒がなくなった、ただそれだけ。駒が多ければ、そのうちの一つの価値はもちろん下がる。
今まで、たくさんの殺しをしてきた。たくさんの死を見てきた。命の重さや生の尊さ、捷子にとってそれは人生で最もくだらない方程式だった。嫌でもやらねばならないのだ、躊躇ったら自分が死ぬ。
だが、その観念は大きく覆された。
自分のミスで、仲間を失ったという事実。足がなくても代わりはある。しかし自身のミスによって失った仲間に、代替できるものなどないのだ。命の重さと生の尊さに対する、背負いきれない責任だ。
――――……もう殺しはしたくない。
これ以上、誰かを失うリスクを背負いたくない。
なら自分は一体、どうすればいいのか。思案の中に落ちる。
そもそもなぜ、魔法で統治する国になったのか。そこがなければ、ギアーズなど生まれない。
――――……交響曲。
30年ほど前に起こった、凄惨な事件。東日本中が、その脅威に脅かされた。
そこではすべてのコンピューターが機能を停止した――電気は通らない、エレベーターに閉じ込められる、諸々の設備が動かなったり壊れたり。人命にも大きな影響を与えた。
機械に依存していたあの時代、あの一瞬だけが、機械に対する信用を人々が失った。それまであった技術――それは科学も含まれる――は、すべて否定された。
そこで生まれたのが、魔法。新しい、国を治めるための技術。概念ともいえる、尊き存在。
ただ、不確定要素が多すぎるため、その存在は国家機密だ。もっと魔法をはっきりと形ある概念に出来たら、世に出回るだろう。
しかし、新しいものは何かと否定される。その台頭となったのが葦原研究所だ。彼らは交響曲で一度、自らの技術を否定されたのだ。……ある意味、魔法を嫌うのも無理はない。
なら、どうすればいい? バケモノと戦うのは実に気が楽だった。異種という、完全なる敵だったのだから。だがラボは違う。彼らには彼らの、真っ当な理由があるのだ。戦争とは、正義の潰し合いなのだ。
「また何か考え事? ロックフォー……じゃなかった、“ショーコ”」
「! ……ああ、すまない」
「いいんだ。……あんなことがあっちゃ、物思いに耽るのも無理ないよ」
スティルトンは赤い筒型のアクセサリーでまとめられた髪束を揺らし、俯いた。彼女もショックだったのは意外だった、ギアーズの中でも特に謎に包まれた人物だったから。その不思議な魅力があったゆえ、捷子は自身の生い立ちを打ち明けてみたくなったのだ。それがきっかけで、こうして会話をする仲にもなった。
「なあ……君は、今の日本についてどう思う」
「今、か……。
……実に、息苦しくて生きづらいね」
「というと?」
「……すべての自由が与えられているように見せかけて、あらゆるものが制限されている。教育、労働、芸術……国民の幸福度を高めたいからだ。今じゃ日本人は、“suicide”なんて英単語も知らない」
「……それの何がいけないんだ」
「不自由なんだよ。自由ってのは責任が伴うものだ、無責任な行為にも、責任は重くのしかかる。今はその責任が国民から奪われている。良くも悪くも。
この国は、ユートピアに見せかけたディストピアなんだよ。喫茶店のメニューは実に豊富だろう? 中華、インド、イタリア、イギリス……より取り見取りだ。だから国民はなかなか海外に行かなくなった。本物よりも、味わった経験に重きを置いているんだ。
ただ、選択肢が多ければいいってもんじゃない。……『選択する』という時点で、何かしらに縛られているんだよ。自由かと聞かれたら、答えは否だ」
これは本当の幸せじゃない、とスティルトンは付け加え、大きく空を仰いだ。
「……博識だな」
戦うためだけの知識しか詰め込まれてこなかった捷子にとって、スティルトンの話は新鮮だった。彼女は自分の知らないずっと多くのことを知っている。それに知っているだけじゃない、その知識を思考し、活かすことのできる人間。
「そうかな……。今も本当は、この生きづらさに苦しんでいる人は多いんだよ。輝かしさが強ければ、その影も濃くなる。この世界は正しくない……だから私は、それを正すためにギアーズに入ることを決めたんだ」