御伽の国のコトカ6
風がコトカの頬を撫でた。ぴしぴしと冷たい、夜明け前のような冬の風。コトカはその冷たさにぎゅっと目を瞑った。
彼女は今、葦原研究所の門の前にいる。うずらと闌が偵察したときのようなこそこそしたやり方じゃない。堂々と、面と向かって話をするのだ。
「危ないと感じたら、御伽を食べて私たちを呼んでください」
ここへ来る前、うずらはコトカに忠告した。既にギグルにバレてしまっているうずらと闌が同じ場にいては逆効果だという結論に至ったのだ。今は近くのカフェでお茶でもしていることだろう。
コトカは空を見上げた。FASがゆったりと飛行船のように宙を渡っている。
【Flying Administering System】――つまり、「飛行型管理システム」。管理の対象はもちろん国民。国民の幸福度を高めるため、まずは高福祉な国家を築き上げよう、というものだ。この楕円型で立体感のある物体は上空を回り、ガードポールやセーフティーネットと連携して数々の事故や事件を未然に防いできた。ここ最近誕生した新たなシステムだが、その信頼度は高い。特に公園なんかはそうだ。例えば子どもがジャングルジムから落ちたら、セーフティーネットがすぐさま子どもを受け止める。
国家管理局の、素晴らしい「魔法」のシステムだ。けれど民衆は、その仕組みを知らない。
門のベルを鳴らした。自動で門が開き、コトカは足を踏み入れる。
「こんにちは、何かご用?」
入ってすぐ、コトカと同じ年くらいの少女が現れた。小柄で、髪も高めの位置で二つに分けて結んでいる子供らしい装いだった。彼女が例のギグルという女だろう。
ギグルはコトカを不思議そうに見つめていた。自分のような子どもがこんな研究所を訪ねてくることはなかなかないらしい。
きっと闌かうずらなら上手く嘘をついたりしてその隙に彼女を倒す、なんて真似をするに違いない。勝つためのやり方としてはそれが正しいのだろう、だけど。
「私は雪平コトカといいます。……国家管理局の者です」
「ッ……!? お前……!」
来客用の顔だったギグルが、一瞬でコトカに牙を剥いた。殺意という殺意が彼女の体じゅうにまとわれているのがコトカでも容易にわかった。心臓がばくばくと鳴って、全身の血液が冷え切っていくのを感じる。でも、やらなくちゃ。
「お願い、怒らないで。あなたと戦いたいわけじゃない」
「どの口が言う! 散々子どもたちを、仲間を殺したくせに!」
「……その通りです。私たちは見える敵全てをなくそうとしました。人でも、人じゃないものでも。魔法を使い続けるためには、虚っていう怪物と戦わなくちゃいけなくて。それに飽き足らず、逆らう人にも攻撃をして。そのくせ、これらの事実をひた隠しにしている」
ギグルは鼻で嗤った。右腕から血管が浮き出ていて、今にもコトカの頭を握りつぶそうという勢いだった。
「ウロ? ……って、ナニソレ。おとぎ話に付き合ってる暇ないんだけど?」
「ごめんなさい、本当なの。魔法を生んでしまったばっかりに、空っぽの生き物がその魔力欲しさにこちらを襲ってくるんです」
まるで記憶に縋る私のように、と心の中で自嘲した。けれど、ギグルはコトカの話を一切信じようとしなかった。彼女からしてみれば、今のコトカはとんでもない馬鹿に見えているだろう。
「あんた、何のためにここに来たの? 死にに来たとしか思えないから、お望み通りにしてあげるね……!」
ばりばりばり、と空気が裂ける音がした。
ギグルはコートの袖をまくり上げて、腕をコトカの眼前まで振りかぶった。ぎりぎりで避け、ギグルの腕はすぐ後ろの塀に突き刺さる。瓦礫ががらがらと落ちた。
まさに猛虎。瞳は獲物をしっかりととらえていて、その色は怒りに染まっていた。
それでも虎の前にいる鼠は逃げず反撃せず、視線をまっすぐ向ける。
「何の話をしに来たかって、聞いたよね。それは、私の抱えてる負債の話。魔法なんていう争いの元を作った張本人が遺した大きな負債。それを返すためにここに来たの。
お母さんの馬鹿な発明を、この手で終わらせるために……!」
――――――warning!――――――warning!!――――――warning!!!――――――――
瞬間、空が薄荷色に変わった。真っ黒な地面が揺れ、亀裂が走る。
「嘘でしょ……」
コトカは空の向こう、その地平線を震えた目で見た。いくらなんでもタイミングが悪すぎる。
ギグルも異変に気づかされ、変貌した世界を見渡した。
「何これ……何なの!?」
「これがその虚がやってくる合図。普通はこんなところに来ないんだけど……どうしてだろう」
うずらと闌は気づいているだろうか。でも、呼ぶにしたってこの状況じゃギグルとの交渉など夢のまた夢だ。
コトカはベルベット生地の小さな巾着から御伽を取り出し、噛んだ。
全身を光に包まれ、光がぱっと消えるとコトカは戦闘用の衣装に変身していた。ピンク色のスカートがふわりと揺れる。
「やるしかない」
地割れのような音が轟くと、虚が姿を現した。空の天井に届きそうなほど大きく、コトカとギグルに濃い影を落とした。