苦し紛れのビビディバビディブー
「…………で、
最近何かあったのか? コトカ」
清潔を極めた白い部屋。言うまでもなく、病室だ。窓は締め切っていて、代わりに冷房の稼働する音がしている。
プラスチック製のテーブルを二人ずつ挟んで、つまり計四人がそこにいた。
雪平コトカ、高天原中央病院院長の御中、そこで勤務する看護師の巣日、コトカの年の離れたいとこの臣。ここにいる誰もが、コトカの記憶喪失という状況に深く関わっている。コトカが退院を許される代わりに課された、月一度の定期検診だ。
御中の問いかけに、コトカは呟くように、それでもはっきりと答えた。
「友達が……できました」
おお、と三人分の小さな歓声が響く。記憶のないコトカにとって、友情を持ちあわせていなかったのは当然のことであった。
諦めて新しい記憶で埋めるべきか、元の記憶を取り戻すか。
これが大きな課題となっている。いつ記憶が戻るのか? 戻ったらどうなるのか? そもそもどうして、記憶を失ったのか? ……何もわかっていないのである。
ただ、時が流れれば嫌でも記憶は蓄積されていく。だからこうして、細かいことでも報告する必要がある。今後の研究のために。
巣日尊が診断パネルを見て呟く。
「健康状態は良好……。先生、これからどうコトカちゃんを診ていくの? ねえ、臣ちゃん?」
「まあ……記憶は取り戻せてないわけだし……」
「んー……難しいな、何度も言っているが、下手にイジったらどうなるかわからない
……コトカはどうしたい?」
“コトカはどうしたい?”
何気ない一言だったが、コトカにとってはどんな言葉よりも重い。
――――そんなの、どう考えたって、
「……私は、
記憶を全部取り戻したいです。これから先どんなに新しいことを覚えても、十年以上の空白……からっぽがあるんです。今だって。――私の叶えたいことは、個性も自信もない自分……『からっぽの自分を変えること』。記憶がなきゃ、ずっと何もないままなんです」
「…………」
白い空間に沈黙が続く。――それを破ったのは尊だった。彼はくすりと笑った後、母のような眼差しでコトカと目を合わせた。
「……そうよね。コトちゃんの不安は、コトちゃんだけのものよね。その通りにしましょう。不安は個人のものだけど、その手助けはできるわ。ねえ、二人とも?」
「……っすね」「だな。でないと高福祉施設の名が廃る」
「…………ありがとう、ございます」
綿菓子のような感覚が、コトカの胸の中に生まれた。成功するかはわからないけれど、失敗するかもわからない。それなら、試してみた方が絶対に良い。
病院の帰り道には、紫陽花が淡い青色や紫色に色づいていた。雨の気配を感じていても、その先の虹を見ることができるのではないかという儚く尊い感情に満たされているのだ。
今だけは、なんでもできるような気がした。……今だけは。