歯車と卵
『メルト&メモリィ』
黒い深海にいるような感覚だ
水面に溢れるほどの光が注がれてても
ここまでは届かない、余りものさえ寄り付かない
どうして、どうして、どうして
真っ暗で真っ黒だ、輪郭すらもわからない
……苦しい
苦しい苦しい苦しい!
…………ねえ神様
わたしはどこにいるの、
ひとりでないてくるしんで
ひかりをあびるしかくもない
さよなら、
・
・
・
……――ゆっくりと目を開ける。
だんだんと広くなる視界に、白が飛び込んだ。呼吸の音が鼓膜を震わせている。そして電子音が一定間隔で鳴り、自身の鼓動と共鳴しているようだった。朦朧とした中あたりを見渡す。
「…………?」
『あっ……お目覚めになりましたか……? 今すぐ先生を呼んできます!』
「せん……せい…………?」
――ここはどこ? わたしは…………、
――――わたしは?
『御中先生……! 雪平さん……雪平コトカさんが目を覚ましました! 至急、PT棟へお願いします!』
――ああ、そうなのか、
――わたしはゆきひらことかっていうのか。
・
・
・
けたたましい目覚まし時計の音で目が覚める。
雪平コトカは。瞼を刺すような日光に顔を歪ませた。かつて病院で見た機械的なものとは違う、自然光である。
初めてPT棟で目を覚ましたときには、既に記憶はからっぽだった。足し算や簡単な漢字――基本的なものは覚えていたが、大事な家族や友達の記憶が何一つないのだ。
「さっきのは……夢か」
ベッドから上半身だけを起こし、厚手のカーテンを開けた。
マンションの窓から見える景色は灰色だ。朝はビルの群れが死んだように佇む時刻。
まだ温まらない空気は春でも少し肌寒い。
――――今日は休日なのに……。アラームを消し忘れたのか……?
――――……ああ、思い出した。招待状だ。そのためにアラームをつけておいたんだった。
「……行こう」
ベッドから降り、顔を洗った。突然の冷たさに皮膚が引き締まったようだ。
着替えるために、クローゼットから服を引っ張り出す。クローゼット内に設置されたファンの音が微かに響いている。服を湿気から守るためのものだ。
自分の身分がわかってはいけないようなので、制服ではなく休日によく着るピンク色のパーカーと、ひだの少ないグレーのプリーツスカートにした。
国家管理局に行くのだからそれに相応しい格好をしたいが、そんな服は持っていない。それでも一応、ソックスは地味なブラックで丈の長いものにした。
そして最後に、色素が薄く肩まで伸びた跳ねの多いくせ毛を梳かし、うなじの横あたりで二つに結わえた。これで完成だ。
かばんに招待状と必要最低限のものを入れ、自宅を出た。不安と期待が重なった緊張感は心地よく感じるほどだった。